「・・・・ふう」 最後のフェルマータを丁寧に吹き終わって、柚木梓馬はフルートを唇から離す。 反響のない空間での練習は自分の音を錯覚しないために良い練習になると思って屋上に来たが、良い天気だったせいか少し吹きすぎたかもしれない。 (・・・・天気のせいでもない、か) 少し疲れた唇に軽く触れながら、柚木は苦笑とも微笑みともつかない表情を浮かべる。 そして近くのベンチにフルートを置くと、無造作に今まで吹いていた場所を離れて屋上のドアが見える方へ出た。 真正面に木製の階段が目に飛び込んできて・・・・今度は柚木ははっきりと苦笑とわかる形に唇をゆがめた。 予想通りの人物が、予想外の格好でそこにいたから。 何曲か前の曲を吹いていた時に誰かが屋上に入ってきた事に柚木は気が付いていた。 それが香穂子である、という事も。 この学院で屋上の分厚い扉越しに柚木の音を聞き分けて、その上であれほどこっそり屋上に入ってくる者など香穂子以外には考えられなかったからだ。 『御曹司で人当たりの良い』柚木しか知らないファンの女の子達ならば、もっと無神経に彼の観客になろうとするだろうから。 だから ―― それから数曲は、彼女のために吹いていた。 純粋に自分の音だけ楽しんでいるだろう、たった一人の観客のために。 なのに 「・・・・いい度胸だな。」 すっかり眠りこけている香穂子が聞いていたら思わず冷や汗を流しそうな程、冷たい笑いを含んだ声で言ってみるが、幸か不幸か香穂子は夢の中。 小さくため息をついて柚木は静かに香穂子に近寄った。 最初はヴァイオリンケースに顔を乗せていたのかもしれないが、いつの間にか横の柵に寄りかかったのだろう。 クロスした形に手を置いて辛うじてヴァイオリンケースを支えて、スピスピと眠っている。 いかにも気持ちよさそうな顔で眠っているのは、日の光のせいか・・・・自分の音のせいか。 後者であればいいと願う気持ちがある事を認めて、柚木は口元を歪めた。 「この、俺が」 頬でも引っ張って起こしてやろうかと手を伸ばして指先に触れた頬の柔らかさに、甘い感情が生まれる。 「・・・・お前なんかを」 そっと滑らせて指先だけで耳の脇の髪を梳けば、くすぐったそうに香穂子が眉を寄せた。 柚木はゆっくりと身を屈めた。 (好きになるなんてな) 最後の言葉を口に出さなかったのは素直に慣れていない柚木の僅かな抵抗。 そして言葉の代わりに、眉間の皺に触れるか触れないかのキスをした。 香穂子は ―― ほんの少しだけ身を捩っただけで、結局起きなかった。 「女の子向けの甘ったるい童話やなんかじゃ、王子がキスすればお姫様は目を覚ますんじゃなかったか?」 冗談半分に呟いてみて、柚木は苦笑した。 (そうだったな。お前にとっちゃ俺は『王子様』なんかじゃないんだ。) 香穂子の見ているのは学園のみんなが見ている『王子様』の柚木梓馬ではない。 飾り物のない『王子様』の中身、素直になれない捻くれた考え方に慣れた柚木梓馬だ。 (じゃあ・・・・それに相応しい起こし方をしないと失礼だよなあ?) にやり、と。 すっかり香穂子に向け慣れた笑みを浮かべて、柚木が両手を香穂子の両頬に伸ばすその様子が酷く楽しそうだったのを見た者は無く ―― 数秒後、両のほっぺたを思いっきり伸ばされた香穂子の悲鳴が屋上に響き渡ったのだった。 〜 END 〜 |