講座18>連句のルール(3)定座と巻の構成

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 暑くなって来ましたね。暑さとは全然関係ありませんが講座を続けます。今日は月と花の定座と連句一巻の構成の話。
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 特別な句としてはもう一つ、月と花の句があります。和歌の伝統の中で、何時の間にか(万葉集の時代には特にどうということもなかたのだと思いますが)月と花は極めて大事な題材になりまして、その伝統が連歌から俳諧へと引き継がれた結果、俳諧においてはも
う詠む場所まで決められるということになりました。これを定座ジョウザと申します。それは次の通り。

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5 月と花の定座
    百韻(四花七月) 歌仙(二花三月)
初折 七−月 五−月
十−月・十三−花 八−月・十一−花
二の折 十三−月  
十−月・十三−花  
三の折 十三−月  
十−月・十三−花  
名残の折 十三−月 十一−月
七−花 五−花


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 但しどうしてもそこで詠まなきゃならんというわけでもなくて、概ね定座より前に出ることは差し支えなく、後に出ることも花は「こぼす」と言って嫌われましたが、月の場合はそれほど厳しくはなかったようです。

 ただ月の場合空に出る月と暦の月がありまして、後者は<月次ツキナミの月>と呼ばれ、本当の月ではないと考えられていたようです。

 それから花の場合、要するに桜の花を指すわけですが、「桜」と言ったのでは花ではない、ということになっていました。「花」というのは単なる植物の一種類ではなくて、要するに最高の美を象徴する言葉と考えられていたのでしょう。

 そこで花の句を詠む人は、これは連歌の時代から貴人・宗匠・珍客ということになっていたのですが、一座に初心であっても少年がいる時には、そういう人に詠ませることがあったそうで、これを「若い者に花を持たせる」と言ったのだそうです。

 ところで月というのは世界中の国により民族によって、そこから何を感じるかが違うもの。今連歌・俳諧は世界中で注目されつつある文学形式で、外国で連句を巻く試みというのも色々行なわれていますが、この月、また外国人には日本人ほど桜への思い入れがないので花も、外国に移植する(植えるんじゃなくて感じ方・考え方を)のは難しいでしょうね。

 この間のカナダの学生への授業でも、時間がなかったのとどう説明したらいいかわからないのでこの話はしなかった。勿論時間があればしつこく説明したはずですけどね。

 さてお次は一巻の構成について。

 連句は基本的に「三句のわたり」、すなわち打越と前句と付句の三句の関係に注意しながら付け進めて行けばいいので、全体でどういう構成を持たせて、それによって何を言わんとするかという、いわゆる主題などというものはありません。

 今までに説明したかどうか忘れちゃいましたが、この主題がないというところも連句の特筆すべき特長。

 ほら、学校の国語の時間に、この小説の主題は何だとか言われて先生に責められたでしょ?連句を知らない人は文学作品には必ず主題があると思い込んでるのよね。で実際ある作品は多いわけだけど、でも文学作品にとって主題が何かなんてことは全然大事な問題じゃないのよね。これは文学の先生が言ってるんだから嘘じゃありません。主題がわからなかった人、そんなことで国語が嫌いになっちゃやだよ。

 そして連句の場合この主題が始めからないのですが、しかし一巻全体のゆるやかな構成は、昔から色々考えられていました。その代表的な意見を抜き出すと次の通りです。
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○百韻
 一の懐紙の面の程は、しとやかの連歌をすべし。てにはも、浮きたる様なる事をばせぬ事なり。二の懐紙の面よりさざめき句をして、三・四の懐紙をば殊に逸興ある様にし侍る事なり。楽にも序破急のあるにや。連歌も一の懐紙は序、二の懐紙は破、三・四の懐紙は急にてあるべし。(筑波問答)

○歌仙
 一巻、表は無事に作すべし。初折の裏より名残の表半ばまでに物数奇も曲もあるべし。半ばより名残の裏にかけては、さらさらと骨折らぬやうに作すべし。末に至りてはたがひに退屈出で来り、なほ好き句あらんとすれば、却って句しぶり不出来なるものなり。(去来抄)
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 前者は音楽の理論である序破急というのを援用した良基の百韻論で、初折を序、二の折を破、三・四の折を急に配当したもの。後者は歌仙に対するものですが、大体同じですね。歌仙では懐紙を二枚しか使わないので、規模の縮小とそれに伴う若干の変形がある、というところでしょう。

 なぜそうするのかは、後者がわかりやすいですね。序の部分は何しろ一巻の顔ですから、ここで乱れては後がどうなるかわからない。破の部分は、やや肩肘張った序の雰囲気から開放されて、思い切り楽しむところ、急はここで沈思したりすると時間がかかって退屈してしまうから、余り考えずにとにかく早くやれということ。

 思うにこうした注意は、出来上がった作品を読む人よりも、一座に集まった人達の雰囲気を大事にするという感じがありますね。これはその場にいる人が作者であると同時に読者でもあるわけですから、当然といえば当然のこと。結果として出来たものが第三者の目
にも面白かったら儲け物、しかしそれは作者達のあずかり知らないことであって、そこが集団制作とは言っても、劇の脚本を合作するのとは違うところです。

 この関係、パソコン通信のRAMとROMの関係と似ていませんか?ROMの人が見て面白がってくれたらそれはそれでいいけれども、「双方向」というより「多方向通信」であることをその最大の特徴とする(と私は考えている)パソコン通信においては、とりあえず自分のメッセージを見て何らかの反応を返してくれるRAMの方が大事なんだというのとね。
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キョン太

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