俺は少し考えてから、戸口に向かった。
押し殺した声で向こう側の人物に声をかける。
「・・・・・・・誰だ?」
声に応じたのは・・・・・・・・・
「ちょっと、外に出ない?」
フー子が囁いた。
ざぁ・・・・・・・・・・ん・・・・・・・・
ざざ・・・・・・・・・・
近く、遠く、途切れることなく波は歌い続ける。
子守唄と呼ぶには大きめの歌を聞きながら、フー子と俺は波打ち際を歩く。
ゆっくりと、あてどもなく。
「あんたが寝てなくてよかったわ。一人じゃ怖いし」
「フー子にも怖いものがあるのか?」
「ばか」
懐中電灯のつくりだす光が不安定に揺れる。
「昼間はありがとね」
「え゛」
いきなり持ち出された話題に、俺はまともな返事をすることができなかった。
昼間・・・・・?
「おキヨのこと。チンピラから守ってくれたでしょ」
「あぁ、そのことか・・・・
守ったのは俺じゃなくて、ほとんど玉城屋のおじさんだけどな」
「おじさんには礼を言ったけど、日枝には言ってなかったから」
「律儀なこった」
「当たり前じゃない」
三、四歩先を進んでいたフー子が振り向いた。
「あたしの親友のことだもん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
明かりはほとんどなく、唯一の懐中電灯はフー子の手にある。
だから俺には、今のフー子がどんな顔をしてるかわからない。
九重さんのため、か。
「お前、いい奴だな」
「当たり前・・・・じゃない」
プイっと顔を背けて、フー子はまた歩き出す。
俺も黙ってついていく。
「・・・・・・・・・ねぇ」
ふいにフー子が立ち止まった。
「ん・・・・・・って、懐中電灯はどうした」
なに考えてるのか、フー子はスイッチを切ってしまった。
「一つ聞きたいんだけど、いい?」
「いいけど、懐中電灯」
これじゃ右も左もわからない。
「日枝が質問に答えたら、点けるわ」
闇の中、フー子の輪郭だけがかすかに浮き上がって見える。
それは今の彼女の声と同じくらい、頼りなげだった。
「わかった・・・・・・・・・・・・・・
答えられる事なら、答える」
「ウン」
少しの間、俺は闇の中で待った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「フー子−」
「もしも・・・・もしもの事だけどさ・・・・・」
「あ、あぁ」
「今日のおキヨみたいにあたしが困ってたら・・・・・
日枝は、助けてくれる?」
「へ・・・・・・」
我ながら間の抜けた声だったと思う。
こいつ、いきなり何言ってんだ。
困惑が露骨に表れていた。
「日枝はあたしを、助けてくれる?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
いまさらっていうか、変な質問だ。
でも・・・・・・・
いい加減な返事はできない、と感じた。
正直、どうしてそんな質問をするのか、本当は何を言いたいのか、さっぱりわからない。
それでも彼女の揺れる声から、茶化しちゃいけないのはわかった。
「ねぇ、日枝・・・・・・」
「当たり前、だろ」
「!」
「お前は友達だからな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
次の沈黙は、さっきより長かった。
あまりにそれが重かったから、俺は「でもお前が困る状況なんて想像つかないけどな」と軽い口調で付け加えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・フー子?」
「うん。ありがと、日枝」
「え、あ、いや・・・・」
硬い音がして、懐中電灯のスイッチが入れられた。
「ちょっと遠くまできちゃったね。そろそろ帰ろっか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうだな」
懐中電灯のかすかな光に照らされたフー子の顔は、こっちが戸惑うほどいつも通りだった。
「どうかした? 日枝」
「・・・・・・・・・・・いや」
どうかしたのはお前だろ、というセリフが喉まで出ている。
それくらい、さっきのフー子は普通じゃなかった。
「はいはい、足元に気をつけましょうね〜♪」
「お前、俺を幼稚園のガキ扱いしてないか」
「まさか。そんな失礼なことしないわよ」
「・・・・どうせ"幼稚園児に失礼"とか言うんだろ」
「ご名答〜♪」
「ったく・・・」
懐中電灯をぶらぶら揺らして、フー子が歩き出した。
離されるとこっちの足元が全く見えなくなる。
ちょっと足を速めた。
と、その時−
「痛っ!」
いきなりフー子がしゃがみこんだ。
「・・・・どうした」
ほんの数歩で追いついて、フー子の足元を覗き込む。
「流木か」
湿った木が転がっていた。
足元を照らさなかったせいで、まともに蹴飛ばしたらしい。
「大丈夫か?」
「つま先、切っちゃった」
「なにー? ちょっと見せてみろ」
フー子の足に懐中電灯を向けると、ビーチサンダルの脱げた左足、親指と中指に血が滲んでいた。
「あちゃー、血が出てるなぁ」
「平気よ、これくらい」
「あ、バカ!」
立ち上がろうとしたフー子の肩を、俺は押さえつけた。
「なにすんの。それにバカって何!?」
「こんな所を歩いたらバイ菌が入るぞ」
「そんなの大丈夫よ」
「アウトドアの怪我を甘く見ると、あとで泣くぞ。
トゲが刺さってるかもしれないし、化膿したらどうすんだ」
「う・・・・・・・・・・・・・・・」
「ったく、しょうがねぇなあ・・・・・・・ほら」
「え?」
フー子に背中を向けてしゃがみこんだ。
「・・・・・・・・・何のマネ?」
「民宿まで背負ってってやる」
「え、ええ〜〜〜!?」
声だけで、フー子の困惑ぶりは容易にわかった。
「イヤよ、恥ずかしい!」
「恥ずかしいって誰が見てるよ。それとも、宿までずっと片足跳びで行くのか」
そんな事してたら、朝までかかるかもしれないな。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ほれ」
「んも〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
牛そっくりの呻き声をあげて、フー子は俺の首に両腕を回した。
背中に加わる、暖かくて柔らかい重み。
「立ち上がるぞ。つま先をぶつけないようにしろ」
「う、うん・・・・」
左足をぶつけないようにゆっくりと持ち上げる。
小柄なフー子は、思っていたよりずっと軽かった。
言葉より拳にものを言わせる男女(オトコオンナ)でも、こういう時だけは女の子だと思える。
「いい? 皆にはナイショだからねっ」
「わかってる」
誰が言うか、こんな恥ずかしい事。
「ぜったいぜったいぜったいナイショだよ!」
「わかってるって」
「二人だけの・・・・・・・・秘密、ね」
くンっ。
フー子の両腕と両ももが、俺の体を強く挟む。
二人の体が吸い付くように重なった。
首にかかる吐息がこそばゆい。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日枝」
「んー」
「ありがと・・・・・・・」
「ん」
「困ったあたしを助けてくれて・・・・・・・・・・
ありがとう・・・・・・・・・・・」
さっきより強く上半身が押し付けられる。
もちろん彼女の、ふわふわの胸も。
「ね。あたし・・・・・・・・・・重くない?」
おずおずとした口調に、俺は笑い声を漏らした。
「全然。このまま走っていけるぜ」
「わっ、ヤダ、やめてよ!」
「やらねーって」
走るなんてもったいない。
こんな気持ちいい荷物なら、ずっと背負ってても・・・・・
なんて、ちょっと不純な考えを抱きながら、俺は宿に向かって歩き出した。