インドネシア拉致事件(21)
LAST UPDATE 2004-12-28
調書と笛


 おとり捜査の打合せも終わり、警察からホテルに戻って待機すると思ったら、調書を作るので、もう一度説明しろというのだ。
 また一から話するのかと、うんざりしたが、これは仕方がない。警察署入口近くへ移動し、丸顔で真面目そうな制服警官と向き合って、最初から話をすることになった。その警官は日本語も英語も分からないということで、私服警官のトラが横に座って翻訳し、その警官がタイプライターを打つという作業が始まった。
 おとり捜査の準備なのか、他の日本人のための通訳なのか、トラは時々席を外す。そのたびに、この作業は中断するのだ。

 すぐ隣には、同じように調書を作ってもらっている大柄な白人男性がいた。少々頼りなさそうな若者だったが、どうもドイツ人のようだ。そして、時々「ボブ」だの「マリック」だのと言っている。俺と同じ連中に金を巻き上げられたに違いない。こいつと俺とは同じ立場なのかと思うと、なぜか情けない気分になったが、声をかけようにも、俺にはドイツ語は分からない。

 そうこうして、時々中断しながら調書づくりが進められていたのだが、なかなかトラが戻ってこない中途半端に長い沈黙の時間があった。その時、俺は信じられない光景を見た。

 目の前の制服警官が、おもむろに引き出しから笛を取り出し、ぴーひょろと、吹き出したのだ。

 一瞬何が始まったのか理解できなかった俺だったが、次第に腹が立ってきた。こちらは詐欺の被害にあって大変だというのに、この警官は勤務中にのんきに笛を吹き出したのだ。しかし、次の瞬間、ガイドブックのある一節を思い出した。「バリ島の人間は、沈みかけの船の上でダンスが踊れる」というものだ。バリ島の人間は、これ以上努力を尽くしても仕方がないと判断したら、後は楽しく過ごそうとする文化をもっているというものだった。だから、沈みかけの船でも、それがどうしようもないと判断すれば、楽しくダンスを踊ることができるのがバリの文化だというのだ。日本では、不謹慎にあたるような言動に、思わず腹を立ててトラブルを起こしてしまいがちだが、それは「文化の違い」であるのだという理解が必要であると説明されていた。

 異文化理解が苦手な日本人は、こうした落とし穴に陥ることが往々にしてあると思う。例えば、北朝鮮の金日成が死んだ時、大泣きをする女性達の姿をテレビで見て、北朝鮮では「将軍様の洗脳」がいかにすすんでいるか、といった論評をする評論家がいたりしたが、これはむしろ「文化の違い」と解すべきだった。北朝鮮や韓国では、人が死んだ時に「泣き女」と呼ばれる女性達に大泣きしてもらい、参列者の悲しみをストレートに引き出す風習があるのだから。「文化の違い」を無視して、手前勝手な解釈をすることは、有害無益であると心するクセが日本には欠けているように思う。こんなところにも、多文化共生社会への課題があるのだ。

 さて、いったんは腹が立った俺だったが、次の瞬間、「これはまさに文化の違いなんだ」と思って、その警官の笛を聞くことにした。近々祭りがあるのか、彼の趣味なのかどうかは分からないが、彼もまた、俺との意志疎通ができなくなって、それがどうしようもないことだと判断したからこそ、笛を吹き出したのだろう。

 異文化に触れる貴重な体験をした俺だったが、それでも不都合はあった。ボブとの約束の時間、午後4時が近づいていたのだ。俺はホテルの自室で待機していなければならないのだから。

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