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グレアム・ヤング |
![]() グレアム・ヤング、お気に入りのポートレート ![]() 少年時代のグレアム・ヤング |
グレアム・ヤングは人を愛さなかった。愛したのは毒薬のみである。その魅力に取り憑かれた彼にとって、人はモルモットに過ぎなかったのだ。そんな彼にも尊敬する人物がいた。それはヴィクトリア朝時代の毒殺魔、ウィリアム・パーマーだった。 グレアムは1947年9月7日、ロンドンのニーズデンで生まれた。母親のマーガレットは妊娠中に胸膜炎を患い、出産の3ケ月後に結核で死亡した。幼いグレアムは父フレッドの妹ウィニーに預けられた。3年後に父がモリーと再婚すると、グレアムと、祖母に預けられていた長女のウィニフレッドは、一つ屋根の下で暮らすようになった。 グレアムと家族との関係はあまり良好ではなかった。特に何かと口喧しい継母モリーを嫌っていた。家で鼠の解剖をしていた時も、モリーはギャーギャー喚いて捨てさせた。翌日、彼は一枚の絵を居間に置いて登校した。それは墓石の絵で、碑銘には、 |
![]() ヤングの一家が住んでいた家(手前) |
グレアムの最初の犠牲者はクリス・ウィリアムズという同級生である。ヤングと喧嘩をした1週間後、激しい嘔吐に襲われたのだ。それはヤングから貰ったサンドウィッチを食べた直後のことだった。しかし、鈍感なウィリアムズはその後もヤングからサンドウィッチを貰い、そのたびに吐いた。そして、とうとう寝込んでしまった。 モリーの症状は日増しに悪くなって行った。まだ38歳だというのにすっかり老け込み、背中の痛みのために前屈みで歩くようになった。体重も急激に減り始め、数カ月のうちに老婆のようになってしまった。 モリーの遺体は検視解剖されることなく火葬された。土葬でなく火葬すべきだと主張したのはグレアムだった。今では火葬技術が進んでいるので、土葬よりも遥かに魂の安らぎが得られるというのがその理由だ。グレアムはいつもの「キチガイ博士」の口調でくどいほど力説したので、彼を黙らすためにフレッドは火葬を受け入れた。 |
![]() グレアムの父、フレッド・ヤング ![]() 叔母のウィニーと姉のウィニフレッド |
数日後、今度は父のフレッドが再び腹痛に見舞われ始めた。それは月曜日の朝に始まり、週末が近づくにつれて治まった。そして、月曜日になるとまた発作が起こる。後になって気づいたのだが、彼は日曜日の夜になるとグレアムとパブに出掛けていたのだ。あまりに痛みが酷いので入院したが、原因は判らなかった。しかし、フレッドは薄々気づいていた。グレアムが見舞いにやって来た時、彼は看護婦にこう云った。 グレアムが通う学校の理科の教師は、彼に実験室を自由に使わせていたことに些か後悔していた。先日は母が死に、今度は父が入院している。疑念を抱きつつグレアムの机を調べると、案の定、毒薬の瓶が数本入っていた。ノートには苦しみながら死んで行く男の絵、様々な毒薬を称える詩、そして、ウィリアム・パーマーやハーヴェイ・クリッペンに関するイラスト付エッセイ(彼は極悪非道さにおいてはパーマー、知名度においてはクリッペンを評価していた)など、毒薬に関することがビッシリと書き込まれていた。 |
![]() 14歳のグレアム・ヤング |
グレアムはブロードムアの最年少の患者だった。 グレアムが収容されて1ケ月後の1962年8月6日、ジョン・ベリッジという患者が痙攣を起こし、数時間後に死亡した。検視解剖の結果、死因はシアン化物による中毒死であることが判明した。直ちに院内の調査が行われたが、シアン化物は何処からも見つからなかった。結局、事件は迷宮入りになったのだが、忘れてはならないのは、この病院には毒薬の専門家がいるということである。彼は月桂樹の葉からシアン化物を抽出する方法を知っている。そして、病院の周辺には月桂樹が繁茂していたのだ。 グレアムが受けた具体的な治療は、鎮静剤を飲まされることだけだった。それ以外はほとんどフリーで、彼は部屋の中をナチスの戦犯たちの写真で飾りたてた。紅茶や砂糖などを入れる缶には髑髏マークと毒薬名を書き入れた。図書館への出入りも自由であり、読む本も制約されていなかった。彼は化学と毒薬の知識を益々広げて行った…。 1965年の暮れに、グレアムは退院許可の嘆願書を提出する権利を取得した。しかし、父のフレッドは「絶対に退院させてはならない」と申し入れた。嘆願を棄却されたグレアムは、ティーポットの中に浴槽用洗剤を混入した。これがバレてグレアムは集中監視棟に移されることになった。 71年2月4日、グレアム・ヤングは退院した。しかし、完治しているどころかパワーアップしていた。退院前に看護婦の一人にこのような本音を明かしている。 |
![]() 第二の舞台となったジョン・ハドランド社 ![]() グレアム・ヤング、お気に入りのポートレート |
ブロードムアを退院したグレアムは、その足で姉のウィニフレッド(既婚)の家へと向った。彼女はグレアムの退院は知っていたが、今日がその日だとは知らされていなかった。 ウィニフレッドの家でしばらく過ごしたグレアムは、スラウにある職業訓練所へと通った。ここでトレヴァー・スパークスという青年と友達になった。3日後、トレヴァーは激しい腹痛に襲われた。グレアムは献身的に看病した。その甲斐あって、遂に両足が麻痺してしまった。 やがてグレアムは、ジョン・ハドランド社の求人広告を眼にした。高速度撮影用の光学機器を製造している会社である。こういう会社では化学薬品を扱っている。それに、姉の家の近くにある。グレアムは早速、応募した。履歴書の「特記事項」の欄には、 4月23日、グレアムはハドランド社で面接を受けた。応対したゴッドフリー・フォスターは、グレアムの化学に対する知識に感心したが、それよりも興味を持ったのは、履歴書の「空白の9年間」だった。グレアムはこのように説明した。 |
![]() ボブ・エッグル ![]() フレッド・ビッグス ![]() ジェスロ・バット(グレアムと会う前→後) |
グレアムは5月10日からハドランド社の倉庫係として働き始めた。同僚たちはみな気さくで、一風変わった新人を歓迎した。特に倉庫管理部長のボブ・エッグルと、出荷担当のフレッド・ビッグスはグレアムを可愛がった。グレアムはそれに応えるかのように、手巻きの煙草を二人にあげた。そして、それまではバートレット夫人の仕事であった紅茶をワゴンで配る係を買って出た。 6月3日、ボブ・エッグルが激しい腹痛に見舞われて、しばらく寝込むことになった。 9月に入って、今度はフレッド・ビッグスが腹痛に襲われ始めた。 10月15日、ジェスロ・バットが残業をしていると、グレアムがこんなことを話し掛けてきた。 10月18日、遂にデヴィッド・ティルソンが入院した。この頃には頭髪が抜け始めていた。 10月30日、復調したフレッド・ビッグスがグレアムと紅茶を飲んだ直後にぶり返した。11月4日には入院したが、容態は悪くなる一方だ。そして11月19日、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死亡した。 |
![]() グレアム・ヤング、再逮捕 |
社員が既に二人も死んでいるのだ。尚且つ、死にかけている者も二人いる。これはただごとではないと、経営者のジョン・ハドランドは嘱託医のイアン・アンダーソンに調査を依頼した。考えられる原因はタリウムである。タリウムは高屈折率レンズの製造過程で使用されることがあるからだ。しかし、ハドランド社では現在は使われていなかった(実はグレアムはそれが目的で入社したのだが、使用されていないことを知り、わざわざ独自に入手したのである)。そこで、伝染性のウイルスが原因ではないかと考えた。その旨を社員を集めて説明し、平静を保つように求めた。 |
![]() グレアム・ヤング、再逮捕 |
グレアムの下宿を捜索した警察は、様々な薬瓶や試験管の他に『学生と警察のためのケースブック』と題された一冊のノートを押収した。いわば毒殺日記である。 フレッド・ビッグスの殺害で起訴された翌日、グレアムはハーヴェイ警視に全てを打ち明けた。そして、オスカー・ワイルドの『レディング監獄のバラード』を暗唱した。 男はみな、愛する者を殺すのだ、 一息ついて、グレアムは云った。 結局、グレアムは2件の殺人と2件の殺人未遂、その他諸々の傷害で有罪となり、終身刑を宣告された。退廷後、彼は姉と叔母に謝罪した。 1990年8月初旬、43歳の誕生日を2週間後に控えたグレアムは、バークハースト刑務所で心臓発作で死亡した。94年に発表された彼の映画『グレアム・ヤング毒殺日記』では、彼は自らを毒薬実験に用いて死亡したとされている。その真偽は判らないが、如何にも彼らしい死に方である。 |
| 参考文献 |
『グレアム・ヤング毒殺日記』アンソニー・ホールデン著(飛鳥新社) |