講座13>中世の連歌(長文注意)

※なんで「長文注意」と書いてあるのかというと、パソコン通信時代は繋ぎっぱなしにすると電話代がかさむので、ダウンロードして保存したものを読む習慣だったこと、ホストの仕様で行数制限があったことなどによります。インターネットの場合は余り問題にならないですね。もっともWebページ上でも余り長い文章は歓迎されないと思いますが。

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 中世(鎌倉・室町時代)といえば連歌の最盛期、どうしても出すべき例が多いので長文になってしまいます。フロッピーでDLしている方は残りバイトにご注意、なんてほどでもないか?

 とはいえ文豪MINI5シリーズで文豪用の初期化をしたフロッピーを使ってDLする場合、最大255行しか受信出来ないのでした。ほかの会社のワープロでも似たようなことはあると思いますので、やっぱり注意して下さい。

 なお文豪MINI5シリーズの場合、本体内蔵のCP/Mで初期化したフロッピーを使えば、その制限はなくなりますが。

[資料編]**************************************************

 V  中 世 の 連 歌

    後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに
 乙女子がかつらぎ山を春かけて
 霞めど未だ峯の白雪          従二位家隆
                  (菟玖波集一一)

    後鳥羽院の御時、三字中略、四字上下略の連歌に
 結ぶ契りの先の世も憂し
 夕顔の花なき宿の露の間に      前中納言定家
                    (同二六八)

    後鳥羽院御時、源氏巻の名国の名百韻連歌奉りけ
    る中に
 いつも緑の露ぞ乱るる
 蓬生の軒端争ふ故郷に         源家長朝臣
                   (同一二七八)

  文和千句第一百韻
    賦何人連歌 文和四年四月二十五日 於二条殿
 名は高く声は上なし郭公      侍(救済)
 茂る木ながら皆松の風       御(二条良基)
 山陰は涼しき水の流れ来て     文(永運)
 月は峰こそはじめなりけれ     坂(周阿)
 秋の日の出でし雲間と見えつるに  素(素阿)
 時雨の空も残る朝霧        暁(暁阿)
 暮ごとの露は袖にも定まらで    木(木鎮)
 里こそ変はれ衣打つ音       成(大江成種)
          − 以下略−

  水無瀬三吟百韻
    賦何人連歌      長享二年正月二十二日
 雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇(飯尾)
 行く水遠く梅匂ふ里        肖柏(牡丹花)
 川風に一むら柳春見えて      宗長(柴屋軒)
 舟差す音はしるき明け方      祇
 月は猶霧わたる夜に残るらん    柏
 霜置く野原秋は暮れけり      長
 鳴く虫の心ともなく草枯れて    祇
 垣根を訪へばあらはなる道     柏
          − 以下略−

  天正十年愛宕百韻
    賦何人連歌 天正十年五月廿四日於愛宕山威徳院
 ときは今天が下しる五月かな     光秀(明智)
 水上まさる庭の夏山         行祐
 花落つる池の流れを塞き止めて    紹巴(里村)
 風に霞を吹き送る暮れ        宥源
 春も猶鐘の響きや冴えぬらん     昌叱
 片敷く袖は有明の霜         心前
 うら枯れになりぬる草の枕して    兼如
 聞き慣れにたる野辺の松虫      行澄
          − 以下略−
[解説編]**************************************************

 ここには連歌の最盛期であった中世の作品を挙げました。最初の3例が菟玖波集に採られた後鳥羽院時代のもの。その後に百韻三種。一つは二条良基と救済らによって詠まれた文和千句の第一百韻。次が連歌史上最高の名作水無瀬三吟百韻。最後は明智光秀が本能寺襲撃のほんの数日前に張行した天正10年愛宕百韻です。

 さて院政期頃から長連歌が行なわれ出したことは前に書きましたが、中世における連歌の最も代表的な形式である百韻が誕生したのは、後鳥羽院の時代だろうと考えられています。

 百韻の「韻」とは、本来漢詩の技法であり、韻を踏まない日本の詩歌にはそぐわない用語で、百韻というのは要するに、575の句を長句、77の句を短句と呼ぶ、その句を百連続させたもの、つまり575の長句50句と、77の短句50句計100句から成る作品に対する名称なので、より正確には「百句」と呼ぶべきですが、百韻と呼び慣らわされて来たので、敢えてその習慣に異を立てるまでもないでしょう。

 後鳥羽院は平家が安徳天皇を奉じて西海に去った後、思いがけず帝位に就いた人でしたが、並々ならぬ芸術家としての才能を持ち、歴代の天皇の中でも最高の歌人でした。自ら撰集を下命した新古今集にある、

 見渡せば山本霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけん

とか、承久の変に破れて隠岐の島に流された時に詠んだと伝えられる、

 我こそは新島守よ沖の海の荒き波風心して吹け

といった歌が特に著名ですね。和歌に対する思い入れは深く、新古今の撰集に当たっては、その完成を祝う竟宴が終わってからもたびたび歌の切り入れ切り出しを命じて、同じく和歌に対しては絶対的な自信を持ちプライドの高い定家を嘆かせ、最終的には隠岐島で普通の新古今集より400首ほど少ない精選本、いわゆる隠岐本新古今集を作ったほどでした。

 しかしこの天皇連歌も大好きで、定家・家隆をはじめとする新古今時代の錚々たる歌人たちを御前に召し集めて連歌会を催し、よい句を出した者には賞品(これを賭物カケモノと言います)を与えていたそうです。

 さて例示した3種の連歌のうち、最後の「源家長朝臣」の作の詞書に、「百韻連歌」という字が見えます。少なくともこの時代には百韻が行なわれていたことを示す事例ですが、おそらくこの形式はこの時代に始まったと考えてよいのではないかと思われます。

 和歌における百首という形式は、既に拾遺集の時代には行なわれており、曾祢好忠や源重之、また彼らからの影響を受けたと思われる和泉式部のあたりから見え始め、特に金葉集の撰者源俊頼が中心になって行なわれたとされる堀河院御時百首和歌は後世の規範となりましたが、その形式は新古今時代いよいよ盛んに行なわれ、その時代の代表的な歌合である『六百番歌合』『千五百番歌合』も、百首和歌の組み合せによって行なわれたものでした。この百首和歌の盛行が、連歌の百韻成立に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。

 さてこの時期の連歌を前代のものと較べて驚くことの一つは、極めて和歌的な優美な作品になってしまった、ということだろうと思います。家隆の例は、「白黒賦物」とあるように、白いものと黒いものを交互に出す、というルールによって詠まれたもので、前句の「かつら」が黒なので、付句では白い「白雪」を出した、というものですが、「霞めど未だ峯の白雪」という句は、新古今時代の和歌の下句と言われても何の違和感もないものでしょう。それは次の定家のでも家長のでも同じですね。

 後鳥羽院は定家達新古今時代の代表的歌人達を、和歌的優美な句を詠む連衆という意味で、万葉集の歌聖柿本人麻呂にちなんで柿本衆、または有心衆と呼び、和歌には縁のない漢詩人達を、それに対して栗本(こんな名前の人はいなかったので、要するに柿でないから栗だとしたまで)衆とか無心衆とか呼んで、付句を競わせたそうです。定家たちが和歌的優美な句を詠んだのは、そのせいでもあったようです。

 もう一つこの時期の連歌の特徴として、賦物フシモノ中心のルールで行なわれていたことも挙げておかなくてはならないでしょう。賦物とは、たとえば家隆の例では「白黒」。これが百韻だったのかどうかはわかりませんが、とにかくこの連歌では、白いものが出たら付
句には黒いもの、その付句には白いものを出さなければならない、ということになっていたのでした。

 次の定家の例は「三字中略」と「四字上下略」の組み合わせ。三字中略とは三字から成る語で、そのうち真ん中の字を略すと別の二字語になるもの。定家の例の前句では、「結ぶ契り」の「契り」という三字の語の真ん中を略すと、「ちり(塵)」になりますね。四字上下略は四字の語の上下を略すもの。「夕顔」の上下、「ゆ」と「ほ」を取ると「ふか(鱶)」になります。

 また家長の例では「源氏巻の名国の名」となっていますので、そこでは源氏物語の巻名と日本の中の国名が交互に詠み込まれることになっており、引用した前句の「いつも緑の露ぞ乱るる」の「いつも」には「出雲」という国名が、付句の「蓬生の軒端争ふ故郷に」には「蓬生ヨモギウ 」という源氏の巻名が掛けられています。

 このようにあらかじめ決められた各句に詠み込むべき語が「賦物」であり、前回あった「いろは連歌」の「いろは」も賦物ですし、PC−VAN[おじさん広場]のフォーラム8「テレCOM談話室」で去年行なわれた猫連句や愚痴連句の「猫」や「愚痴」も一種の賦
物といえます。

 こうした賦物の中で一番一般的なのは、「山何」とか「何人」といったもので、この何の部分に当て嵌まる語を詠み込むというもの。引用した3種の百韻はたまたま「何人」ばかりになってしまいました。たとえば「文和千句第一百韻」の場合、その発句「名は高く声
は上なし郭公ホトトギス」の「上」を「何」に当て嵌めると、「上人」(「うえびと」−殿上人テンジョウビト のことをこうも言った)となりますし、次の水無瀬三吟の場合は、「雪ながら山もと霞む夕べかな」の「山」を「何」に当て嵌めると、「山人ヤマビト 」になりますね。

 連歌は懐紙カイシ と呼ばれる紙に書くことになっていましたが、その際最初の紙を二つに折った表(これを「初表ショオモテ 」と呼ぶ)の右側3分の1の真ん中辺りに、この賦物を書くことになっており、この、たとえば「賦何人連歌」というようなのが、その巻の正式な名称ということになります。「水無瀬三吟百韻」などというのは、あくまでも便宜的な通称というべきものです。

 これは俳諧の連歌、すなわち連句でも同じで、連句の場合は最初に「俳諧之連歌」などと書かれました。たとえば「「市中は」の巻」とか「「狂句こがらしの」の巻」などという呼び名も便宜的な通称というわけ。同時に連句の場合は、各句を俳諧の句とする、という
賦物によって巻かれて行く連歌、と考えられていたわけです。

 但し俳諧はともかく、連歌の世界ではこの賦物によって一巻を統一しようとしたのは恐らく鎌倉時代までのこと。南北朝頃にはもう賦物は連歌の進行には殆ど意味を持たなくなり、百韻の中で賦物を取るのは発句だけ、それも発句が出てから、その中に出て来る語にふさわしいと思われる賦物を題にするというだけで、脇句以下では全く考慮されないようになってしまいました。

 賦物に代わって一巻の進行に大きな意味を持つようになったのが「去り嫌い」というルール。ある語が出るとその後何句は同じ語を使ってはいけないとか、次の句にこういう語を使ってはいけない、とかいったルールでした。いつごろからそうなったか、正確にはわかりませんが、良基時代以降の連歌は概ね去り嫌い中心になっています。

 そういうわけで後鳥羽院の時代に百韻という形式が確立したわけですが、その頃の連歌で百韻が丸ごと残っているという作品はありません。漸く残り出すのが良基の時代、つまり南北朝時代からで、それは連歌が極めて多くの人に愛好されていたにも関わらず、まだ記録するほどの価値はないもの、と意識されていたことを意味するのでしょう。

 同時にそれは、社会的地位などというものは余り高くない方が、文学としてのエネルギーは持っているということをも物語っているのかもしれません。かつて河原乞食の所業であった近世の演劇が、近代に入って伝統的な由緒正しい演劇と目されるや、新しい創造のエネルギーを失ってしまったことなどを思い浮べますね。物語だって源氏物語が書かれた頃は、要するに女子供の慰み物だったわけですから。

 それはともかく、良基が連歌の社会的地位向上のために果たした役割の大きさは、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。彼は菟玖波集を編纂しそれを准勅撰集とすることによって連歌をそれまでの第一文学、和歌と比肩し得る文学とすることに成功し、応安新式の制定によって、混乱していたルールを統一し、『連理秘抄』や『筑波問答』といった連歌論書を書くことによって連歌の理論化と普及啓蒙に努めました。

 その際注目すべきは、地下(ジゲ−「堂上ドウジョウ 」の対で官位を持たぬ、或いは持っていても身分の低い人を指す)の連歌師救済(グサイまたはキュウゼイ)を師とし、彼と協力して上記のような活動を行なったことでした。

 自分自身は摂政・関白・太政大臣といった最高貴族としての地位にありながら、彼はいつでも野にいる遺賢を取り立てることが得意でした。連歌の世界では救済でしたが、和歌の世界ではこれまた一介の遁世者である頓阿を師として、『愚問賢注』という問答体の歌
論書を書きました。自らの問いを「愚問」と呼び、頓阿の答えを「賢注」と名付けたのです。

 足利義満とともにまだ少年だった世阿弥を見出だし、後の能役者兼作者として花開く古典的教養を身に付けさせたのも良基でした。

 話が横に逸れましたが、資料として引用した文和千句は、良基のそのような活動によって、連歌が記録するに値するものという価値観を、同時代及びそれ以後の人々に植え付けることに成功したからこそ残った、記念すべき作品と言えるでしょう。

 その後良基と救済からは非難された救済の弟子周阿が第一人者となった、一般に沈滞期と呼ばれる時代、それを克服し連歌の中に深い思想を追求した心敬を始めとする七賢の時代がありましたが、資料にはその心敬の教えをも受け、中世を通じて最も代表的な連歌作者となった宗祇が、その高弟肖柏・宗長と三人で巻いた名作、「水無瀬三吟百韻」を引きました。

 実を言うとこの百韻の場合、三人のうちで宗長がまだ若干技量が劣り、宗長の所に来るとそこで作品が滞るような感じがあって、これよりももう少し後で同じ三人が巻いた『湯山三吟百韻』の方が作品としては優れている、という意見があります。

 しかし後鳥羽院の新古今の名歌「見渡せば山本霞む〜」を踏まえて早春の雄大な景を詠む宗祇の発句、その発句にある山の雪溶け水の流れる里を詠んで発句にはなかった嗅覚イメージ梅の匂いを付けた肖柏の脇句、そこに柳の葉を翻す川風を詠んで発句・脇句の静かな世界に動きを添えた宗長の第三、更に舟を棹差す「音」を出した四句目と、穏やかにかつ格調高く展開して行く表八句を見れば、名作という従来の評価にやはり誤りはなかった、と思わざるをえません。

 最後の「天正十年愛宕百韻」は、作品としての出来よりも成立の事情が目を引く事例として挙げました。この百韻を張行したのは明智光秀。その発句

  ときは今天が下しる五月かな

は、「とき」に「時」と「土岐」が掛けてあり、「天が下しる」の「しる」とは治めるとか領有する、支配するの意。要するに光秀は、土岐氏の一族である自分が天下を治める五月が来たと詠んだのであって、この百韻は光秀が既に決意していた信長襲撃の戦勝を祈願して巻かれた百韻だったようです。本能寺の変はこの数日後、6月2日のことでした。

 さてこの百韻に加わっていたことでまもなく窮地に立たされたのが、宗祇以後の連歌壇の第一人者でこの百韻の第三を詠んでいる里村紹巴サトムラジョウハ 。光秀が滅んだ後、秀吉に追及された紹巴は、「天が下しる」の「しる」は本来「なる」だったので、光秀が勝手に
直したものだろうと申し開きをして何とかことなきを得たそうです。紹巴はこの後秀吉に仕え、里村家は近世に入ってから連歌の宗匠家として栄えて行きますが、この時紹巴が秀吉に誅殺されていたら、以後の連歌の歴史も多少変わっていたかもしれません
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などと締め括ってみましたが、実は私は近世の連歌の歴史をほとんど知らない。近世に入ると将軍家を始め各大名家ではそれぞれ連歌師を抱え、正月とかしかるべき時に興行していたらしいのですが、私はまだそういう作品を見たことがありません。

次は中世の俳諧ですが、今回のが長いので皆さんにじっくり読んでもらうため、若干時間を空けてからUPすることにします。出来れば続きが読みたくなったら催促して下さい。

キョン太

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