講座12>平安時代の連歌

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 自由連句で遊びながらこの講座で勉強して下さい。私はレポートは要求しません。この講座に参加した成果は、連句の実作で見せてもらえるからです。今回は平安時代の連歌。これも資料編と解説編に分けています。

[資料編]*************************************************

 U 平 安 時 代 の 連 歌
<A>
    内に侍ふ人を契りて侍りける夜、遅く詣で来ける
    程に、うしみつと時を申しけるを聞きて、女の言
    ひ遣はしける
 人心うしみつ今は頼まじよ
                     良岑宗貞
 夢に見ゆやとねぞ過ぎにける(拾遺集1184)

<B>
 奥山に舟漕ぐ音の聞こゆなり
 なれる木の実やうみわたるらん      紀 貫之
  (菟玖波集1884)

<C>
    田の中に馬の立てるを見て     永源法師
 田に食む駒はくろにぞありける
                     永成法師
 苗代の水にはかげと見えつれど(金葉集653)

<D>
    和泉式部が賀茂に参りけるに、藁うづに足を食は
    れて紙を巻きたりけるを見て、神主忠頼
 ちはやぶるかみをば足に巻くものか
                     和泉式部
 これをぞ下の社とは言ふ(同658)

<E>
    柱を見て               成光
 奥なるをもやはしらとは言ふ
                     観暹法師
 見渡せば内にもとをば立ててけり(同664)

<F>
  またある時に、
    奈良の都を思ひこそやれ
 と言はれ侍りけるに、大将殿有仁
    八重桜秋の紅葉やいかならむ
 と付けさせ給へりけるに、越後の乳母、
    時雨るる度に色や重なる
 と付けたりけるも、後まで賞め合はれ侍りけり。
  (『今鏡』「御子たち第八」「花のあるじ」)

<G>
  同じき御時(永万元年一一六五頃)の事にや、いろはの連歌ありけるに、たれとかやが句に、
   うれしかるらむ千秋万歳
 としたりけるに、此次句にゐ文字にや付くべきにて侍る。ゆゆしき難句にて人々案じ患ひたりけるに、小侍従付けける、
   ゐは今宵明日は子の日と数へつつ
        (『古今著聞集』「和歌第六」)

[解説編]**************************************************

 ここには平安時代の連歌作品から、AからGまでの7例を抜き出しました。この時期の連歌は概ね言い捨てにされていたらしく、余り残っていないのですが、拾遺集・金葉集という二つの勅撰集と、後世の菟玖波集や説話集の中に書き留められています。ほかに金葉
集の撰者源俊頼の家集である『散木奇歌集サンボクキカシュウ』と歌論書『俊頼髄脳トシヨリズイノウ 』(別名「俊頼無名抄トシヨリムミョウショウ 」「俊秘抄シュンピショウ」)にもあったと思います。

 さてAからGのうちAからEまでの5例は、前代の尼と家持の例同様、形としては二人で一首の短歌を作った、とも見られる例で、これを後世の長い連歌と区別するために、「短連歌タンレンガ」と呼んでいます。平安時代の中頃までは、この短連歌が主流、というより長いのはまだ詠まれていなかったのだろうと思われます。

 作品は一読理解出来そうなわかりやすいものですが、若干解説しましょう。

 まず<A>の付句の作者良岑宗貞とは、やがて出家して僧正遍照と呼ばれることになる人。いわゆる六歌仙の一人ですね。
 その宗貞がある時、宮中に仕える女房(女官のことです。「女房」が現在のように「妻」の意になったのは、平安時代もかなり遅くなってからだろうと思われます。「房」とは部屋のことで、宮中に部屋を賜って仕えている女官のことを「女房」と呼びました)と恋仲になって、デートの約束をしました。

 ところが約束の時間にだいぶ遅れて女の部屋に行ってみると、ちょうど時を告げる役人が、「うしみつーーー」とか行って歩いている時だった。古代の時制については、ご存じの人が多いと思いますが、一日を12に分けて、その一つ一つに十二支を配していた。「丑」とはその二つ目で、今の午前1時から3時。それをさらに4等分して、「丑一つ」とか「丑二つ」とか言っていたので、「丑三つ」とは午前2時から2時半に当たります。「草木も眠る丑三つ刻」という言い方はご存じですね。

 で当時はこういう風に時を告げる役人がいて、決まった時刻に宮中の各殿舎を回って、「うしみつーーー」とか言って歩いていたわけです。宗貞が女の部屋を訪れたのは、ちょうどその時だった。

 付句の内容から宗貞は、丑の前の子の刻、すなわち今の午後11時から午前1時の間に行くと言っていたらしく、その時間を少なくとも1時間はオーバーしていたわけです。

 そこで女は、「人心うしみつ今は頼まじよ」と言って来た。「人心」はあなたの心。「うしみつ」は時刻の「丑三つ」に、「憂し見つ」、つまり薄情なのがわかった、という意味が掛けてある。で、「あなた、私のことなんか全然本気で思ってなかったのね。わかったわよ。もうあんたなんかあてにしませんよ!!」と言って来たわけです。

 そこで宗貞は「夢に見ゆやとねぞ過ぎにける」と付けたわけです。付けたと言っても、これは和歌の贈答に近いですね。ただ「ねぞ過ぎにける」の「ね」に、「寝」と「子」が掛けられているのがミソ。「あなたのことを夢に見るかと思って寝過ごしてしまいました。だから約束の子の刻を過ぎて、丑の刻になってしまったんですよ」というわけです。

 「うしみつ」に「ね」という時刻の掛け詞で応じたわけで、見事に「決まったね」、という感じですね。これで相手の女がどうしたか、二人はその後どうなったか、全くわかりませんが、多分女としても無下に追い払うわけには行かなくなった、と考えてよいのではないかと思います。

 さて遍照を始めとする六歌仙の歌風を批判して、その時代にしては斬新な、いわゆる古今風を生み出した中心人物が紀貫之でしたが、この貫之の連歌が菟玖波集に採られています。それが<B>。

 前句作者は菟玖波集には記載がありませんが、その菟玖波集が資料にしたと考えられている俊頼髄脳には「躬恒」となっています。凡河内躬恒オオシコウチノミツネは貫之と並ぶ古今集撰者の一人。古来二人の優劣が論争されて来ましたが、源俊頼は躬恒を高く買っていたようです。

 それはともかく、前句の内容は「奥山で舟を漕ぐ音が聞こえるけど、ナーニ?」という謎掛け。

 それに対する貫之の付けは、「熟み」と「海」を掛け詞にして、「木の実があちこちで熟してるんじゃないの?だから「うみわたる」「海を渡る」」というもの。

 <C>は馬の毛色による応酬。前句が「くろ」に田の「畔」と馬の毛色の「黒」を掛けたのに対して、付句は水に映る姿の意味の「影」と馬の毛色の「鹿毛」を掛けたもの。

 <D>は平安時代を通じて最も魅力的な女流歌人、和泉式部の連歌。藁沓で足を怪我して紙を巻いていた和泉式部を、神主忠頼が「紙」と「神」を掛け詞にして「畏れ多くも神様を足に巻いていいものか」と咎めたのに対して、和泉式部は「かみ」のもう一つの意味、上下の「上」を掛けて、賀茂神社には上社と下社があるので、「これを下の社と言うんですよ」とやり返したもの。

 <E>は全くの駄洒落で、「奥にあるのにどうして柱(端)と言うんだい?」という前句に、「だって家の内に戸(外)が立ってるじゃないか」と付けたもの。

 もったいらしく解説をしてみましたが、別にこんな解説がなくとも理解出来るやさしい内容で、一読哄笑を誘うものばかりですね。この哄笑性が、この時代の連歌の大きな特長だろうと思います。それと同時に、中世の連歌が失ったこの哄笑性を、やがて復活させるために俳諧が生まれた、或いは名前を変えて再生した、と考えられるところですが、それはまだ後のこと。

 ところで世の中にはこういうものを「単なる言葉遊び」と片付ける人がいるだろうと思います。平安時代にもそういう人が多かったから、和歌に較べて連歌が一段低く見られていたのでしょうが、これらに使われた「掛け詞」の技法は和歌においても常套の技法だったのであり、そもそも言葉で遊ぶとは言葉を持つ人間にしか出来ず、しかも精神的余裕がなければ出来ない高尚な営みなのであって、それは文学にとって極めて大事な要素であるはずです。従ってこれらを「単なる言葉遊び」などと言って片付けてしまう人は、残念ながら文学とは縁なき衆生と考えざるをえません。

 それはともかく何気なく解説して来た例の中で、<C>や<E>の例は、後の長連歌発生のためには見逃せない例でした。つまり、短連歌が常に575と77の(この順番の)組合せだったら、いかにも二人で一首の短歌を作るという感じで、そこから長連歌が発生したかどうか、と思われますが、これらは逆に77に575を付けた例。こういうものが作られる中から、更にその後を続ける長連歌が発生して行ったのだろうと考えられます。

 果たして院政期に入ると、次の<E>のような例が出て来ました。これは『今鏡』という歴史物語の中に記録されたものですが、誰かが「奈良の都を思い遣っています」という短句を詠み掛けたのに対して、大将有仁という人が、「奈良の都の八重桜は、秋に紅葉する頃はどんな様子でしょうね」と付けました。前句が空間的な意味で、京の都から奈良の都を思い遣るという内容だったのに対して、その奈良に縁のある八重桜を持ち出して、今度は時間的に、春から秋を思い遣るという内容で付けたわけです。

 これだけでもなかなか見事な付けだったわけですが、この時には更に、越後の乳母という人が、「時雨るる度に色や重なる」と付けた。「時雨」とは秋の終わりから冬の初めにかけて、さあっと降ったかと思うとすぐにやむ雨ですが、和歌の世界ではその時雨が、木々の葉を染めるのだと考えられていました。

 そこで、八重桜というからには、その時雨が降るたびに一重、二重、三重・・・と紅葉の色が深くなって行くのだろうか、と付けたわけです。

 これが現存最古の長連歌の例ですが、おそらくこの頃にはもっと多くの長連歌が行なわれるようになっていたのでしょう。これは三句だけで、この後も続けられたかどうかわかりませんが、次の例はもっと長かったのが確実な例です。

 永万元年と言えば保元・平治の乱も終わった平氏政権の時代。その頃「いろはの連歌」が行なわれたという。「いろはの連歌」とはイロハの一字ずつを順に句の頭にして句を連ねて行ったはずのもので、ここにはその中から「うゐのおくやま」の「う」と「ゐ」の部分しか抜き出されていませんが、仮にここまでで終わったとしても、「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐ」の25字分、すなわち25句は続けられたはずです。

 こうして連歌は、短連歌から長連歌の時代へと遷って行きました。
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キョン太

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