目次
はじめに
1 連句とは何か
1)長句・短句を連ねる伝統的な言葉遊び
2)連句を知らない人が多いわけ
A 俳句隆盛の陰で
B 個人主義の発達
C 国語教育の問題
2 連句の意義
1)最も日本的な文芸形式
2)寂しい現代人を救う
3 連句の歴史
1)連句の起源
2)短連歌の時代
3)長連歌の発生
4)賦物と去り嫌い
5)南北朝時代 二条良基の活躍
6)室町時代 宗祇の活躍と俳諧の発生
7)近世前期の俳諧 貞門→談林→芭蕉
8)芭蕉・蕪村・一茶
9)川柳の派生
10)俳句の派生と連句の衰退
11)連句の再生
12)連句再生の課題
改訂履歴
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はじめに
連句のことを手っ取り早く知ってもらうために、「連句のルール早わかり」と「連句の歴史早わかり」を作っておきました。が、それでは余りに簡略すぎるという方のために、もうちょっと詳しい連句の歴史とルールブックを作ることにしました。私は連句が専門というわけではないので、専門家の方々から見ると不正確だったり物足りない点もあるかもしれません。私もこれで満足しているわけではありません。今後も勉強を続けて、折々増補したり訂正したりするつもりです。ここが間違っている、ここが足りない、ということに気づいた方は、どうぞ掲示板やメールでお知らせ下さい。
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1 連句とは何か
1)長句・短句を連ねる伝統的な言葉遊び
連句とは基本的に、575音の長句と77音の短句を、複数の人が交互に付けて進めて行く言葉遊びです。この遊びは少なくとも奈良時代以前から行われ、特に中世から近世にかけて盛んに行われました。日本の伝統的な遊びの一つ、と言っていいでしょう。
似た遊びに尻取りがあります。尻取りは文学と呼ばれることは普通ありませんが、連句は文学と考えられています。現代においてはそう呼んでも構いません。でも文学であるかどうかは連句にとってはどうでもいい問題で、基本的には言葉遊びと呼んで差し支えないでしょう。
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2)連句を知らない人が多いわけ
奈良時代以前から続いていた連句を、現代の人の多くは知りません。それはなぜか、次の3つの理由が考えられます。
A 俳句隆盛の陰で
連句が衰退した直接のきっかけは、明治時代に正岡子規が俳句という新しい文学形式を始め、それが大流行したことでした。連句は575の発句から始まり、以下77の脇句、575の第三という具合に進められて行きますが、子規はその脇句以下を捨て、発句だけを独立させ、それを俳句と呼びました。以後俳句は大流行し、今では世界中で俳句が作られています。それに対して子規に捨てられた脇句以下を含む連句は、以後ほとんど捨てて省みられない状態が続いていました。
B 個人主義の発達
しかし連句の衰退は実は江戸時代から始まっていました。松尾芭蕉は発句だけを集めた発句集に対して否定的な見解を示していましたが、既に芭蕉以前から発句集はあり、以後時代を逐って連句集よりも発句集が増えて行きます。脇句以下の句の中にも、前句に付けるというより、1句として受けをねらうような作品が増えて行きます。これは近代における自我の発達、或いは個人主義の発達に対応した現象でしょう。そこに明治になって西欧の個人主義が入り込みます。いよいよ個人主義の度合いを強めた近代の日本人は、他の人々と協調しながら楽しみ合う連句よりも、個人的な思いを述べる俳句に惹かれるようになります。だから正岡子規が行った俳句革新運動(実は俳句の創設)は、子規がやらなくても誰かがやったはずのことだったのでしょう。
C 国語教育の問題
連句が急速に衰え俳句が盛んになった結果、俳句は知っているけれども連句は知らない、という人が増え始めました。その結果、江戸時代の芭蕉や蕪村は子規よりずっと前の人だから俳句なんか知らないし、知らないから作ったこともないのに、俳句を作っていた人だという誤解が生まれ始めました。おそらくその結果、学校の国語の時間にも、「さあ、今日は芭蕉の俳句を読みましょう」などと言う先生が出始めたのでしょう。いつからそうなったかはまだ調べていませんが、現代の古典教育の中では、物語や随筆、日記、和歌、俳句は教えられますが、連句は教えられません。国語の先生方が知らないので、生徒もわかるわけがない。連句を教えてもらえなかった人が先生になるから、その生徒も教わるわけがない。こういう循環が繰り返されている結果、現代の人のほとんどは連句を知らないのです。
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2 連句の意義
日本人は歴史認識が乏しいとは、中国や韓国からしばしば指摘・批判されるところです。連句を知らなくても批判はされませんが、日本人が自分達の歴史を知らない一例ではあるでしょう。奈良時代から江戸時代まで、少なくとも1300年は続いて来て、中世近世には爆発的と言ってもいいくらい流行した連句を知る必要は、日本人の歴史認識を確かなものにするためにも、あると言えるでしょう。
が、歴史的な知識を正確にしたり豊かにするということと、連句の現代的意義とは一応別物です。かつてそういう文芸形式があったということは認識すべきであるにしても、それを今後も作ったり鑑賞したりするべきか否か、は別の問題です。江戸時代までは盛んに行われていたとしても、それが既に歴史的役割を終えたものであり、現代人が作ったり鑑賞したりする価値はないものだとするならば、別に大声で取り上げる必要はありません。
でも、連句には今後も続けて行くだけの意義があると思います。その意義とは、次の2点に集約されるかと思います。
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1)最も日本的な文芸形式
明治以降も連句以外の文学、物語、随筆、日記、紀行、和歌、川柳、誤解はあるけれども俳句といった伝統文学は評価され続けています。なぜ連句だけが取り残されたのかというと、それは連句以外の文学形式が、西欧にもあるからです。物語は小説だし、和歌や川柳・俳句は小さな詩と考えればいい。でも連句のような形式は西欧にはありません。
明治以降日本人は、西洋的な物の考え方を受け入れそれに慣らされて来ました。その結果、西洋にもあるものならば評価するけれども、ないものは価値なき古臭い物と考えて捨ててしまうことになったのでした。連句以外にも、たとえば雅楽等の伝統音楽、着物という服等、捨てられてしまった物はいくらでもあります。
日本のみならず、大航海時代以来の世界は西欧の価値観で裁断されて来ました。コロンブスがアメリカ大陸を発見した、などと言われる。が、コロンブスがアメリカに着く以前に、ずっと前からそこで暮らしていたインディアン達がいました。
今でも西欧には、差別主義者と呼ばれる白人第一主義者達がいます。彼らは白人こそ世界で最も優秀な人種であって、黄色人種や黒色人種は差別されるべき人々だ、と主張し続けています。
でもそういう考え方が間違いであることは、今や明白です。世界は白人だけの物ではありません。
連句に話を戻すと、明治以降の日本人は西欧を崇拝する余り、西欧の価値観で処理しきれない物は古臭い価値なきものと考えて捨てて来たのでしたが、実は西欧の価値観では処理できないものだからこそ、日本人にとっては価値ある物なのではないでしょうか。あらゆる文学形式の中で、連句にこそ、日本的なる物が凝縮しているのではないか。日本人が日本人たる所以を知りたいならば、まずは連句に触れてみることが必要、ということになるのではないでしょうか。
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2)寂しい現代人を救う
学生時代の近代文学の時間に、昔の孤独と現代の孤独の違い、を教えられたことがありました。かつて寂しいという場合、その理由は自分の近くに人がいないことだったそうです。それはそうでしょう。今より遙かに人口が乏しかった時代、隣の家まで1里、なんてことはよくあっただろうと思います。今でも村の過疎化が話題になりますが、昔はそんなの当たり前だったのですから、それは寂しかったことでしょう。
それに対して現代の孤独とは、集団の中の孤独。つまり回りに人は沢山いるけれども孤独を感じる。これは都会生活をしていれば誰でも感じることではないでしょうか。私は学生時代、京浜東北線沿線の与野から、丸ノ内線の茗荷谷の近くにあった大学に通っていました。途中池袋を経由します。池袋は東京や新宿、渋谷、上野などと同様、人が溢れていました。通勤通学の時間帯に駅の構内を歩くと、回り中人だらけです。列車に乗っても人だらけで、厚着の冬は回りの人達と押し合いながら電車に揺られていました。でもそういうとても近くにいる人達が、実は自分の全然知らない人達です。何を考えているのかもわかりません。そう思ったら、とても寂しいと感じたことがしばしばありました。
では昔の孤独と現代の孤独はどちらが寂しいか。寂しいことには違いはありませんが、昔の孤独は、人が増えて来れば解消できるかも知れないという希望が持てました。が、既に回りに人が溢れている現代の孤独では、その希望はありません。より絶望的な孤独に現代人は包まれています。
現代において人間関係が希薄化しているとはしばしば指摘されることです。でも、連句は複数の人間が向かい合って巻きます。相手が何を考えているのか、絶えず気に掛けていないと進行できません。こういう形式は、或いは現代人の寂しさを救うことになるのではないか。そういう希望が持てる文芸形式なのです。
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3 連句の歴史
1)連句の起源
連句がいつ始まったかはわかりません。南北朝時代の二条良基は、『筑波問答』という連歌論書に、連歌の起源と言い伝えられて来たという三つの例を挙げています。一つは古事記や日本書紀の天地開闢神話にある、イザナギノミコトとイザナミノミコトの言葉の掛け合い。高天原から天下って来た二柱の神様は、初めて結婚して子供を産むことになりました。その時、イザナギノミコトが
あなうれしゑやうましをとめにあひぬ
と言ったのに対して、イザナミノミコトが
あなうれしゑやうましをとこにあひぬ
と答えたというものです。
もう一つはやはり古事記・日本書紀にある日本武尊の伝説。父景行天皇から東国の豪族達を征伐することを命じられた尊は、常陸の国、今の茨城県の筑波まで遠征し、その帰り道甲斐の国、今の山梨県の酒折の宮に着いた時、
ニヒハリツクバヲスギテイクヨカネツル
と詠み、誰かこれに付けろと命じました。その時、「火をともすいとけなき童」(古事記では「御火焚きの翁」)が、
カヽナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ
と付けたので、尊は大層喜んだと言います。
もう一つは万葉集にある例。ある尼が
佐保川の水せき入れて植ゑし田を
と詠んだのに対して、大伴家持が、
刈るわさいねはひとりなるべし
と付けたというもの。
天地開闢神話の例はあくまでも神話だし、ただ結婚に際して言葉を掛け合っただけで、音数からも詩であるとは言えません。日本武尊の例は定型の歌になっていますが、形は577を基本とした物で、これは片歌という歌体です。2句合わせると旋頭歌になりますが、これについては片歌の唱和という捉え方が一般的です。それに対して尼と家持の例は575と77を別の人が作った例で、これは後世の短連歌と同じなので、これを現存最古の連歌の例と考える研究者が多いようです。が、連句の基本的な性格は複数の人が一つの作品を作るということであり、音数は絶対条件ではないと考えることも出来、ヤマトタケルの例も捨てがたい物があります。この例を最古の連歌と考えた時代が長く、和歌を「敷島の道」と呼ぶのに対して、連歌のことを「筑波の道」と呼ぶのは、この例によります。
但し日本武尊の話はあくまでも伝承なので、今のところは、万葉集の例を現存最古の連歌作品と見、しかしこういう歌い方は家持以前から行われていた可能性がある、と見るのが妥当でしょう。連句の起源は、少なくとも万葉集以前、と考えておけばとりあえずはいいのだろうと思います。
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2)短連歌の時代
万葉集の尼と家持の例は、形式的には二人で1首の短歌を作ったように見えますが、内容的には、1首の短歌とはかなり様相が違います。この娘は私が女手一つで大事に育てたのですよという前句に対して家持は、それでも自分の物にしてしまう男は一人でしょうと応答しているので、短歌2首による贈答と似ています。
このように二人で575と77の句を付け合うという形の連歌は、平安時代を通して盛んに行われていたようです。現存作品は余り多くはありませんが、拾遺集や金葉集といった勅撰集や伊勢物語・大和物語のような物語、或いは俊頼髄脳のような歌論書などにも残り、南北朝時代に出来た准勅撰連歌集である菟玖波集にも納められています。その中には僧正遍昭や紀貫之・凡河内躬恒・和泉式部といった有名な歌人の作品もあり、ほとんど無名の作者の作品もあります。例をいくつか挙げておきます。
〈例〉
内に侍ふ人を契りて侍りける夜、遅く詣で来ける程に、うしみつと時を申しけるを聞きて、女の言ひ遣はしける
人心うしみつ今は頼まじよ
良岑宗貞
夢に見ゆやとねぞ過ぎにける(拾遺集一一八四)
※良岑宗貞は後の僧正遍昭。彼がデートに遅れた時、相手の女性は「あんたなんてあたしのことを全然考えてないんだから。もうあてになんかしないわよ」という内容の長句を投げ出したのに対して、若き日の遍昭が、「あなたのことを夢に見るかと思って寝ていたら、寝過ごしてしまった、それで約束の子の時を過ぎてしまったのですよ」と答えたもの。
奥山に舟漕ぐ音の聞こゆなり
なれる木の実やうみわたるらん 紀 貫之
(菟玖波集一八八四)
※筑波集には前句作者が書かれていませんが、別の伝承(俊頼髄脳など)では凡河内躬恒の句。躬恒が「奥山で船を漕ぐ音が聞こえるよ」という変な謎かけをしたのに対して、貫之が「木の実が熟すということを「うむ」という。それで「うみわたる」つまり海を渡っているんじゃないかい」と答えた例。
田の中に馬の立てるを見て 永源法師
田に食む駒はくろにぞありける
永成法師
苗代の水にはかげと見えつれど(金葉集六五三)
※永源法師が「田圃で餌を食っている馬は、何しろ田のくろ(畦)にいるので黒の馬だった」と言うのに対して、永成法師が「苗代水に影が映る、そのように鹿毛だと見えたけどね」と答えた例。
和泉式部が賀茂に参りけるに、藁うづに足を食はれて紙を巻きたりけるを見て、神主忠頼
ちはやぶるかみをば足に巻くものか
和泉式部
これをぞ下の社とは言ふ(同六五八)
※和泉式部が賀茂神社を参詣した折、藁靴で足を怪我して紙を巻いていた。そこで神主の忠頼が紙と神の同音を効かせて「畏れ多くも神様を足に巻いていいものか」と咎めたのに対して、和泉式部は「かみ」のもう一つの意味「上」に対する「下」と、下賀茂神社の「下」をかけて、「だから下の社と言うんじゃありませんか」と答えた例。
柱を見て 成光
奥なるをもやはしらとは言ふ
観暹法師
見渡せば内にもとをば立ててけり(同六六四)
※成光が「奥にあるのに何で「はし(端)ら」と駄洒落を言ったのに対して、「家の中にも外、つまり戸があるよ」とこれまた駄洒落で観暹法師が答えた例。
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3)長連歌の発生
それに対して、院政期頃になると2句では終わらない例が出て来ます。たとえばある人が
奈良の都を思ひこそやれ
と詠んだのに対して、大将有仁という人が、
八重桜秋の紅葉やいかならん
と付けました。京都から奈良を空間的に思いやるという前句に対して、奈良から八重桜を連想、その八重桜は、秋に紅葉したらどんな色だろうと、春から秋を、時間的に思いやる句でした。従来ならこれで終わっていたのですが、この時は越後の乳母という女性が、
時雨るる度に色や重なる
と、更に句を付けました。時雨とは秋の終わりから冬の始めにかけて、降っては止み降っては止む降り方の雨で、ちょうどその頃に紅葉するので、歌人達は時雨が葉を紅葉させるのだと考えました。そこで八重桜は八重だから、時雨が一度降ると一重、二度降ると二重、三度降ると三重、という風に色が重なっていくのではないか、と付けたのでした。
その頃には、こういうことがほかでも行われていたのでしょう。この例は『今鏡』という仮名の歴史書にある例ですが、『古今著聞集』には、
同じき御時(永万元年一一六五頃)の事にや、いろはの連歌ありけるに、たれとかやが句に、
うれしかるらむ千秋万歳
としたりけるに、此次句にゐ文字にや付くべきにて侍る。ゆゆしき難句にて人々案じ患ひたりけるに、小侍従付けける、
ゐは今宵明日は子の日と数へつつ(朝日古典全書『古今著聞集』「和歌第六」)
という例があります。ここには2句しか例示されていませんが、「いろはの連歌」とあるので、頭に「い」を付けた句から始まって、少なくとも「ゐ」までは来たことがわかります。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐ」と。
こうして連歌は長くなり、長くなった連歌を長連歌と呼ぶのに対して、それ以前の2句完結の連歌を短連歌と呼ぶことになります。
平安時代が終わり鎌倉時代になると、鎌倉時代最初の天皇である後鳥羽院は新古今集の撰集を命じ、それが一段落すると連歌に熱中するようになりました。おそらくその頃、百句で完結させる百韻が生まれたのではないかと考えられます。当時は百首和歌が盛んで、六百番歌合、千五百番歌合といった新古今に沢山歌を提供した歌合も、一人の歌人が詠んだ百首の和歌を単位としています。この頃の連歌で百句完全に残っている例はありませんが、菟玖波集に収録されたこの頃の作品の中には、詞書きに「百韻」と書く例があります。この百韻は、江戸時代前期までは、俳諧でも標準的な形式でした。
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4)賦物と去り嫌い
後鳥羽院の御所で百韻連歌が行われていた時、連歌のルールは賦物を中心としていたようです。賦物とは、たとえば尻取りで、地名しか出してはいけないとか、食べ物の名前しか出してはいけないという場合があります。そのように、全ての句に同じ規則を課することが賦物です。月賦とは毎月同じ金額を返済して行くことです。当時の賦物としては、三字中略、四字上下略、源氏国名、白黒、五色などといったものがありました。三字中略とは三字の言葉で間の一字を抜かすと別の言葉になること、四字上下略は四字の言葉で、上下の二字を抜くと別の語になるということ。それを句毎に課するというルールです。そのほか山何、何人のように、何に当たる言葉を使うという賦物もあります。
が、鎌倉時代のうちに、ルールは賦物から去り嫌いに変わります。去り嫌いとは、ある場面である言葉を去るとか嫌うというルール。このルールが現在まで続いているので、詳しくはルールについての解説に譲ります。
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5)南北朝時代 二条良基の活躍
長い連歌の歴史の中で特筆される人物として、鎌倉時代の後鳥羽院、南北朝時代の二条良基、室町時代の宗祇を挙げることが出来ます。二条良基は北朝の摂政、関白、太政大臣を長年にわたって歴任し、政治家として大活躍しましたが、同時に文学者としても当時最も活躍した人でした。彼の作品は和歌、連歌、日記等多岐に亘り、少年時代の世阿弥を引き立てて後年彼が能の世界で大成する契機を作り、或いは歴史物語の増鏡も彼の作品だという説があります。が、中で一番力を入れていたのが連歌で、初の准勅撰連歌集菟玖波集を、地下の連歌師救済と一緒に編集し、筑波問答を初めとするいくつもの連歌論書を書き、当時京都と鎌倉で異なっていたルールを統一して、応安新式というルールブック(これを式目と言う)を作りました。
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6)室町時代 宗祇の活躍と俳諧の発生
良基以後何人もの著名な連歌師が登場しましたが、中でも代表的なのが宗祇です。出自は不明ですが、東常縁から古今伝授を受けて歌人としても第一人者となり、古典学者としても大成し、彼が源氏物語の講義をすると、当時の閣僚級の貴族達が彼の草庵に集まったそうです。連歌の世界では菟玖波集に次ぐ第二の准勅撰連歌集である新撰菟玖波集を、猪苗代兼載という人と一緒に編纂し、弟子の肖柏・宗祇と3人で巻いた「水無瀬三吟百韻」は、連歌史上の最高傑作と評価されています。
菟玖波集・新撰菟玖波集という二つの准勅撰連歌集は、連歌の社会的地位を飛躍的に高めました。それまでは言い捨てて構わない、当座の感興があればいいと考えられていた連歌を、書き残す必要のある文芸と考えられる物にしました。が、それによる弊害もありました。連歌がまじめで優美な文芸になってしまったことです。
平安時代の短連歌を見ると、余り優美とは言えない作品がいくらでもあります。既に挙げた例を見ればわかるでしょう。多くは駄洒落に類するものです。しかしああいう面白おかしい、或いは馬鹿馬鹿しいとも言えるような作品が、連歌の社会的地位が高まると消えてしまう。菟玖波集は面白おかしい句を俳諧の部に入れていましたが、俳諧の部があるということは、それ以外の部には面白おかしい句はない、あとは優美な句ばかりだということを意味します。新撰菟玖波集にはもう俳諧の部さえない。全てが優美とか幽玄とか、和歌で推奨されるような境地を目指した句ばかりになってしまった、ということです。
しかしそれはあくまでも准勅撰連歌集に収められた句についてのみ言えること。実は多くの人は、良基や宗祇の目指した境地なんか目指していなかった。連歌とは昔ながらの面白おかしい即興の句であると考えていた。そこでそういう面白おかしい句がいいと思う人達は、新撰菟玖波集が成立して間もなく、『竹馬狂吟集』とか『新撰犬筑波集』といった、面白おかしい句ばかりを集めた句集を作る。たとえば新撰犬筑波集の巻頭句は、
霞の衣すそは濡れけり
佐保姫の春立ちながら尿をして
というもの。霞の衣の裾が濡れたよ、という前句に対して、佐保姫が立春の日に立ち小便をしたのでと付けた例。佐保姫とは春の女神。春の女神が立ち小便という、下ネタの句です。
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7)近世前期の俳諧 貞門→談林→芭蕉
和歌が貴族の文芸であるのに対して、連歌は武家の文芸と見なされました。そこで江戸時代になると、将軍家や大名家はお抱えの連歌師を抱え、正月には家臣達を集めて連歌会始めを催しました。和歌の歌会始を真似た物です。
こうして室町時代以来の純正連歌は江戸時代になっても続いて行きますが、それは上級武家の世界でのこと。もっと下々の者達は俳諧を好みました。近世初期においては連歌師でもある松永貞徳が指導した貞門が、その後はやはり連歌師の西山宗因が指導した談林派が活躍します。
貞門と談林の違いは、それぞれの宗匠の代表句を見ればわかりやすいと思います。貞徳に
花よりも団子やありて帰る雁
という発句があります。「帰る雁」は古今集の伊勢の歌、
春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる
という歌を踏まえています。つまり伊勢が、春になって雁が北へ帰るのは、雁が花のない里に住み慣れているからかしらと推測したのに対して、「花より団子」という下世話な諺を盛り込んで雅と俗を対比させ、その落差でおかしみを演出したのでした。
これに対して宗因の代表句、
すりこぎも紅葉しにけり唐辛子
は、もう古典を踏まえてはいません。すりこぎも木だから紅葉する、ほら唐辛子を擦ったからと、古典の教養が無くてもわかるストレートな面白さを目指したものでした。談林派の代表的俳諧師に井原西鶴がいます。彼は独吟でスピードを競う矢数俳諧を創始し、その中でたとえば、
なんと亭主変わった恋がござらぬか
昨日もたわけが死んだと申す
というようないかにも現代的な句を詠んでいました。
談林が下火になってから、俳諧師達はそれぞれ新風を模索して試行錯誤を続けていましたが、その中から飛び出したのが芭蕉でした。芭蕉の代表句は、
古池や蛙飛び込む水の音
というもの。貞門・談林の句が一目で俳諧とわかる句だったのに対して、芭蕉のこの句はどこが俳諧なのかわかりにくい。優美・幽玄を旨とした純正連歌に似ています。でも蛙とは古今集以来花陰で鳴く物として詠まれ続け、実は水に飛び込んだり泳いだりする物であるという別の属性は注目されていませんでした。芭蕉が狙ったのは、言葉本来の意味を吟味することにより、俗語を詩語にしてしまう、ということだったようです。
なお芭蕉は最初のうちは従来通り百韻を詠んでいましたが、そのうち36句で完結する歌仙を愛用するようになりました。旅をしながら巻いていたので、余り長い時間を費やすことが出来なかったのと、芭蕉が目指すような句を作るためには、従来よりちょっと時間がかかったからです。
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8)芭蕉・蕪村・一茶
芭蕉は日本各地を旅して俳諧好きを指導していたので、その死後各地に芭蕉の跡を継ごうとする人達が現れました。蕪村や一茶も、そういう人達の中の一人一人でした。蕪村は、「三日翁の句を唱へざれば、口茨を生ず」と言い、毎日芭蕉の句を詠むことによって芭蕉のような句が出来るように努めていたのでしょう。が、時代と個性が違うので、蕪村の句は芭蕉の句とは似ていません。
牡丹散って打ち重なりぬ二三弁
とか、
五月雨や大河を前に家二軒
とか、蕪村の句は具体的な事物を描写して絵画的である特徴があり、一茶も、
やれ打つな蝿が手をする足をする
とか、
我と来て遊べや親のない雀
など、独特な世界を展開しています。芭蕉以後の代表的作者を蕪村・一茶とするのはあくまでも一つの見方であり、其角や柳居、夏目成美、松窓乙二といった、これまで余り注目されなかった作者達にも注目すべきであるという意見があり、耳を傾けるべき点もありますが、私自身が余り勉強していないので、ここでは従来の一般的な把握に従っておきました。
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9)川柳の派生
近世の俳諧を代表する作者は何と言っても芭蕉でしょうが、前述のように芭蕉の俳諧は、一見どこが俳諧かわかりません。もっとわかりやすく面白おかしいものを求める人達がいたのは、連歌が純正連歌になってしまった室町時代に、俳諧を求める人達がいたのと同じ事情でしょう。川柳とは、たぶんそういう欲求から生まれた物だと思います。
川柳とは柄井川柳という人名で、彼はその当時沢山いた前句付け点者の一人でした。前句付けとは、77や575の句を出題し、前句が77ならば575を、前句が575なら77の句を出し、優劣を競った競技。詰め将棋のようなもので、出題に対して複数の人が解答例を出し、よい解答には賞品を出す、というものです。その前句付け点者の中で、なぜか川柳は最も人気が出てしまったので、いつの間にか前句付けと言えば川柳、ということになってしまいました。当人はほとんど句を作らなかったので、作者としての才能はなかったのだと思いますが、指導者としては傑出していた、ということなのでしょう。
初めのうちは当選句は前句と一緒に紹介されていたのですが、そのうち前句無しの付句だけが発表されるようになりました。その結果現在の川柳は前句無しが当たり前になりました。こうして連句は、江戸時代既に川柳を派生させていたのでした。以下、有名な句を前句と一緒に紹介します。
こはい事かなこはい事かな
かみなりをまねて腹掛やつとさせ
わがままな事わがままな事
唐紙へ母の異見をたてつける
ほしい事かなほしい事かな
捨てる芸始める芸にうらやまれ
はやりこそすれはやりこそすれ
四五人の親とは見えぬ舞の袖
ふとい事かなふとい事かな
よい事を言へば二度寄り付かず
念の入れけり念の入れけり
喰ひつぶすやつに限つて歯をみがき
離れこそすれ離れこそすれ
子が出来て川の字形に寝る夫婦
迷惑な事迷惑な事
取次に出る顔のない煤払ひ
色々があり色々があり
弁天の貝とは洒落たみやげもの
運のよい事運のよい事
役人の子はにぎにぎをよく覚え
あかぬ事かなあかぬ事かな
これ小判たつた一晩居てくれろ
発明な事発明な事
清盛の医者は裸で脈をとり
(新潮古典集成『俳風柳樽』より)
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10)俳句の派生と連句の衰退
江戸時代の間に川柳を派生させた連句は、近代に入ると俳句を派生させました。川柳が付句を独立させたものだったのに対して、俳句は発句を独立させたもの。わずかそれだけの違いとも言えますが、本体の連句にとっては大きな違いでした。俳句の派生は、連句を衰退させてしまったのです。
「俳句」という語は既に江戸時代から使われていましたが、それは俳諧の句という意味で、発句も付句もその意味では俳句でした。が、余りよく使われる表現ではなかったようです。その「俳句」という語を発句に限定し、かつ脇句以下を否定して、近代的な意味での俳句を創始したのは正岡子規でした。明治26年2月、新聞『日本』に載せた『芭蕉雑談』の「或問」で、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と書いたのが特に俳諧否定論として知られています。
実を言えば子規は「俳句」という語と「発句」という語をしばしば混用していたので、自分が俳句を創始したとは思っていなかったようであり、『芭蕉雑談』の俳諧否定論はあくまでも当時の月並俳諧の宗匠達を批判するための戦略的な発言であり、自身は俳諧にも興味を持って芭蕉や蕪村の連句を鑑賞したり実作したり、ということもあったので、連句衰退の責任を子規にだけ負わせるのは酷でしょう。既に江戸時代から連句よりも発句にばかり精力を注ぐ傾向が出始めていたし、そこに西洋流の個人主義が流れ込んだ結果、子規の戦略的発言に多くの人が乗ってしまった、というのがより正確な把握なのでしょう。が、結果的に、子規の連俳否定論が連句の衰退を加速させてしまったことは事実でした。
それに対して子規の弟子高浜虚子は俳諧が好きで、子規の死後明治37年9月『ホトトギス』に掲載した「連句論」で、「此明治の俳運復興以来文学者仲間には俳諧連歌は殆ど棄てゝ顧みられ無いで、同時に発句が俳句と呼ばるゝやうになつて、俳諧といふ二字が殆ど俳句といふ事と紛らはしくなつてしまつた。其処で所謂俳諧の発句といふべきを略して俳句といふが如く、俳諧の連句といふべきを略して連句といふ方が俳句に対して裁然と区画が立つやうに覚えられる」と述べました。俳句と俳諧では区別が難しいので、俳諧に替わって「連句」という言い方にしようという提唱です。
「連句」という名称はそれ以後の物なので、連句は俳句と並ぶ近代文学の一種と言えます。が、俳諧と言うと俳句と間違えられるから連句と呼んだ、という事情なので、実は俳諧そのものであるとも言えます。そして俳諧とは連歌の一種だけれども、いわゆる連歌と形式は同じ。そこで広い意味では、万葉以前から続くこの形式の文芸全体に対する近代における名称である、と考えることも可能です。こうして現在「連句」という名称は、狭義には高浜虚子が提唱して以後の近代文学の1ジャンルを指す名称であり、広義にはかつて連歌とか俳諧と呼ばれた、万葉以前から続くこの種の共同制作の文芸形式に対する、近代以降の名称、ということになるでしょう。
こうして俳句に対する連句は生まれたのですが、以後長らく日の目を見ることが少ないマイナーな文学になってしまったことは、虚子の言っていた通りでした。
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11)連句の再生
この連句が再び注目され出すきっかけになったのは、昭和40年代以降、徐々に海外で注目され始めたことによるでしょうか。メキシコのオクタビオ・パス、フランスのジャツク・ルボー、イタリアのエデュガール・サングィネティ、イギリスのチャールス・トムリンソンは、1969年(昭和44年)4月にパリの小さなホテルの地下室で、連歌をまねた共同制作の詩集(「レンガ−詩の鎖」)を作り、アメリカのアール・マイナーは1979年(昭和54年)に「日本の連歌」を出版しました。現在アメリカではかなり盛んに「Renga」と称する連句が作られているといいます。日本の詩人大岡信は、1980年代にたまたま客員教授としてアメリカの大学に滞在した折、同じ大学の教授であり詩人でもあったトマス・フィッツシモンズに連句の伝統を語り、式目を大幅に緩和して連詩を行い、1982年12月に『連詩■揺れる鏡の夜明け』という本を出版しました。
こうした海外からの注目、いわば外圧よりも少し遅れますが、パソコン通信の誕生も連句の再生に一役買ったのではないかと思います。B−NETというパソコン通信ネットワークでは1980年終わり頃から連句が始まっていたらしく、1990年3月に『祈年祭』という連句集を出しています。PC−VANでも同じ頃連句が始まり、林義雄・辻アンナが電子メールで巻いた歌仙を、実際にやりとりしたメールごと本にして、『電脳連句で遊ぶ−ヂイとアンナのパソコン通信』(1990年11月三省堂)を出版しました。この本では私が巻末に解説を書いています。
1990年代も後半になるとパソコン通信は衰え、代わってインターネットが盛んになります。このインターネット上でもあちこちで連句が行われるようになりました。
またこうした新しい動きとは別に、衰退したとはいえ各地に連句結社があって、細々とながら活動を続けており、今は連句協会がそうした結社を束ねる働きをしています。高校で連句を教える人も出始め、徐々に連句は復活を遂げつつあると言えるでしょう。
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12)連句再生の課題
着実に連句人口は増えつつあるとはいえ、俳句に較べればまだ微々たる勢力ではあります。この連句が更に普及するためには、何が必要なのでしょうか。
一つは教育だろうと思います。テレビ、新聞、雑誌、本等、多くの人に情報を伝える媒体はいくつもありますが、日本人全員に伝える、という意味では学校教育ほど効果のある媒体はありません。その学校教育の中で、芭蕉が俳句を作っていたなどという不正確な知識を伝えることをやめ、正確に連句の知識を伝えることは、連句にとってのみならず、教育にとっても意義あることのはずです。いつまでも不正確な、間違った知識を伝え続けることが、教育にとってよいことであるはずはないでしょう。
もう一つは、現に連句に携わっている人達が、狭い結社意識を持たず、垣根を低くして初心者を迎え入れること。連句に熟練した人々は、煩瑣な式目を覚えるのに長い時間をかけたので、ともすると初心者にも厳しい修行を要求することがあります。が、連句をやろうという人の全てが連句の専門家になるわけではありません。初心者も熟練者も、ともに楽しめる連句を目指す必要があるでしょう。
また連句は数人で巻くのが普通なので、連衆と連衆でない人との間には知らず知らずのうちに垣根が出来てしまうことがあります。結社とは連衆の結社なので、結社以外の人は入りにくいものです。仲間内で楽しむことも必要ですが、結社の人も時々結社を飛び出し、別の結社の人や結社に入っていない人と巻いてみる、或いは結社とは別の仲間を作って巻く、という活動が必要でしょう。
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改訂履歴
2001年11月15日 脱稿。
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