ウィリアム・パーマーはヴィクトリア朝時代の有名な毒殺魔である。後にグレアム・ヤングが「尊敬する人物」として挙げていたことから、その名がリバイバルした。グレアムはパーマーの「極悪非道さ」を高く評価していた。そして、その犯行を模倣していたふしがある。パーマーも家族に毒を盛っていたのだ。
1824年に生まれたパーマーは若い頃から相当のワルだった。17歳で奉公先の薬局で横領してクビになった。次の勤め先でも経営者の妻に手を出して追い出された。それでも頭は良かったようで、ロンドンで医師の資格を取得した。しかし、その頃から毒殺の疑惑が噂されていた。彼と酒を飲むと必ず具合が悪くなるのだ。或る時、彼と一緒に酒を飲んでいたジョージ・エイブリーという靴屋が急死した。死因は特定されなかったが、パーマーは彼の妻と不倫の真っ最中であった。
やがて故郷のスタッフォードシャーで開業医を始めたパーマーは、美しい妻を娶り、4人の子宝にも恵まれて、傍から見れば羨ましい限りだった。ところが、その実際は正反対。メイドに子を産ませたことで夫婦のいさかいは絶えなかった。そして、競馬で拵えた借金で家計は火の車だったのだ。
まもなくパーマーは、二つの問題を解決する一石二鳥の妙案を実行した。保険金殺人である。まず義母を、矢継ぎ早に妻を殺した。1万5千ポンドの保険金を受け取ると、それを元手に競走馬の厩舎を建てた。そして、以前にも増して競馬にのめり込んで行ったのであった。
「ギャンブル好きがギャンブルに強いとは限らない」というのは斉木しげるの例を出すまでもなく定説である。パーマーもその一人だった。下手の横好きというやつである。大規模になった分だけ出費は嵩み、保険金をあっと云う間に使い果たしてしまった。仕方がないので、弟のウォルターを殺した。叔父も殺した。4人の子供も殺した。身近に殺す人がいなくなると、今度は債権者を殺し始めた。
すげえ。
それだけではない。彼はどうやら対抗馬にも砒素入りのニンジンを食べさせていたようなのだ。この頃にはパーマーの悪い噂で持ちきりになった。それでも彼はへっちゃらで、
「毒殺魔がやってまいりました」
などと戯けながら酒場の暖簾をくぐり、顔見知りに酒を奢ると、
「毒は何がいいかな? 青酸かな? それとも砒素かな?」
などと洒落にならない冗談を飛ばした。グレアム・ヤングが心酔したのは、パーマーのこのあたりの太々しさだろう。
そんなパーマーが遂に御用になったのは、大穴を当てたジョン・クックという男を殺害した時のことだった。父親の要請で検視解剖に回されてしまったのだ。臓器からは微量ながらアンチモンが検出された。そう。グレアム・ヤングが「小さな友だち」と呼んで愛した毒薬である。僅かな痕跡しか残さないパーマーの毒殺者としての腕前も、グレアムを心酔させた要因の一つだろう。
パーマーは1856年6月14日、観衆が見守る中で絞首刑に処された。犠牲者は14人にのぼると見られている。
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