御蔵島伝説

2007年08月12日更新
御蔵島 島名由来の伝説
三島大明神縁起 「三島大明神の御蔵」説
■三島大明神の御蔵

 御蔵島という島名由来の最も有力な説は、やはり三島大明神縁起(三宅記)に記されている三島大神が蔵を置いた島というのを由来とする説です。ここではその他の説についても紹介しておきましょう。

御蔵島「海暗(うみくら)」説 
■黒瀬川(黒潮)を意味している?昭和43〜44年(1968〜69年) 有吉佐和子・高橋基夫博士の記述
 御蔵島の島名の由来は「三島大明神の御蔵」説が有力ですが、黒瀬川(くろせがわ)と呼ばれる御蔵島と三宅島の間に横たわる深い海を別名「海暗(うみくら」と呼び、これが音韻変化して御蔵(みくら)になったという説もあります。「海暗」が黒瀬川を指すという記述は、有吉佐和子の小説「海暗」(1968年)にも紹介され、その後、高橋基夫博士著の「西洋黒船漂着一件記」(1969年)にも登場しています。
■大根が浜が御山の山影になるから? 明治34年(1901年) 萩原正平・萩原正夫「伊豆七島志」の記述
 少し時代をさかのぼりまして、海暗(黒瀬川)説の元になったとされている文献「伊豆七島志」(明治34年)を実際に調べてみましょう。そこには「按ずるに御蔵は海暗の借字にして 此島の埠頭大根濱は北方海に面したる山陰にあるより起因せる称ならむ乎」と書かれています。つまり 「(萩原自身が)推測するには里の前の大根が浜は御山の山影になり、海が暗く見えるので「海暗」という言葉ができ、それが「御蔵」の語源になったのではないか?」 というのが実際の記述だったのです。「海暗」という言葉自体の語源も、いつの間にか御山の山影の海という意味から、黒瀬川という意味に明治後期〜昭和にかけて変遷していったことが伺えます。

御蔵島「御暗(みくら)」説
■里が島の北方にあるから? 寛政3年(1792年) 秋山富南「南方海島誌」の記述
 さらに時代をさかのぼりまして江戸時代です。江戸時代の文献そのものは残っていませんが、伊豆七島志(明治34年)では萩原正平・正夫が語源「海暗」説を提唱するにあたり、それ以前の説として、江戸時代(寛政3年)の秋山富南の「南方海島誌」の説を紹介しています。その中で秋山富南は、御蔵の「御」は尊称であり、御蔵の「蔵」の字は里が島の北方にあるため御山の山影になるであろうから「暗」の当て字ではないか?つまり「御暗」が語源ではないかという語源「御暗」説を提唱しました。上の萩原正平・萩原正夫は、この秋山富南の「御暗」説(寛政3年)を元にして、更に「御」の語源について考察し、「御」は「海」が語源ではなかったのかと考え、語源「海暗」説(明治34年)を提唱していたのでした。

■まとめ
 各文献の参考文献をどんどん遡って行った結果を、古い年代順に並べると以下の通りとなります。

 
「三宅記」:三島大明神が蔵を置いた島とする「御蔵」
 「南方海島誌」: 寛政3年(1792年)秋山富南。御山の影に村がある為とする
「御暗」
 「伊豆七島志」: 明治34年(1901年) 萩原正平・萩原正夫。
御山の山影の海。「海暗」説。
 
有吉佐和子・高橋基夫博士の記述(1968〜69年)。 海流「黒瀬川」が暗い。「海暗」説。

 「南方海島誌の御暗説」にしても、「伊豆七島志の海暗説」にしても、あくまでも後の人が自由に推測したものであって、やはり現在のところ「御蔵島」の名称の語源は、三島大明神が蔵を置いた島という説が最も古く、隣の三宅島の名称の語源とも関係していることからも有力ではないかと思います。ちなみに「御暗」説や「海暗」説を提案した「南方海島誌」(寛政3年)や「伊豆七島志」(明治34年)には、それ以前に「三宅記」に三島大明神の御蔵説があることが紹介されています。


御蔵島「美しい宝倉の島」説
■ツゲの美蔵
江戸時代に高価なツゲの産地として御蔵島は一躍有名になりました。そこで美しい宝倉の島、「美倉島」が後に「御蔵島」となったという説もあります。

参考文献 
・秋山富南原著 萩原正平 萩原正夫増訂 「増訂豆州志稿 伊豆七島志 全」 
 寛政3年(1792年)秋山富南原著の「南方海島誌」を、明治34年3月に萩原正平・正夫が増訂し発行。
・高橋基夫著 「西洋黒船漂着一件記」 ノーベル書房発行 1969年
・有吉佐和子著 「海暗」 文藝春秋発行 1968年