ケータイ・ネットと子どもたちの人権
【書評】
LAST UPDATE 2010-03-19
参考図書お薦めベスト10一般書評
by kurochan

■『友だち地獄−「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義著、ちくま新書、2008.3)■ (10/3/18)
本当の話がしたい
  子どもたちが「部落地名総鑑」を作り、ケータイでネット共有する時代がやってきてしまった。機種によっては、実際のパノラマ写真を組み込んだ地図と連動させることさえ可能だ。在日コリアンの芸能人やスポーツ選手の一覧などという悪意を込めたリストも簡単に手に入り、「受けるネタ」としてコピペ(コピー&ペースト)されネットを通じて広まっていく。現実の結婚差別事象につながった例もある。また、容疑者が未成年のため、報道では学校名や名前が伏せられていても、ネット上ではそれも暴露され、実は在日外国人だとか、被差別部落出身だとか、顔写真は、親の仕事は、住所は、メールアドレスは、などという不確かで偏見に満ちた情報が次々と更新される。日々の生活でも、子どもたちは、電子掲示板やブログやプロフの日記などに、学校や教員への不満、友だちの悪口を書き連ね、カメラやムービー機能にGPS機能まで組み合わせて友だちを攻撃し、匿名やなりすましで姿をくらます。傷ついた子どもは、新たな書き込みに怯え、無言の閲覧者におののき、誰も信用できなくなる。死を選ぶ子どももでてくる。
 「何てことだ!子どもたちはどうなってしまったのか!」と、焦るのは当然だ。実際に差別事象や悪質ないじめが起きているのだから、家庭も学校も地域も行政も関連企業も、すべてが真剣に対応する必要がある。一方、「子どものすることは大人の鏡」でもあるのだから、子ども以上にネットマナーのなっていない大人たちへの対策も急務だ。
 もちろん、大半の子どもは、こうしたケータイ・ネット事情をよく思っていないし、悪質な「学校裏サイト」なんか見たくもないと思っている。メールの作法も繊細だ。一部の子どもたちが追いつめられ、悲鳴をあげているとみるべきではないか。
 社会的な問題は、個人の次元にすべてを還元できないし、社会一般を問うだけでも解決しない。個人の問題でもあり、社会の問題でもある。いや、個人と社会の関係の問題といえるだろう。したがって、子どもにのしかかる関係不全を考える必要がある。
 ケータイ・ネットの危機的状況から垣間見える子どもたちの悲鳴は、「本当の話がしたい」という悲痛な訴えではないか。これは、「一部の不心得な子ども」の問題として限定されるものではない。ケータイ・ネットに親しむ大半の子どもにも言えることだろう。
 ケータイ・ネットの諸問題を扱う書籍は次々に出版されているが、子どもの自我の発達と現代的しんどさに向き合おうとする書籍も手にとっていただきたい。そこでようやく図書の紹介だが、『友だち地獄−「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義著、ちくま新書、2008)をお薦めしたい。
・「ケータイは、危うい人間関係のなかで自分の位置を知るための、いわば社会的GPSの装置」
・「『優しい関係』にとって、いじめは触媒のようなものである」
 といった表現から、読み始めは「言葉に巧みな学者」という印象を受けるかもしれない。しかし、著者自身もまた「生きづらさ」を抱えて生きてきたというだけに、その言葉は巧みさ以上に胸に突き刺さる示唆に満ちている。「子どもからケータイを取り上げろ」という威勢のいいかけ声よりも、傷つきながらもケータイに依存せざるをえない子どもに大人はどう向き合うのかを丁寧に考え、リアルな関係で本当の話をするべきなのだ。子どもたちはそれを待っている。
 自我の発達と子育てという問題は、ケータイ以前からある課題だが、インターネットに簡単にアクセスできるケータイを手に入れた子どもたちは、増幅された感情がナイフと化して自他を傷つける世界に取り込まれたといえる。そして、そんなナイフの切れ味を踏まえたケータイ・ネット生活の術を身につけるなかで、同調圧力が子どもの息を潜めさせ、些細な悪意や誤解は拡幅して、「もりあがるネタ」から一挙に悪者が仕立て上げられる。
 「教室は たとえて言えば 地雷原」。著者が紹介するある中学生の川柳は、そうした濃密で息苦しく荒涼とした時空間が子どもを取り巻いていることを悲しくも暗示する。他者の痛みを受けとめ、違いを認め合う人権学習がなぜ難しくなっているのか、ここにヒントを読み取ることができる。

(奈良ヒューライツステーション「ならヒューライツニュース 2010年2月号」掲載)

■「ケータイ・リテラシー 子どもたちの携帯電話・インターネットが危ない!」(下田博次著、NTT出版、2004.12)■ (08/11/27)
 差別表現が横行する電子掲示板への取り組みをすすめるためインターネットステーションを立ち上げた奈良県啓発連協が、昨年から『これでいいのか「情報化」社会』と銘打ったシンポジウムを開催されています。2005年度は、ケータイ電話と青少年について話し合われ、不肖私もパネラーとして参加しました。シンポに向けて約20冊ほどの関連書籍に目を通しましたが、中でも、こうした課題について考える手引きとしてよくまとめられているのがこの本です。
 ケータイに関しては、電磁波や交通マナーの問題・通話時間や料金の問題が多く語られてきましたが、いわばモバイルインターネットパソコンとして性犯罪や差別表現へ子どもたちが容易にアクセスできてしまう危険性と、そうした側面を認識せずに「単なる便利な電話」として買い与えたままの親の意識のズレ、心理的依存やリテラシーなどの問題も含めた学校教育の対応の遅れなども指摘されるべき状況です。地域の実践者としての姿勢を基礎に、そうした諸課題をわかりやすく解説しているところがうれしい本です。
 さらに私は、都合のよい相手を効率的に選択するシステムが、反差別の仲間づくりという、じっくりと向き合う姿勢を忌避する態度を増幅させる効果をもっているなら、人権教育のあり方にも関わってくる問題だと危惧しています。
 ことケータイに関して生徒と話をすると、通話機以上にメール機として重用している子どもたちの不安や揺れる気持ちが様々に伝わってきますが。我々教員は、そして親は、子どもたちを前にしながら、こうした側面を素通りさせてしまっているのではないでしょうか。
 ついでながら、さらに実践的に子どもたちとの関わりを考えるには、『大人の知らない子どもたち』(今一生著、学事出版、2004)などがお薦めです。また、『「ケータイ・ネット人間」の精神分析』(小此木啓吾著、朝日文庫、2005)も極めて示唆に富む本です。(奈良ヒューライツステーション「ならヒューライツニュース 2005年12月号」掲載)

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