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クイズ【148】
ヘンリー8世
LAST UPDATE 2004-09-22

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【148】出題日時 2004年 9月15日(水)
 エリザベス1世の父親であるヘンリー8世は、イギリス国教会を成立させて、のちの絶対王政の基礎を築いたと評されます。さて、ヘンリー8世がローマ教皇と対立して出した「首長令(国王至上法)」によって国教会が成立したのですが、その対立の背景には何があったのでしょうか?
 A 女児エリザベスしか産まず、男児を産まなかった妻アン=ブーリンの処刑
 B スペイン
女王イサベルの娘キャサリンとの離婚
 C 待望の男児を産んだ妻ジェーン=シーモアの処刑
 D 31歳年下の妻キャサリン=ハワードの処刑
 E 最後の妻キャサリン=パーとの離婚

正解者・・・・フーセンの羊さん、neko.さん、ケムンパスさん、Kubocchannさん →3ptゲット
(得点表)

解説と解答

 16世紀初め、18歳でイギリス国王に即位したヘンリー8世は、典型的な二世お坊ちゃん国王。いくらスポーツマンで背が高く、歌も上手くて、金に糸目をつけない豪快で若い国王といえども、裏を返せば、わがままで無責任でいい格好しいであり、政治的才覚もないうえ、「女癖」が悪すぎるという彼は、さまざまなトラブルを巻き起こしました。

 さて、出題のローマ教皇との対立についてですが、これはローマ教皇が彼の「離婚」を認めてくれなかったことに端を発します。現実には、「結婚無効宣言」を出すことによって、事実上の離婚を認めることはできたのですが、当時の教皇クレメンス7世はそれをしませんでした。

 というのは、イタリア戦争でフランスのヴァロア家をイタリアから追い払ったのが、神聖ローマ皇帝カール5世にしてスペイン国王カルロス1世でもあるハプスブルク家のカールなんですが、そのカールの権勢はますます盛んで、クレメンス7世はそのカールに頭が上がらなかったのです。そして、ヘンリー8世によって離婚されそうになっている女性は、そのカールの叔母にあたったんですね。

 教皇クレメンス7世が、ヘンリー8世の離婚を認めるわけにはいかなかった事情とは、カトリックの教義によるものというより、カール5世との関係においてだったんですね。血族の連帯を大切にするカール5世の叔母が離婚されそうになっているのに、それを認めてしまうことは、教皇の立場を危うくしてしまうものだったんです。

 その、カールの叔母とは誰かというと、カタリーナ。イングランドでは、キャサリン=オブ=アラゴンと呼ばれた女性です。カタリーナは16歳で、15歳のアーサー王子に嫁いだんですが、そのアーサーが翌年の春に突然死します。新婚5か月のことでした。スペイン王室との政略結婚で招いたカタリーナをそのまま帰国させるわけにはいかないと、父親のヘンリ7世国王は、アーサーの弟で11歳のヘンリ王子と婚約させたんですね。そのカタリーナも40歳を過ぎたころ、7回身ごもったものの女児メアリしか育たなかったのは兄嫁との結婚の戒めという旧約聖書の教えに背いたからだという理由で、既に国王になっていたヘンリ8世はカタリーナとの離婚を主張しはじめたんです。男の子の跡継ぎが欲しかったヘンリ8世は、王妃についていた若い女官アン=ブーリンとすでに浮気をしていました。そのアン=ブーリンとの間に生まれたのがのちのエリザベス1世です。

 ローマ教皇から破門され、ヨーロッパ最大の権力者カール5世と対立してまで結婚したはずのアンでしたが、エリザベス以外は産まれず、「千日のアン」と呼ばれるように、わずか3年の結婚生活の末、浮気をしたと言いがかりをつけられて処刑されてしまいます。ヘンリー8世は、その10日後にはジェーン=シーモアと結婚していますから、ヘンリーの「女癖」の悪さが事の真相なんでしょうね。そのジェーンとは死別、4番目の妻アンとは離婚、5番目の妻キャサリン=ハワードは31歳年下の18歳でしたが、結婚1年足らずで処刑、6番目の妻キャサリン=パーだけはヘンリーが先に死んだので難を逃れています。

 そんなヘンリー8世は、イギリス国教会成立の基礎を作った人物でもあり、それはのちのイギリス絶対主義時代をもたらすことになったと評されます。ローマ教皇と対立した彼は、イングランドの全教会の長は国王であると宣言したことがきっかけです。これを首長法(国王至上法)と呼んでいます。クイズ第137問で取り上げたトマス=モアは、イギリスの大法官でしたが、この首長法に反対し、処刑されています。もちろん、浮気の嫌疑で処刑された妻達と関係を持ったとされた男性達も処刑されていますし、最大の側近といわれたトマス=クロムウェルまで処刑されるなど、彼の横暴ぶりは目に余るものでした。

 またまた歴史の授業みたいになってしまいましたが、正解は「B」です。