最初のページでは、ある意味でピークに達した一時期について述べたが
それでは今度は時代順に、うめだ花月オープンから遡って、最初から考察してみよう。
43年体制以前の組分けは、想像の範疇を越えないものであり
別表にまとめて記す
◎34.3〜35.4
ケチ本こと吉本興業の本領発揮と言うべきか、落語重視の他の寄席と
一風変わったことをしようと、漫才、喜劇、バラエティなどを中心とした番組を
組むのだが、この時ギャラのなるべく安い方法を模索した際
喜劇の面ではスター不在の少年喜劇を考えた。
もちろんパクリ元はある。
宝塚歌劇団である。
長い歴史の中、学生から育成し、ローカルスターを生むも
外部出演しても通用するスターに成長したときは、惜しまず退団してもらうという
完全な「スター不在の少女歌劇」である。
ここでは、まだ実行していないが、雪月花星の4チーム制も
のちに3チーム制として、見事にパクってます。
しかし、最初からそれをしても客など来るはずもありません。
したがって、豪華なゲストを座長にたてて、脇を安い途中入団者で固め
端役をズブの研究生(これが狙い)にやらせて、勉強させるというやり方で、始めた。
ゲストは非常に豪華で、アチャコ、エンタツ、東五九童、大村崑、内海突破
林家染丸、雷門五郎(のちの助六)、芦屋雁之助など多彩であった。
◎35.4〜37.5
脇役の安い役者の中から、座長役を張れる者が出てきて、ゲストを減らした。
座長を張り始めたのは、守住清、白羽大介の二人である。
二人とも若いが老け役の役者である。
そのため、上演される芝居の多くは、座長と別の人が主役であろうと思われる。
このやり方は、思いきった若手登用もさりげなく行える利点があり後々もよく使った。
ゲスト陣も、他のプロダクションからの借用はほとんどなくなり
戦前から吉本にいて、操を守って劇場がなくても専属し続けた花菱アチャコや
若いがすでに人気者の藤田まことぐらいのものである。
また、吉本の落語家で、松竹爆笑劇にいたこともある、笑福亭松之助が
準レギュラーで随時出演した。
主役間近の位置に白木みのる、平参平がいた。
研究生の出世頭は秋山たか志、藤井信子で中堅どころを占めている。
その一方で、漫才の欠員を埋めるのに研究生に依頼する需要も多く
主なところでは市岡輝男が岡八郎と改名し、浅草四郎と漫才結成
小島あきらは、漫画トリオの二代目横山フックとなって、喜劇から抜けていった。
研究生ばかりか、安い役者もそういう転身は多かったが
そこは「スター不在の少年喜劇」を目指している当劇団にとっては
マイナスどころか活性化につながり歓迎された。
守住清は自殺したが、これに取って代わったのはお馴染み平参平
これも好々爺とした老け役者だ。
◎37.6〜38.6
京都花月がオープンし、2チームになった。
座長格がすでに二人いてすんなり移行した。
それどころか、ゲストも皆無になり、安い役者で固める目的に向かって
明確な方向性をあえてとった。
副座長級に秋山たか志、花紀京の両御曹司が浮かび上がってきた。
秋山は、兵隊漫才のスター秋山右楽、花紀は横山エンタツの息子である。
この時に組んだコンビの関係は(平&秋山、白羽&花紀)後々まで影響し
最後まで平と花紀は共演が少ない。
この時期途中入社した役者や、研究生が後に重要なメンバーとなっていく。
◎38.7〜39.6
ナンバ花月がオープンし、3チーム制になる。
この3チーム制を巧みに利用して全盛期を築くが、これも宝塚のパクリである。
しかし、これが少なくとも44年頃危機を免れているのだから
この判断はベストである。
花紀京が座長に昇進し副座長の白木みのると組む。
白羽の相手は、元松竹の漫才スター梅乃松夫・竹夫の、松夫だった、ルーキー新一。
ルーキー新一は、吉本の水が合ったか、流行語を連発し、全国的なスターになる。
38年暮れ頃再組分けの兆候があるが、これは行われていないか、あるいは
マイナーチェンジである。
◎39.7〜39.12
博多淡海劇団の加入で変則的なチーム編成に。
花紀組から花紀が座長格のまま白羽組に加入、白木が平組に加入
残りのメンバーが淡海劇団と合流し、森信が副座長格に収まる。
3ヶ月で博多淡海劇団は去ったが、花紀の復帰の形ではなく、次期座長のイスを
秋山たか志とルーキー新一が争って、交代でその組の主役を演じて
座長オーディションの様相を呈した。
結果はルーキーの勝ちと出た。
◎40.1〜40.9
ルーキーが昇格し副座長は森信。
ほかは平&秋山、白羽&花紀。
スターの白木みのるは専科となった。
この時期は大変な黄金期とも言える。
スターダムにのし上がる者が多く、全国的な流行語をたくさん生んだ。
ブームの中心メンバーはルーキー新一、白木みのる、桑原和男、財津一郎、平参平
などである。
ここで重要な路線変更があった。
それまでは活性化のため、去る者は追わずの精神で徹底していたはずなのだが
ルーキー新一らの退社に吉本は難色を示したのだ。
ここで、少年喜劇を目指す理想と矛盾が生じこのツケは
すぐではないが後年効いてくる。
結果として、ルーキー、白羽大介、森信その他10名近くの者が
きわめて円満でない形で退社し、その後は干されてしまった。
残ったメンバーは、タナボタ式に出世した形で
皮肉にも「スター不在の少年喜劇」の形になるが、会社の精神が変わってしまって
自発的な意味での少年喜劇への方向性は消えた。
ただし、3チームを別々の劇団のように交流させず、競わせる利点だけは
まだ忘れていなかった。
◎40.10〜41.10
秋山たか志が座長昇進し、桑原、財津と組む。
花紀京は後年の名コンビ原哲男と組む。
平参平は副座長格を置かずに若いメンバーで固めた。
ここから奥津由三が途中で副座長に成長する。
黄金時代に比べて寂しいメンバーに違いないが、少年喜劇の歴史の蓄積から
あまり深刻な状態ではなく、健闘しており、「最後の活性化」と言える。
41年7月漫才に転向していた岡八郎が、浅草四郎と死別して復帰し平組に加入した。
平参平が座長を卒業し、財津一郎がその組の座長に昇進する。
下の方はマイナーチェンジ。
スターの退社は惜しむようになったが、中堅どころの退社には無頓着で
さらに口は悪いが、スターでないベテランのそぎ落としには、まだ積極的だった。
財津が抜けた秋山組は非常に面白くなかった。
一方財津組は、狂気をはらんだような猛烈な面白さを誇った。
この2組の落差は大きい。
花紀京も絶好調で、今まで大したことないと思われていた彼は、大幅に認識され
大スターとなった。
岡八郎も進境著しく、史上最速のペースメーカーとなる。
途中で財津の欠演が多く、この組は事実上、岡組の感があった。
財津、白木退団、花紀が座長卒業し専科へ。
岡、原、桑原の座長格昇進に伴う大幅な組分け。
前述の通り、秋山組が面白くなく、秋山はすぐ退団。
その組の仮座長はゲストを迎えたりした後、最後は花紀京がつとめたが
この組は失地回復はならなかった。
岡八郎は絶好調で、関西芸人では珍しい臭みのない役者として大スターに。
この体制は半年で終わった。
それ以降の組分けは3ページ以降で述べるとする。
以上で、吉本新喜劇初期の組分けについて、簡単に一通り述べたが
もし3チーム制をとっていなかったとして、44年10月以降に
新喜劇が存続できたか、否かについて言えば、非常に危機的な状況であったと
推測できよう。
頭脳的戦略によって全盛期を生み出した素晴らしさと
戦略の継続が途切れた時の後の困難な状況が、必ずしもすぐ来ないで
それが理由とわからなくなる頃に来る怖さが
3チーム制について考えたとき、見えてくるところが何とも面白い。
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