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クイズ【94】
大航海時代
LAST UPDATE 2003-09-12

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【94】出題日時 2003年 9月 1日(月) 8時40分
 15〜16世紀のヨーロッパは大航海時代ともいわれ、多くの船乗りがインドをめざし、さらには世界周航をめざし出航していきました。長期の船上生活では野菜不足から壊血病で病死する者が続出、また減刑を条件に乗り込んだ囚人なども多く、トラブルも多かったようです。そんなわけで、出港時に比べて帰港時には乗組員が相当減っていたようです。コロンブスの第1回航海は3隻120人[一説では90名]が出航しましたが、帰港できたのは1隻40名でした。また、ヴァスコ=ダ=ガマの一行は4隻170名で出航、2隻55名が帰港しています。では、5隻265名で出航したマゼラン一行のうち、帰港したのはどれぐらいだったでしょうか。
 A 4隻119名 B 3隻99名 C 2隻38名 D 1隻18名

正解者・・・・じゃいママ▽・。・▽さん、Kubocchannさん、ようちゃん、ケムンパスさん →3ptゲット
(得点表)

解説と解答

 マゼランの航海は相当幸運に恵まれていたと言われていますが、それでも地球一周ともなれば、相当犠牲が払われたようです。コロンブス第一回航海もそうですが、マゼランの世界周航も、出発時の乗員数は史料によって幅があります。

 コロンブスは死ぬまで、自分はインドにたどり着いたのだと信じていたことは有名ですが、マゼランのころになっても、まだそれは東アジアなんだと考えられていたようです。また、ヴァスコ=ダ=ガマが東回りでインドに到達していたので、マゼラン一行は西回りと東回りのどちらが早くモルッカ諸島に着くかを証明するために、西回りに進んだようです。

 5隻のガレオン船で200数十名で出航したものの、香辛料の主産地である目的地モルッカ諸島に着くまでに1隻が沈没し、1隻は反乱が起こり帰還しています。そして、マゼランと20数名の乗組員も、フィリピンのマクタン島でラプラプ王らに殺されてしまいます。結局スペイン南部の港町セビリアに着いたのは、たった一隻のみで、生き残った乗組員も18人だけだったようです。

 予想外の「太平洋」があったために、思わぬ長旅になり、乗組員の反乱や各地の原住民の抵抗にあい、またライバルのポルトガルとのトラブルもあったようです。また食糧事情も最悪だったようです。次のような資料もあります。
 予定していなかった太平洋の横断中には、食糧はほとんど底をつき、乾パンはぼろぼろにくずれて、ウジ虫さえわいていた。水も腐りきっていた。それもなくなると、マストに張ってあった牛皮を食べたり、船内のねずみを奪い合ったりして命をつないだ。壊血病で死亡する船員もいた。(鈴木豊「ヘンな世界史」)
 マゼランの航海日誌についてはすでにクイズで出題しましたね。

 ところで、コロンブスの話に戻りますが、彼が最初に大西洋を横断した1492年といえば、グラナダが陥落し、レコクキスタ(国土回復運動)が完成した年です。つまりスペイン・ポルトガルのあるイベリア半島からイスラム国家が追い返された年です。それが1月です。そして、スペインを完全なカトリック教国にするため、国王フェルナンドとイサベラは3月31日、ユダヤ人に対し、4か月以内に国外退去するよう命じたんですね。また、スペインに戻ってきた者は死刑に処し、その財産は没収するとも宣告されました。その国外退去期限が7月31日です。実際は8月2日に最後のユダヤ人が出国しています。そして、コロンブスがパロス港から出航したのもこの日。

 コロンブスの船にユダヤ人が多数乗り込んだとも言われ、コロンブス自身もユダヤ人だったのではないかとも言われるゆえんです。乗組員数があいまいなのも、これと関係があるかもしれませんね。また、帰国したくなかった乗組員がいたことも、十分予想されます。