ルース・スナイダーとジャッド・グレイ
処刑写真はこうして撮られた |
ウィニー・ルース・ジャッドが「虎の女」と呼ばれて、悪女の典型のように叩かれたのは、彼女の名前の中にルース・スナイダーとジャッド・グレイが同居していたからだとの指摘がある。彼女が逮捕される4年前、国中がルースとジャッドの愛憎劇に熱中していた。そして、それはルースの処刑写真でピークを迎えた。ルースが電気椅子で殺される様を新聞記者が隠し撮りしたのだ。コリン・ウィルソンは「1920年代の禍々しいイメージの形成に大きく貢献した事件」と評している。狂騒の20年代を象徴する事件だったのだ。
ルース・スナイダー(旧姓ブラウン)は1895年3月22日、ニューヨークのモーニングサイドで生まれた。家は貧しかった。13歳で電話交換手となり家計を支えた。
1914年9月、電話をつなぎ間違えた彼女は相手に激しく叱責された。これがアルバート・スナイダーとの運命の出会いだ。もう一度かけてきたスナイダーは先ほどの非礼を詫び、もっといい仕事を紹介しようと申し出た。ルースの声に魅力を感じたようだ。やがて2人はデートを重ねる。19歳のおぼこ娘は生まれて初めてレストランで食事をし、観劇し、ナイトクラブで踊る。夢のような出来事だ。次第にルースの心は13歳年上のスナイダーに惹かれていった。
翌7月に2人は結婚した。決め手はクリスマスにプレゼントされたダイヤの指輪だった。ルースは結婚後も夢のような生活が続くものと思っていた。ところが、それは見込み違いだ。アルバートは雑誌のアート・ディレクターだが大金持ちではない。それまではルースの気を惹くために多少無理していたのだ。その実際は倹約家で、極めて支配的なアルバートとルースは喧嘩が絶えなかった。1917年には娘のロレインが生まれるが、2人の関係が修復されることはなかった。ルースは母を家に呼び、娘の世話を頼むと遊び歩いた。彼女の住所録には28人の男友達の名前が並んでいた。そのうちの1人がジャッド・グレイだった。
ルースがジャッド・グレイという名のコルセットのセールスマンと出会ったのは1925年6月のことである。レストランでの会食中に紹介されたのだ。2人はまったく正反対の性格だった。ルースは社交的で支配的。一方、ジャッドは引っ込み思案で従属的。マザー・コンプレクスとの指摘もある。だからこそベストパートナーだった。それはクリッペンと細君の関係に似ている。谷崎潤一郎も夢見たマゾヒズムの世界である。
やがて結ばれた2人は毎週のようにホテルで密会を重ねた。ジャッドはルースのことを「マミー」と呼び、その支配=従属関係に益々磨きをかけた。
ちなみに、ジャッドも既婚者で、妻は極めて家庭的な女性だったという。まさにアルバート・スナイダーが望んだ伴侶だ。だから取り替えればよかったのだ。そうすれば悲劇は起こらなかった。
アルバートの殺害を企てたのはルースである。1925年9月、アルバートが自動車の下に潜って修理をしていると、ジャッキが外れて死にかけたことがあった。これが事故なのか殺人未遂なのかは不明だが、いずれにしてもルースはこのことにより夫に生命保険の契約書にサインさせることに成功した。アルバートは1000ドルの契約書にサインしたつもりだった。ところが、実は最高額の4万5千ドルの契約で、しかも事故や犯罪で死亡すれば9万6千ドルが支払われる特約が付されていたのである。
生命保険がかけられた頃から、ルースはジャッドに夫殺しを提案するようになる。当初は寝物語の冗談かと思っていたが、やがて本気であることに気づいた。彼女はこれまでにも単独で夫の殺害を企てていたのだ。ある時は、ガレージでエンジンを吹かして調子を見ていた夫に睡眠薬入りのウイスキーを飲ませた。意識朦朧となった彼はその場に倒れ、一酸化炭素中毒で死にかけた。またある時は、夫がソファでうたた寝している隙にガスストーブのチューブを引き抜いた。またある時は、アルカセルツァーと称して塩化水銀を飲ませた。そのたびにアルバートは死にかけたが、いずれも未遂に終わった。
こうなったらもう実力行使しかない。
ルースはジャッドに協力を求めた。
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