講座10>連歌・俳諧・俳句・連句

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 さてこれまで私は「連句」という言葉を使い続けて来ましたが、これと似たものを指す言葉に「連歌」「俳諧」「俳句」という言葉があります。紛らわしいので解説しておきましょう。

○連歌
 今「連句」と呼んでいる文芸形式は、もともとは「連歌」と言っていました。この形式が発生した古代から中世にかけてはずっと連歌。室町時代も後半から俳諧が盛んになりますが、それも形式は連歌と変わらず、作品を記録する懐紙(かいし−お茶の席なんかで使う懐紙と名前は同じですが、紙質・大きさは全然違います。ずっと大きく厚い。但し今紙屋さんに行って「懐紙下さい」と言ってもお茶の懐紙しか出て来ません。連歌・俳諧用の懐紙なんて今はないらしく、厚手で墨が裏に染みない大きめの和紙を使うしかないみたいです)には「俳諧之連歌」と書いていました。

 俳諧をも含む形式に対する名称、という意味では、「連歌」=「連句」と言っても間違いとは言えない。しかし今の連句を連歌と呼ぶのは若干問題もあり、普通は中世までの作品と江戸時代に将軍家や大名家で行なわれていた純正連歌を指します。

○俳諧
 「俳諧」という言葉は古今集の部立の名前にも使われており、これはもともとは文学形式に対する呼称ではなく、滑稽・諧謔・ユーモア・機知・風刺といった内容を指す言葉でした。

 その意味で平安時代までの連歌はほぼこの俳諧を内容とするものだったのですが、中世特に兎玖波集が准勅撰集になった南北朝頃に連歌の社会的地位が上昇したことから、連歌も和歌と比肩するれっきとした文学であると考えられるようになり、内容的に優美とか幽玄とかを目指すようになってしまいました。兎玖波集の中には俳諧の部があり、それ以外は優美な純正連歌だというわけです。

 これが次の新撰兎玖波集となると、もう俳諧の部さえなくなってしまう。そういう風潮に対する反動として、俳諧の連歌だけに興味を示す人たちが出て来た。そして江戸時代になると、将軍や大名は連歌を武士の文芸として保護しましたが、庶民の間では俳諧の連歌が盛んになって行く。

 その二つは基本的に同じものなんですが、内容・作法・流行した階層が違うことから、上級武士達が保護したものを連歌、庶民の間で流行したものを俳諧と呼んで区別しています。

○俳句
 この言葉は既に江戸時代に、わずかながら使われていました。それは俳諧の句という意味。俳諧は発句から始まって脇句・第三、以下の平句、最後の挙句から成りますが(連歌も同じですね)、その一つ一つの句が俳句だということになるわけです。

 但しそういう用例は余り多くはなく、しかも明治に入って正岡子規が脇句以下を否定、発句だけを独立させて俳句と呼ぶようになって現在に至り、現在の俳句人口は相当な数に上ります。そこで現在の多くの人が「俳句」という言葉から思い描くのは、江戸時代に行なわれていた俳諧の中の発句と、明治以後の脇句以下を伴わないいわゆる俳句なのですね。

○連句
 連歌と俳諧の項で説明した通り、連歌も俳諧もやり方は基本的に同じです。ただ江戸時代においては両者を区別する必要があり、ともに文学史上のテクニカルタームになってしまっている。そこで現在連歌と俳諧を含む名称、及び現代人がかつての連歌や俳諧と同じ形式で作品を作る場合の呼び名として、「連句」という言葉を使っているというわけです。

 以上なんですけど、わかってくれた?ま、これから連歌・俳諧の歴史を粗々説明しますから、その中での使い分けを見ればわかってもらえると思うんだけど。簡単に言えば、連歌・俳諧は歴史的名称、俳句は近代に成立した連歌・俳諧或いは連句とは全く違った性格の文芸に対する呼び名、連句は連歌・俳諧を合わせた上それらの方法に倣って現代において創作されつつある文芸の総称、という具合になるかと思います。

キョン太

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※何で「講座00に進む」のかと言いますと、11の前に11以下の予告を書いたのでした。その時に00というヘッダー番号を使ったのです。