延喜式神名帳に「讃岐刈田郡小山田神社」とあり、式内当国二十四社の一つである。古代より柞田郷の氏神で、もとは現在の地から
            東に200mほど行った黒渕村中河原(なかがら)の地に鎮座されていた。いつの時か明らかではないが、現在の地に遷宮され、旧地には
            今なお神事の井戸が、字中河原の美藤氏の屋敷内に残っている。山田神社の由緒を記録した文献には「全讃史」「西讃府志」「和名抄」
            「生駒記」などがある。
             祭神は大穴牟遅命・小名毘古那命・山田大娘神である(式内社調査報告)。「生駒記」「全讃史」では、月読命を本来の祭神とする記述も
            あり、山田大娘神・大己貴神・ 素盞嗚神・ 月讀神を祭神とする説もある。
             旧郡名を冠して豊田神社とも、山田大明神とも呼ばれていた。
             人皇第二十七代安閑天皇(531〜535)の皇后山田皇女にお子さんがなかったため、その名の滅びんことを憂い、匝布屯倉の地として
            賜った地で、この皇女である山田大娘神を創祀したことから山田神社と名づけられたとされる。
             中世の推移は不明だが、貞享四年(1687)に拝殿造営され、元禄八年(1695)に豊田郡奉行河口久右衛門が木材を寄進して本殿を改築、
            宝暦七年、延享五年にも社殿が改築され、文久三年(1863)には、黒渕村庄屋秋山平右衛門・北岡村庄屋為右衛門らが本殿の屋根を葺き
            替えている。また、丸亀藩京極家の崇敬も厚かったと伝えられている。
             明治維新後、郷社に列格。
             大正五年(1916)に拝殿を改築、その後、本殿の屋根を茅葺きから銅板に葺き替え、昭和六十年十月には拝殿・社務所が建替えられた。
             別当は延命寺、祀官は牧野飛騨、神子一人である(西讃府志)。婦人と子供の守り神として信仰が篤かった。
             戦前まで柞田村全てが氏子であったが、現在は黒渕地区二百余戸で護持している。

           『厳島神社』
             山田神社の境内には堀がある。元禄八年(1695)井上貞重が、山田神社境内に内堀を造り、その中央に市木島姫命を祀り、弁天祠と称した。
            当時より黒渕の若衆が護持し、毎年、旧暦6月7日にちょうさの土用干しをした後、この弁天祠の夏祭を行い、その直会(なおらい)では、普段
            規律の厳しい若衆も上下の隔てなく、無礼講がゆるされた。

           『お日待ち』
             いつの時代からか判然としないが、旧暦の九月二十日の夜は、氏子の若衆が「お日待ち」と言って山田神社に集まり、その年の新米を大釜
            で炊き、「もっそ」と呼ばれる大きなおにぎりを作り、まず神前に供えて五穀豊穣を感謝するとともに、家内の牛馬の安全を祈願した。
            その後、お互いにもっその食べ比べをして一夜を明かし、日の出を待った。一睡もしてはならず、睡魔を振り切るために、「力石」の担ぎ比べが
            行われた。上弦の月が木の間に漏れて、薄明るくなる頃、境内が急に騒がしくなり、若衆たいちは持て余す青春の血をたぎらせ、力石を担ぐ事
            を競った。その結果は、もっその食べ比べと相関して番付が作られ、その年の横綱が決められた。その番付は、嫁取りにも影響したと言われる。
            力石は二十八間(100kg)あり、何度も担ぎ上げて競った。
             その風習もいつの間にか消滅し、力石も行方知れずになっていたが、昭和五十年秋祭前の神社清掃で力石が発見された。
             現在は地区の繁栄を祈り、境内の一角に神として、力石は祀られている。
       

    『明治時代の山田神社』 
    
  この時代には、まだ多くの松がの残っている。秋には松茸が生えたと言われている。締柱には、まだ金具が見られる。
    写真の左手には、今は取り壊された御輿蔵屋根が見える。拝殿前の灯篭、百度石、社碑、花を生ける鉢などは、現在別の位置に移動されている。
    明治5年に、拝殿、本殿共に改修されたと言われている。
  


       



                 『大正・昭和時代の山田神社』
                    この拝殿は、大正5年に建替えられ昭和59年まで使われた。昭和6年には本殿の屋根が、桧皮葺から銅板葺に葺き替えられた。


                   



                        『平成時代の山田神社』
                        この拝殿は昭和60年に建替えられた。明治時代の写真と比べると、松がほとんどなくなっていることが分かる。
                       
ここ数年で松喰い虫による被害が増大している。この3枚の写真を見比べると、物事の栄枯盛衰を感じる。
                       拝殿と楠は大きくなり、松と石碑は朽ちてゆく・・・。ゆく川の流れは絶えずして・・・。


                      

                                      
引用文献 『日本地名大辞典』 『百創立百周年記念誌 観音寺市立柞田小学校』 『柞田村誌』 『写真集ふるさと観音寺』