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時の話題
2004-7〜2
2004-08-03
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今月の目次
◇印は《日々雑感》より転載
福井・新潟豪雨災害(04/7/24) ◇「バカの壁」と規範意識〜つながり合うために(04/7/21〜24) ◇養護学校(04/7/19) ◇開放病棟(04/7/18〜19) ◇障害は個性か(04/7/18〜20) ◇「ゆとり教育」と「反動教育」の危険(04/7/15) ◇プロ野球再編とナベツネ(04/7/15) ◇参院選2004(04/6/20〜7/13)


【養護学校】vol.210《新掲示板レス》
◆僕のふるさとは、介護が必要な老人も精神障害者も、同居するように暮らしていた町だったように思います(vol.209参照)。みながちゃんと差別を乗りこえていたかというと、決してそうではないと思いますが、日常的に接していたということが、大切だったんだと思いますね。そして、元学級保障の取組も、「養護学校義務化反対運動」も、障害児の専門教育そのものを否定するものではなく、障害児を「隔離」して非日常的な存在にしてしまう危険性と、摩擦を起こしぶつかり合いながらも共に生きる力を育てることの大切さを子どもたちに時間をかけて身につけさせる実践を訴えるものだと思いますからね。(eatyhiroさんへの掲示板レス、04/7/19)
◆老人介護施設の増設には、専門性が求められている反面、社会的隔離の論理がちらほら見えてしまうんですよ。それは、養護学校にも言えます。座敷牢や就学猶予の時代からすれば、養護学校の障害児専門教育は画期的なものだったと思うんですが、それは新たな「隔離」の危険性も合わせ持っていたと思うんです。乙武洋匡さんも、幼稚園から地域の学校に通っていますよね。養護学校ではなく、地域の学校に通えるように、彼の両親が熱心に、「前例がない」という教育委員会と協議を重ねた結果です。養護学校でも、内側から壁を壊さねばと、様々な試みをされていますしね。(neko.さんへの掲示板レス、04/7/19)[→7月目次]


【開放病棟】vol.209《新掲示板レスより》
◆精神障害者の処遇問題は、「社会的入院」と言われるように、社会のあり方が入院を余儀なくさせているとの批判がありますが、知的障害者についても「社会的入所」というべき社会の実態がありますね。障害者を家族にもつ者の意識をしばる歴史的課題や、精神病院の経営や医療保険点数制度の問題など、克服すべき課題がたくさんありますね。(neko.さんへの掲示板レス、04/7/18)
◆精神科の開放病棟については、母が奈良医大の看護婦を長年していましたので、僕自身が高校でノーマライゼーションについて考えはじめたり、大学で精神医療の現状や社会防衛的な法制度について明確に怒りをもつ以前から、時々聞かされていました。しかし、母にすれば、鍵をかけないことだけで人権擁護になるのか?という疑問があったようで、その理想と現実についても、中学生の僕に語っていたように思います。いや、それ以前かもしれません。僕の生家は寺ですが、キツネに憑かれた(いわゆる憑依現象)という近所のおばあさんが、よく隠れに来ていましたし、分裂症(現在は統合失調症といいます)の方やヒロポン中毒の方なども、地域でともに暮らしていましたので、子どもの僕の素朴な質問に母はあれこれ答えてくれていたように思うからです。そうした僕のふるさとでも、やはり心ない差別的中傷があったのでしょうが、「隔離」してしまえば、排除から共生への学びもまた失われてしまうのだろうと、思います。(eatyhiroさんへの掲示板レス、04/7/19)[→7月目次]


【障害は個性か】vol.208《新掲示板レスより》
◆「こてこての同和教育はリアリティーを失った」というようなことがいわれ出して、もう何年たったでしょうか。僕がどうなのかは分かりませんが、「すっきりスマートな人権教育」へ移行する流れに、上辺だけのっかる「実践無き言い訳野郎」が、おっしゃる「めんどくさがり」なのでしょうね。さて、まず障害の表記ですが障害者問題のページに、次のような断りを書いてあります。
《「 」無しで漢字の障害とします。この語句への抵抗(障害者への抵抗ではありません)を示すため、「 」をつけたり、ひらがな表記をする場合があります。限定された場面では、個々のこだわりの表現でいいと思いますが、文書上の語句として説明なしに使われる場合、そうした抵抗の意図が伝わらない場合があり、さらには「自分たちとは違う特別な存在」との印象や、「個性の無い一律の存在」としての障害者像を与えかねません。また、形式に堕すことは「単なる抵抗のポーズ」とのそしりも必然です。kurochanとしては、原則として「 」無し・漢字表記をすることにしています。(2003/3/13)》
また、障害の三側面(機能的・能力的・社会的障害)とよく言われますね。例えば、僕に左手の小指がないとします。まず機能的に障害をもつことになります。ところが、そのことで、実際にどれほどの能力的不都合があるかといえば、それは人によって違ってきます。指の欠損はピアニストなどにとっては、重大な能力的障害ということになります。ところが、左手小指の欠損が、社会的人物評価での不都合をもたらすとすれば、それは社会的障害ということになりますね。基本的には、障害を「個性」ととらえたいkurochanなんですが、「機能的なやっかいさ」はついて回りますし、「能力的な制約」であることにも変わりありません。そうしたハンディを引きうけて生きるその障害者のアイデンティティを深く尊重することのない、「上辺でスマート」な「個性」視には、やはり抵抗を覚えます。(eatyhiroさんへの掲示板レス、04/7/18)
◆「金と権力がすべての目的でしかないブッシュや小泉、金と権力のためには手段・結果を問わない連中が普通に扱われるこの社会こそ異常(病気)なのだと思う」という、ご指摘には全くもって僕も同意します。さて、その戦争国家化をもくろむ連中にまんまと絡め取られた河合隼雄ですが、彼もそうであるユング派精神分析では、「分裂」症の方によく見られる「幻覚・妄想」と、世界的宗教で語られるシンボリックな宇宙観、そして、世界各地に共通する代表的童話や神話には、共通するパターンが見られるとされています。これを普遍的無意識における元型といいますが、つまり、「分裂」症者は、人間がもつ根元的なイメージをストレートに感じることができるピュアな精神の持ち主とも言えるわけです。「感受性の鋭さ」は、直感的に本質を捉えることができるためだと言えるのかもしれません。そして、「分裂」症者とそれ以外の者は、どこで「線」が引かれるかというと、そうしたピュアさや、直感の鋭さが、群を抜いているために、畏れの裏返しとしての「排除」がまずあり、そこに様々な症状を関係づけて「枠」をつくっているようにも思えます。心の風邪ともいわれる「躁鬱」症についても、「心の鈍感さ」を保てないが故の反応なのかもしれませんね。そもそも、「障害とは少数派のことである」との見方があり、何が「健常」で、何が「障害」であるかは、多数派か少数派であるかの違いでしかない、という見方で、僕もそう思います。例えば、右手の指が6本の人がいるとしても、それが障害かどうかは、他の人々の右手の指の数で決まってくるというわけです。「5本向け」の様々な社会的仕組みが、「6本」の人の障害になるわけですから。また、「平均並みに物事が処理できない」または、「平均以上に物事を処理できてしまう」ことを障害とするのは、人間を道具に見立てた悲しき陥穽(落とし穴)だと思います。ナチス支配の軍事体制下では、障害者も民族的マイノリティーも性的マイノリティーも、そして反戦思想を持つ者も、排除・攻撃の対象になりましたよね。河合隼雄は、「元型」の研究として「童話」の分析にも取り組んできましたが、「差別や平和」の問題には、「鈍感」すぎるように思うkurochanです。医者が人権意識を持たないことは、恐ろしい事態を招くのだということも、歴史に学ばねばと思っています。(RAさんへの掲示板レス、04/7/20)
◆、「五体満足でない人は、確かに様々な困難を引き受けなければならないが、五体満足でないことが不幸せになるのは、五体満足でない人を不幸せだと思う人がいるからだ」ということを、確認しておきたいと思います。(neko.さんへの掲示板レス)[→7月目次]


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