長野「まちづくり」見学記KAZ 2007年8月18〜19日 以前から都市交通や「まちづくり」などで話題に上っていた長野市ですが、夏休みの避暑?も兼ねて周辺各都市と合わせて巡ろうということになり、とも様・TAKA様と私で2泊3日(実質は1.5日程度の日程)で出掛けましたので、その顛末をば。 8/17 長野への長き道のり今回は私が西から、とも様・TAKA様が東から出発となり、またそれぞれの都合から遅がけからの出発となり、岡谷で合流する形で長野へ向かいます。普通列車長野行は3連とはいえ、夜間にも関わらず「よく乗って」います。長野県内の鉄道需要の「底堅さ」を改めて垣間見た、というところでしょうか。長野到着後一旦ホテルにチェックインし、速攻で市街地へ。長野電鉄の様子を見ながら権堂に出て市内散策。ホームにはちょうど「代走特急」が入線、まだ盆休みが続いているような週末ということもあり乗客は控えめですが、22:04発の普通列車は権堂発車時点で2連がさらっと満席といった乗車率。地方都市でこの時間帯としては「よく乗っている」と評せるでしょう。権堂からはアーケード商店街・中央通りと歩き、夜の市街地を見ながら長野駅に戻ります。駅前バス乗り場で川中島バスが運行する金曜のみ運行の深夜バス「フライデー松代・若槻」を見学。地方都市における深夜バス実施の「はしり」として当時は評価が高かったものですが、相変わらず(地方としては)よく乗っています。今となっては23:10分という発車時刻は目立って遅い訳ではなくなりましたが、地方都市における深夜運行(それまでは22時台での運行も珍しかった)を一般化させた功労者、とも言える存在です。長野電鉄もほぼ同時期に設定した23:03発の普通列車を皮切りに深夜運行のサービスを拡大、今では23:20発の普通列車が毎日運行されるまでになっています。一時期は何と「0時ちょうど発」の試験運行も行いましたが(別ページ参照)、これは乗り合いタクシーとして定期運行される形で引き継がれています(長野電鉄の時刻表に記載あり)。
8/18 まちづくり三昧な一日昨夜は遅くまで歓談したこともあり(決して深酒をした訳ではないですとも、ええ)、朝はゆっくりめのスタート。長野10:50発の「ゆけむり」で小布施へ向かいます。いやはや、2000系時代の特急を知る者としては、涙が溢れんばかりの乗車率です。権堂出発時点で7割程度の乗客があり、ちょうど観光利用に適した時間帯ということもあって車内も華やぎます。長野駅から僅か20分少々で小布施に到着。やはり本格的な優等運行は「早い」です。これなら自家用車との競争力もあり、朝夕ラッシュ時のB特急(停車駅を増やした「通勤」対応列車)の運行が続いているのも頷けます(長野電鉄の朝ラッシュ時についてはこちらを参照●)。さて小布施に到着した「ゆけむり」ですが、かなりの乗車が車内に残っています。少し前までなら観光利用は小布施まででしたが、長電の特急で湯田中渋温泉(もしくは志賀高原)へ向かう流れが太ったとは、「ゆけむり」のアナウンス効果絶大といったところでしょうか。ここのところ全国区でのメディア露出も多く、それも効をなしているのでしょう。湯田中渋温泉(特に渋温泉)も様々な努力をしているようですし、この流れが定着することを望むばかりです。 さて小布施では簡単に市街を見学。相変わらず「非常に上手」な街並みの「クリエイト」が為されています。古い建造物を残しながら、機能的には「嫌みなく」近代化し、「見た目と機能」のバランスを上手に取っており、まちなみの「保存」を超えた「活用法」として、注目を集める街です。有名な甘味の存在や、価値ある美術品を収蔵する人々が居たこともありますが、やはり市民の「まちづくり」に対する意欲と協力があってこそ、出来上がった街でしょう。もはや「街をぶらぶら歩く」こと自体が観光素材になっています。
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北長野からは吉田地区・北国街道沿いの住宅地を抜け、SBC通りへ向かいます。このエリアは古くからの住宅地で、長野電鉄も長野線を開業させた大正15年当時から信濃吉田までは複線としており、今に至るまで高頻度運行が続いています(日中15〜30分毎)。モータリゼーションが一気に進んだ昭和40年代後半からは、「さわやか日替わり通勤市民運動」と称した独自のノーマイカー通勤運動を始めており、その啓発看板が残っていました。 さてSBC通りですが、ここは長野電鉄と共に長野市の都市形態として特徴的な街路で、郊外生活をサポートする商店などが早くから立地し、1980〜90年代は「郊外ライフ」を楽しむ空間として、タウン情報誌などにも良く取り上げられていました。最近は「更新期」を迎えつつあり、通りの「コア」となっていたジャスコの進退が問題になったりしています(売上減少ではなく建物の使い勝手等の問題)。 SBC通りからは、新しく「郊外ライフ」の顔となりつつある若槻大通り経由で若槻団地へ向かいます。若槻大通りは典型的な郊外型ロードサイドショップが出店していますが、バス路線も設定があり以前より増便されているなど、自動車社会に合わせつつも公共交通利用もできる、不思議なエリアとなっています。通りの西側には「若槻団地」と称される住宅地が拡がりますが、ここにはバスが日中1時間あたり4〜5本程度乗り入れており公共交通の利便性が高いエリアとなっています。前述の金曜運行深夜バス「フライデー若槻」も、この団地住民をメインターゲットとした設定です。団地自体は1960年代末から開発されており、中には老朽化が進んだ集合住宅もありますが、規模・設計とも地方都市の郊外住宅団地としてはよく練られたもので、当時は人気が高かったようです。 若槻団地からは隣接する浅川団地を経て中心市街に向かう川中島バスに乗車、車窓から団地内の様子を窺います。経路途上には狭隘区間も多く、容易に自動車を「増やせない」事情が透けて見えます。山麓の集落を抜けて善光寺裏の住宅街を貫き、善光寺門前へ回り込んだ大門バス停で下車。バス通りにもなっている表参道(中央通り)は多くの観光客が溢れ、善光寺の「集客力」を実感します。周辺は長野市が永年かけて整備してきた「修景」も大詰めを迎え、大寺院門前としての風格と、年代は様々ながら「営々と続く都市の息吹」をうまくミックスした、面白い空間になってきています。 表参道のの緩やかな坂を下るとセル環状道路を構成する「大門線」と交わる大門交差点、向かいに「ぱてぃお大門蔵楽庭」が見えます。この位置は長野市が以前からバスターミナルの設置を構想し、また貸切バスで来訪する観光客の「乗降ターミナル機能」を持たせるべく検討を続けてきた場所で、「ぱてぃお」には高速バス発着場と観光バス待合所も兼ねた「人だまり空間」としての機能が持たせてあります。
しかし「ぱてぃお」の特徴はそれだけではなく、この位置に残存していた土蔵や楼閣造りの居宅・茶室などの建築物の「活用」にあります。未利用となっていたこれらの建造物群が、市街地の「更新」に伴って安易にビル化してしまうことを危惧した周辺住民の手により、建造物や在来の路地を活かす形で「再開発」を企画・運営を行うという「住民主導型まちづくり」の好例としても意義のあるものです。 構内は「街路としての雰囲気」をよく残しつつ、在来建造物の「土蔵」に合わせたテーマに沿う形で「外装」は修景が為されていますが、一歩中に入ると「近世と近代、和と洋の融和」といったイメージで意表を突かれます。入居する店舗・施設も観光客に偏らず、どちらかと言うと「市民生活の潤い空間」といった印象で幅広い年代層に利用されるものがあり、また夜間においても「陰」にならない空間設定と入居店舗の選定など、かなり「練りこまれた」再開発です。さすがに行政関係や都市開発系の見学者が絶えないはずです。 |
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ここからは「都市内の潤い空間に」と整備が続けられている南八幡川の改修区間へ向かいます。南八幡川自体は歴史ある河川なのですが、近年は暗渠化されていたりドブ川化していたものを改修し、都市内の気軽な親水空間として蘇らせたものです。今回は千歳通りとの交点部分でミニ親水公園として整備された箇所から、水路沿いに長野大通りまで。親水空間は造作も小ぢんまりしていますが「わざとらしさ感」がなく、いい感じでした。水路沿いに路地を歩けるのも、いい散策路となりそうです。 水辺の散策の後は駅前に戻り、夕食(酒宴?)をば。戻る途上に千歳公園を経ましたが、都心部唯一の都市公園というだけでなく、百貨店や服飾雑貨店が周囲に多くあるため、まち歩きの休憩スポットとして、また都市景観のアクセントとして、いい感じに「使われて」います。長野市は、こういった「ちょっとした空間」の使い方が上手だなと、来るたびに感じます。 夕食を済ませ、夜も更けつつある市街へ再度出ます。南石堂町や権堂地区は、相変わらずの「繁華」ぶり、呼び込みの声も途切れません。私たちは斜めに走る路地(通称しまんりょ小路)にあるバーで軽く一杯。こういう「小路」があちこちにあり、面白い店がこっそり営業していたりする、こんな「迷路感」が長野市街地の魅力のひとつでしょうか。 |
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翌日(松本市街)へ |
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