7/17(火) 【拝啓 錦織一清様】

 今年の役も最高にいい役だったね。強くて、優しくて、面白くて。
 圧倒的な存在感。しびれる歌声。しなやかでオシャレで軽やかなダンス。錦織君ならではの「間」。そして私の大好きなニシキのうなじ。
 風格満点のニシキも、ハイテンションのニシキも、プレゾンのニシキはやっぱり最高!!
 プレゾンは、去年よりも一回り立派になったニシキに会いに行く私の夏の恒例行事でありました。

 「ヒガシのダンス、植草の歌い。そして俺はアドリブで逃げる。ヒガシのダンス、植草の歌い。そして何故か俺が怒られる。」
 あのときのニシキがメチャメチャ可愛かった。もう、抱きしめちゃいたいくらい可愛かった。
 
 ダンスもニシキが一番。歌もニシキが一番。演技もニシキが一番。ヒガシもカッチャンもニシキには心から脱帽してる。今回の舞台は、そんな遠慮のないニシキがいっぱい見られて、とっても嬉しい。やっぱり大好き!!パワー全開の俺様なニシキ!!
 黒いスーツと金髪で決める「まいったね!今夜」は大感激、大感動。最高に素敵でした。
 「ニシキは国宝にすべし。」母も感激しまくってました。
 ニシキの熱い夏。今年も飛ばしまくってください。

  
7/9(月) 【ニシキ〜!!】
 ニシキが来年の4月、帝劇ミュージカル「チャーリー・ガール」に出演するというとっても嬉しいニュースが入りました。
 米花倶楽部のかわら版には、「『チャーリー・ガール』は、1965年に初演されたロンドン製のミュージカル。上流階級の令嬢が意中の男性とハッピーエンドに終わるまでをジャジーな音楽とダンスでつづった軽快なステージ。主演が愛華みれさん。共演に森公美子さん。」とありました。
 キャー!どうしましょう。主演が愛華みれさんだなんて。

 ショーちゃんこと榛名由梨さんに永遠の忠誠を誓った身なので、永いこと宝塚のごひいきはいなかったのものの、「何てお綺麗な方なんでしょう・・・。」と密かに憧れていたのが愛華みれさんなのであります。今年の秋には退団してしまうとのことで、今からチケット争奪戦をどう乗り切ろうか、またまた頭の痛いところです。

 「嵐のコンサートはおともできないけど、宝塚なら行くよ。」といつもの友達に言われて、愛華みれ様の「光源氏」を見に行ったことがありました。「なんて綺麗な人なの・・・。」と友達も絶賛しておりました。「美しい」をさらに上回る「お美しい」がピッタリのそれはそれは素敵な方なんです。辞めたら舞台にTVにと引っ張りだこだろうな・・・と思っていました。
 でも、でも、でも。そのみれ様と我らのニシキ様が共演するなんて、考えもしませんでした。
 ニシキはどんな役なのでしょう。ダンスでつづった軽快なステージなのなら、ニシキの軽やかなダンスをぜひぜひ拝見したいものです。とっても楽しみ。

 話は変わりますが、「ニシキが大野クンのことをどう思っているのか、ニシキとのやりとりがとても気になるのですよ」と言うメールをいただきました。
 ニシキは後輩に憎まれ口こそ言うものの、面倒をよく見るとか、可愛がるとかっていう話をあんまり聞いたことがありません。トニセンがうたばんで、「錦織君に『地方ではおまえ達がバックをやってるのに、東京ではTOKIOになってる。おまえ達のグループ名はCHIHOU(ちほう)に決まりだな・・・』って言われた。」なんて言ってたのを聴いて、思わず「ありゃりゃ〜、またポイントダウンだな・・・」なんて苦笑いしてしまったことがありましたっけ。
 坂本さんに原さんと大野クンが似てるっていう話をニシキが聞いて「おまえ達は新鮮味がない。」と言い放ったと言う話も聞きました。「でも、それは、苦労人ロードをたどってきた事もふくめ一目おいてるからこその一言だったのでしょう。」と言うメールをいただきました。心から納得。
 ニシキにとっては「可愛がる」イコール「憎まれ口を言う」なのかもしれません。

 大野クンのビデオ三昧の毎日。プレゾン開幕を1週間後に控え、こりゃいけない・・・と思って、ニシキの若かりし24歳の頃のビデオを引っ張り出して見ました。夜のヒットスタジオでマンスリーゲストで出演したときのビデオであります。
 眩しい。それはそれは眩しい。ダンスも絶品。切れがあって、しなやかで、ダイナミックで、超ど派手で、まさに完璧。ウィンクも超素敵。そして、「よっしゃ!」と勢いよくかけ声をかけてるニシキ。完全無欠のリーダーでありました。

 プレゾンでの大野クンとニシキのからみはダンスだけでなく、お芝居、MC・・・すべて楽しみです。
 そして、これからもずっとずっとニシキと大野クンのミュージカル共演が実現することを心から願います。
 ニシキ〜!!

7/5(木) 【再会】
 「やっと探すことができた。」
父がいつになく嬉しそうに話してくれたのは、半月ほど前のことだった。
 大正15年生まれの父は、議論好きだが、昔のことはあまり話したがらなかった。母と結婚したときには、父の両親はすでに他界していたと言うから、苦しいこと、悲しいこと、忘れてしまいたいことの連続だったのかもしれなかった。特に、戦時中のことは、記憶から消してしまいたかったのに違いない。

 祖父母と戦死したおじの50回忌をすませた5,6年前あたりから、墓参りに行くたび、父が育った土地のことや、父が通った学校のことなどをたまに話してくれるようになった。父がどういう心の傷を負ったのか知ろうともしなかったが、傷も大分癒えてきたんだなと思った。それでも、軍隊のことを話すことはほとんどなかった。

 「軍隊で優しい上官がいたんだ。」とぽつりと言ったのは、半年ほど前のことだった。米軍の爆撃機に攻撃されて戦死したその上官の最後を父は見取ったらしい。
 家に防衛庁の人がたまたまたずねて来たとき、父は「遺族の消息は確かめられないものだろうか・・・。」と相談した。「分かると思いますよ。」と言ってくれたその役人の一言が父の心の奥底に封印してあったものを動かした。父の脳裏に焼き付いて離れないその上官も、分かっているのは、戦死した年と場所、所属していた戦隊名、そして苗字だけだった。絡んだ糸をなんとかほどきたいと、父は考えられる所へ片っ端から電話した。

 絡んだ糸がいっきょにほどけ始めたかに思えたのは、靖国神社に電話をしたときだった。苗字と戦隊名を告げただけで、フルネームと出身地が分かったのだ。はるか南のM市だった。でも、そこからが問題だった。喜び勇んでM市役所に電話したものの、答えは「残念ですが、分かりません。」だった。

 最後の一結びがどうしてもほどけない。あまりの悔しさに父は父の妹に「やっぱり分からない・・・。」と電話した。終戦当時、父から話を聞いていたのだろう。勝ち気でがんばりやさんの父の妹は父以上に悔しがった。
「学校に電話してみれば・・・。M市の高校に。多分旧制中学に通ってただろうから・・・。」
 叔母のアドバイスは的中した。学制が変わってるから、その上官の資料はもちろん残ってるはずはなかったが、珍しい苗字だったことも幸いして、関係者と思われる何件かのお宅の電話番号を紹介してくれた。
 
 電話をかけた2件目の家が、その上官の実家だった。その上官の実姉が住んでおられ、電話に出られた。最初は信用してもらえず、ギクシャクした会話が続いたらしいが、やっとの思いで実家を突き止めたこと、最後を見取ったこと、50年の年月を超えてずっと会いたいと思っていたことが伝わると、それはそれは喜んでくれた。

 父は、すぐに手紙を書いた。先方からもすぐ手紙が届いた。婚約者だった方からも手紙をいただいた。脳梗塞で倒れリハビリ中だという実弟の方からもいただいた。どの手紙も亡くなったその上官への熱い思いが切々と綴られ、涙なしで読むことはできなかった。
 お姉さまはお若いときの上官の写真のコピーも送ってくださった。
「ああ、この人だ・・・。」父は五十数年ぶりに上官と再会した。時空を超えて、遠い闇の彼方からその上官は父に会いに来たくれたのだと思った。

 上官のお父上は「息子の分まで生きる。」とおっしゃって、102歳という長寿を全うしたそうだが、お手紙をくださったご姉弟の方にも、婚約者だった方にも、ぜひいつまでもお元気に暮らしていただきたいと切に願う。
 父は「M市へ行きたい。」とか、「上官の最期の地へ行きたい。」とか、まだ言わないが、いつかご遺族の方と再会する機会が訪れたら、高齢の父に同行しようと思う。そして、まだまだ父の心の奥にある昔の思い出話を少しずつでも聞くことができればと思う。