旅のまにまに


たかが……されど……。
これが『満鉄』のマンホール。
レールに満鉄のMのマークを彫り込んであるのが、おわかりいただけますか?
彼は誰よりもこの街をよく知っている。(中国・丹東の路上にて撮影)



その八・開拓魂悠悠

 昨年の正月、私は中国・東北地方、いわゆる旧満州と呼ばれる地域を旅した。

 なんでそんなクソ寒い時期に行ったのか?
と、思われるかも知れないが、真の目的はまた後日に紹介するとして、もう一つ現在も
残る満州の街並み、特に大連の街をこの目で見てみたい、という想いがあったからだ。
 なので、泊まりは『大連賓館』を予約した。
???、と思われる方もいるかとは思うがこのホテルこそ戦前、南満州鉄道(以下満鉄)
が直営し日本資本を代表する最高級ホテル『ヤマトホテル』の現在の姿なのである。
 戦災によって大都市のほとんどが消失した本土とは違い、多くの不幸があったけれど
も奇跡的にも戦火に晒されることが無かったこれら満州諸都市は今なお当時の面影を残
している。が、年月と共に古くさくなっていくのは否めなく、当時は満州一を誇ってい
たヤマトホテルも今や三ツ星クラスなのは新しモノ大好きの中国人のこと、致し方ない
のかも知れない。
 しかし、大連に行くときは是非ここに泊まるんだ、というのが夢であったので無理に
旅行会社に頼み込んで予約を取ってもらったために、航空券の代金の半分近くまでに料
金がかかってしまったが、自分で無理言ったリクエストなので少々高くても悔いはない。
 しかし、いざ出発の段になって、正月休みを多く取るため無理に仕事をしすぎたせい
か、直前に風邪をこじらせ、出発当日もかなり熱が出たままの状態が続く。
 もう中止にしようかと思ったくらいであるが、折角予約したことなので、フラフラの
まま関空へ向かう。チェックイン時に、荷物が多いので代わりに預かってもらえません
か? と声をかけてきた美しい中国人女性が、機内でもしんどそうな私を見かねてか、
大連・周水子空港に着いたときに、私は駅まで乗るので御礼に、と大連賓館までタクシ
ーで連れていってくれ。あの時は名前をお聞きしなかったが、本当にありがとう。
 さぁ、着きましたよ、と降ろしてもらったそこは、私の思い描いていたとおりの『ヤ
マトホテル』が、その辿ってきた歴史を滲ませつつ堂々としている姿を見、熱が出てい
るのなんか吹き飛んでしまい、しばらくそこに立ち続けてしまった。
 まさに、心躍る、とはこのことである。
 しばらくして落ち着いてきたので、やっと一歩中へ入ると、薄暗くレトロ調な広いロ
ビーに高い天井、古くいいツヤの出ている螺旋階段……あぁっ! なんて素晴らしいん
だ。けど、少し近代化してショボいフロントと微かに漂う人民中華のかほりが、やはり
現在の姿を象徴していて、少し残念ではある。
 やっとのこさ、フロントにクーポン券を渡すとかわりにカードキーをくれた。部屋番
号は303、なのでエレベーターに乗り、降りると、横に昔ながらのカギおばさんが暇
そうに座ってタバコをふかしている。おいおい、こんなに近代化されているのにさすが
は共産圏、とキーをおばさんに見せると、笑いながら『自分でかってにしな』という手
振りで追い払われてしまう。ということはこのおばさん、一体何をしているのだろう?
 自力で部屋を見つけてカードを差し込んで入ると、本当に全く手を着けていないかの
ように、昔の浪漫あふれる雰囲気が漂い、しかも部屋は正面玄関の真上に位置している
ため、窓からは中山広場や旧横浜正金銀行はじめ旧大連中心部のレトロな建築物がライ
トアップされて目の前にこれでもか! と広がっている、もう、熱や風邪なんかどこへ
やら、である(実際、本当に治ってしまった)。
 翌日、早くに目が覚めると、前の中山広場では、無数の人達が太極拳をしてのんびり
としているが、テレビを付けると今の気温はなんとマイナス9度。さすがは人民、寒さ
には滅法強いわぁ。
 ふと、昨日切符を買いに行った大連駅に、
『温暖之地大連、熱烈歓迎』
と書いてあったのを思いだした。そうか、こんな大連でもあったかいんだ……その事実
をほんの数日後には思い知らされるのであるが、それもまたの機会に。
 他にも満州国時代の遺物……大連駅に中山広場の建物群、旅順そして路面電車がこれ
でもかと元気な姿を見せてくれ、先人達の情熱がひしひしと伝わってくるいい街だ。

 その翌日、私は中朝国境・鴨緑江岸の丹東という街にいた。
 この丹東という街は、昔は安東と呼ばれ、朝鮮・満州国境の要衝として釜山から奉天
(沈陽)や新京(長春)へ向かう急行『ひかり号』や『のぞみ号』もこの川に架かる大
鉄橋を渡ってこの街に停車するなど大いに賑わっていた。しかし残念ながら今ではその
大鉄橋も朝鮮戦争によって破壊され、東京からモスクワ・ベルリン行きのユーラシア急
行も今では夢物語でしかないのだが。
 実はこの街には別の目的で来たのだが、今でも北朝鮮との数少ない交流の街であり、
町中には多くの朝鮮系市場や焼肉・冷麺屋が建ち並んでいて、大いに賑わっている。
 そして、朝鮮戦争を記録している『抗美援朝記念館』へと向かう途中、駅西側に広が
る住宅街の路上で思いがけないモノを見つけたのだ。
 それは、
『満鉄のマンホール』である。
 満鉄……戦前、旧満州に君臨した超巨大コンツェルンにて、その資本は当時の日本の
国家予算に匹敵するほどで、影ながら満州国を操っていた悪しき存在である、と現在一
部の歴史ではそう伝えられてはいるが、当時、満州という可能性未知数の地に赴いた開
拓者達に勇気と希望をあたえていた存在でもある。
 その名残が、こんな街の片隅で今なお残っていようとは思ってもいなかった。
 たしか安東の駅が開業したのが一九○八年ごろであるから、大方90年近くもこの街
を守り続けてきたのであろう。地図を開くと、丁度この辺は当時から整備された日本人
住宅街であったようで、よく見ると日本的な建築もちらほらと見受けられる。
 私は賑わっていた当時の情景が目の前に広がって見えるくらいに、このマンホールを
しばらくジッと見続けてしまった。多分、周りからはかなり変な奴が立ち止まっている
ぞ、なんて思われていたかも知れないが。
 しかし戦前、希望と情熱をもって本土からはるばる新天地・満州に訪れた多くの人達、
終戦直後、多くの迫害にあいボロボロになりながらもようやくこの街に辿り着き、涙な
がらに本土へ帰っていった人達、そしてやっと国民党に勝利して長き闘いに終止符を打
ったばかりなのに、アメリカと闘うために全土から召集され朝鮮の地へと散っていった
中国義勇兵、そして今も行き交う中朝の人達……この激動の時代を生き抜き、これら歴
史の偉大な先人達を道端で眺め続けていた満鉄マンホール、彼は誰よりもこの街をよく
知っている生き証人であろう。

 よく無事で生きてて下さった。
これからも丹東の人達を末永く見守り続けて欲しい。
と、私は彼にそっと話し、その場を後にした。


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