Dolce
―― 屋上から微かに歌うような音色が聞こえたような気がして 香穂子は音楽科棟の練習室に向かおうとしていた足を屋上に向ける。 一歩づつ上がっていくと、一歩づつ強くなる音。 何の楽器の音か、誰が奏でているのか、なんてもう最初に耳に入った時からわかってる。 なるべく足音を殺して慎重に階段を上がれば、目の前に音と自分を隔てる最後の扉。 聞こえてくる音楽は第二主題を奏で終わって再現部に入っている。 たぶん、セレクション用の練習ではなくて正式に曲を弾いているのだろう。 焦らないように、気づかれないように、そーっと・・・・そーっと・・・・ 学校特有の重い扉がきしまないように、細心の注意を払ってノブを回して細く扉を開けた途端に、夢の中で鳴っていたような音が現実の質感を持って耳に流れ込んでくる。 ―― ああ、やっぱり良い音 はっきりと耳に届く音色は自然と香穂子の頬をゆるませる。 音楽的に良いとか悪いとか、そんな事は知らない。 そういう意味ではなくて、好きな音。 香穂子の一番好きな音色。 思わず一気に扉を開けたくなる気持ちを抑えてゆっくりゆっくり扉を開けていく。 そのたびに大きくなる音にドキドキしながら。 とうとう香穂子一人がすり抜けるのに十分なだけドアが開いたら、ここは素早くドアをすり抜ける。 同時に頬を撫でる初夏の風。 幸い演奏者は階段のすぐ前にはいなかった。 それどころか他の人の気配もしない。 土曜日だからわざわざ学校に来てる人間がほどく少ないせいかもしれない。 開けた時と同じようにドアを閉めて・・・・最後にカチャッと小さな音がしてしまったけど演奏者は気が付かなかった。 変わらない澄み切った音色が風に乗って抜けるような真っ青な空に飛ばされていくのを、ドアに寄りかかって香穂子はしばらく聞いていた。 と、不意に音が途切れる。 ―― 見つかったかな? ちょっとひやりとするが、どうやら演奏に切れ目だったらしい。 すぐに次の曲が流れ始める。 今度はこの日差しに合うような柔らかく、心の強い音で。 ―― この音が一番好き どうしてそう思うのかも香穂子にはもうわかっている。 音が好きだから演奏している人間が特別なのか、演奏している人間が特別だからその音が好きなのか、わからなくなるぐらいにどちらも好きだから。 そーっと、そーっと足音をたてないように香穂子はすぐ脇の階段に座った。 ぽかぽかした日差しに暖められていた木の階段はじんわりと暖かさを伝えてきて、1つ、欠伸が零れる。 ―― ほんのちょっとだけ、一休み・・・・ 香穂子はヴァイオリンケースを縦に置いてその上に腕を枕にするように頭を乗せる。 背中には極上の毛布みたいな日差し。 BGMは一番大好きな音色。 そして、その音色をすぐ近くで奏でているのは・・・・一番大好きな人。 「・・・・最高、だね・・・・」 香穂子が夢の世界へ行く前に、ぽつりと呟いた言葉を、彼の演奏者は知らない・・・・ 〜 END 〜 |