西河の一線天
-上海破時快梯- |
第九章
七月五日、午前九時四十八分。 広東工学院の煤けた壁の色が右手に見える。うらぶれた建物が灰色の空に溶け込み、知らない者にはお化け屋敷に見えた。 「広州」 ここは広州、東風東路(トンフェントンルー)。 ハンドルを握る資先が、吸殻を窓から道に投げ捨てた。 「・・・で、その野郎がしつっこく尚志の居場所にこだわってたからよ。変に思って俺様も来てやったわけだ」 「へぇー。でも、俺達が北路を通る事がよくわかりましたね」 「梅州があったからな」 「?」 「嬢ちゃん一家の出身地だ」 「そうなんですか」 「・・・・・・・・・」 視線はジト目で尚志を見た。 「尚志。お前なぁ・・・・・」 「何ですか」 「・・・・・・いや、いい」 運がいいのか悪いのかわからんな、と資先は呟いた。 「それより、尚志は会わなかったか。その葛ってクズ野郎に」 (葛ってクズね) 尚志はクスクス笑った。 「何だよ。会ったのか」 尚志は手を振った。 「会ってませんよ。日本人にしかわからない洒落です」 資先は少し眉をしかめた。 「まあいい。あんな野郎、会わなくて済むならそのほうがいーだろ」 「そうみたいですね」 会っていたら、今ごろ広州にいなかったろう。 「それで」 と、資先は後ろで熟睡している西河を覗いた。西河は最初こそ腹が減ったの狭いのと騒いだものの、車に乗って五分で寝入ってしまった。 「旅の間、このお嬢ちゃんは大人しくしてくれたか?」 「思い出したくないです」 尚志は頬を撫でた。資先がそれを見て口の端を吊り上げる。 「いい勉強になったろ」 「まったくです」 資先は町を眺めながら鼻を鳴らした。 「お嬢ちゃんを起こせ。もうすぐ広州駅だ」 尚志は肩をすくめて、最後の仕事にとりかかった。 「寝てりゃ可愛いんだけど、な」 西河が起きるまでに、尚志は六回蹴飛ばされた。
「えーっ!? 尚志も一緒に行くんじゃないのお?」 運転席と助手席の間から、不満気な顔が突き出た。尚志がそれを押し返す。 「尚志は一緒じゃないの?」 「行けるわけないだろ。一つ間違えば誘拐犯にされかねないんだ」 二日も行方不明になっていた金持ちの娘が、見知らぬ男と現れたら、あらぬ誤解を受けるに決まってる。 運転席の資先も尚志に賛成だった。 「お嬢ちゃんが知り合いと対面するまでは見ててやるよ。それで俺らの仕事は終いだ」 尚志がニコニコした。尚志と対照的に、西河の顔は暗い。 「だってー・・・」 わからないお嬢さんだ。尚志は上機嫌を隠そうともせず、西河に顔を向けた。 「俺を前科者にしたいのか? 仕返しにしちゃあ、なかなかのモンだな」 西河が尚志を睨む。 「・・・あんた、本気でそう思ってるの?」 「『ワンバー』なんて呼ばれた奴から悪意は無いと言われてもなぁ」 資先が口笛を吹いた。 「なんかスゲー道中だったみたいだな」 「そりゃもー」 地獄よりひどかった。 (少なくとも、地獄に西河はいないもんな) 西河は黙り込み、後部座席で小さくなった。 しょげる西河と正反対に、尚志は舞い上がるような気分だ。資先の手を取って踊りたいくらいだった。 広州駅が見えてきた。 「到着だぜ。お嬢ちゃん」 「・・・・・・・・・・」 尚志たちの乗った小型車は、真新しい広々としたロータリーに入った。 中国の駅前広場はどこもそうだが、ここもまた、ひと、ヒト、人の渦だった。チャンスと富を求めて四方から押し寄せた人々が、広州駅を中心に人間の海を成している。 「広州駅前」 車はロータリーの一角に停車した。 「西河」 尚志が西河を振り返る。 西河は動かなかった。 俯いたまま、微動だにしない。いや、肩が少しだけ震えている。 「西河。着いたぞ」 「尚志・・・」 西河が小声で呟いた。心なし声も震えているように思える。 「何だ?」 今にも笑いがはじけそうな顔で、尚志が応えた。 「あたしと、さよならするの・・・そんなに、嬉しい?」 「当たり前だろ! もう殴られないで済むと思うと」 急に西河が顔を上げた。 「バカッ!!」 叫んで尚志の顔面に拳を叩き込む。その目に涙が浮かんでいた。 「あんたなんか大嫌い!!」 尚志に怒鳴ると西河は乱暴にドアを開き、駅に駆け出した。 「・・・なっ」 尚志は赤くなった鼻を押さえた。唖然として、駅前広場を走る西河を見送る。その横で、資先が腹を抱えて笑っていた。 「お前、よっぽど嫌われたんだな! 最高のチップじゃねーかっ。がははははは!」 「先輩!」 「がはははははは! 大嫌いだと!!」 尚志は資先と西河を交互に睨み付けた。 西河が駅の入り口に近付くと、中から、着飾った小柄な女性が飛び出して来た。西河と女性がしっかりと抱きしめあう。その二人を、たちまち十人以上の男達が取り囲んだ。どこに隠れていたのか、全員軍服を着ている。 「すげえ・・・ ドラマみたいだ」 「感心してるヒマないぜ」 資先が車を発進させた。 小型車は他の車をすり抜け、あっという間にロータリーを飛び出していく。 兵隊を見る尚志の目に、一瞬だけ女性と西河の姿が映った。 「母と子」 軍服だらけの中で妙に目立つ。 (母親、か) 西河たちは人の波に紛れ、やがて視界から消えてしまった。 「尚志、時間を見ろ」 資先が車の時計を指さした。午前十時ジャスト。 「配達・・・完了です」 「確認した。ご苦労さん」
十分ほど走ると資先が肩の力を抜いた。 「もう大丈夫だろう」 尚志は狭い車内で腕を伸ばした。 「誰も追ってこないです。でも、ちょっと凄かったですね。何かのドラマみたいで」 資先がチラッと尚志を見た。 「その様子だと、あのお嬢ちゃんが誰だか知らないらしいな?」 尚志は憤然として腕を組んだ。 「知ってますよ! 大金持ち謝家の娘でしょ。それに先輩の話だと、軍隊にも顔が利くみたいですね」 「・・・50点」 尚志は資先の顔を見た。憂鬱そうに歪んでいる。 「お前、あのお嬢ちゃんに失礼な事しなかったろうな」 「何ですかそれ?」 「だから、罵倒したり叩いたり乱暴に扱ったりしなかっただろうなと言ってるんだ」 「そ、そんな事は・・・・」 少ししかしてない、と思う。 資先の口調に、尚志は不吉なものを感じた。 「先輩」 「・・・・・・・」 「・・・もしそんな事してたら、どうなりますか」 「命が危ない」 「はあ? まさか!」 尚志は笑った。いくら何でも大袈裟すぎる。 「このバカタレ!」 笑い声をあげる尚志を資先は怒鳴りつけた 「広州のシェ家って言ったら、葉剣英(シェ・チェンイン)の葉(シェ)家しかないだろーが! お前、何年この国に居るんだ!?」 「広州の葉家?」 どこかで聞いたような・・・ 頭の片隅で、テレビ番組の記憶が引っ掛かった。 (・・・・・・・・・・・え!?) 物凄ーく悪い予感。 「先輩」 「何だ」 「あのー・・・」 「何だ」 「・・・・・違うと思いますけど一応確認するんですが・・・・・まさか、『あの』葉剣英じゃないですよね。違いますよね、ねっ」 恐る恐る伺いを立てる。 「他に葉剣英がいるか!」 「ひ」 葉剣英は中国建国時に活躍した名将だ。人民解放軍の元勲で、後に政界にも手を伸ばし、全人代(国会)の広東省代表になっている。軍部の要職も歴任し、建国当初の中国で権勢を振るった。 要するに、(毛沢東に次いで)中国で二番目に偉かった人。 資先がいらだたしく先を続けた。 「解放軍が動いたあたりでキナ臭さを感じたけどよ、道理で派手にやってくれたはずだぜ! ・・・あの嬢ちゃん、その葉剣英の孫だ」 「!」 「親父は葉縣平(シェ・シャンピン)って名前だそうだ」 「『だそうだ』って、緑葉集団(GLグループ)の総帥じゃないですか!!」 「あ、そうそう」 (まだあるの!?) 「ついでに言っておけば、葉選平(シェ・シェンピン)の姪っ子だ」 (華南最強の長老政治家!!) 尚志は言葉を失った。 「だから失礼な事しなかったかと聞いたんだ」 「・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・尚志、聞いてるか」 「・・・・・・・・・・」 「尚志ー」 「・・・・・・・・・先輩」 「ん?」 「出発する前に教えて下さい!!」 「そんなの知るか」 「先輩ぃー」
解放軍大元帥の孫で、 国会議員の姪で、 中国南部最大の金持ちの子。
『葉 西河(シェ・シーホー)』
(そのお嬢様を大間抜け呼ばわりした俺は・・・・・・・・) 尚志の脳裏に、尚志を殴って『大嫌い』と叫ぶ西河の泣き顔が蘇る。思わず身震いした。 「俺・・・・・・俺・・・・・・」 資先は言った。 「遺骨は蘇州河に流してやる・・・・・・骨が残ればな」 合掌―
7月5日、午後二時。 豪雨の痕跡を雲一筋も残さない、青い空。 亜熱帯の強い陽射しを浴びながら、野戦軍司令員室では陰鬱な作業を進めていた。梁前司令の私物を整理していたのである。 「私物の整理中」 梁と俊卿。二人とも冬の真っ直中という顔をしている。 私文書のファイルをまとめながら、梁がポツリと言った。 「遅いな」 新聞の事だ。遅配は毎度の事とはいえ、午後二時を過ぎて届かないのは珍しい。 「紙面の差し替えでもしたのでしょう」 俊卿は欠伸をしながら木箱に荷物を積めている。この二日間寝ていない。 梁が本日二十一回目のため息を吐いた。 雰囲気が暗いのは、司令員室だけではなかった。 梁司令辞職の話は基地全体に広まっている。食堂では、コックが菜箸をへし折るほど多量の食い残しが発生したという。いつもなら市街地に届く訓練のかけ声は、今日に限って小さかった。正門の守衛など喪章を付帯して勤務についたものだ(さすがにこれは外させたが)。基地を覆う沈滞した雰囲気が、梁の人気を物語っていた。 内線が鳴った。 梁が腕を振ったので、俊卿が受話器を取る。 「新聞はまだか」 梁が二十二回目のため息を吐こうとすると、「新聞です」の声と共に人民日報が届けられた。 「少々お待ち下さい。閣下、新聞です」 俊卿が受話器を肩に挟みながら、梁に新聞を渡す。 「失礼しました。それで・・・?」 「なんだこれはーーーっ!!」 部下が電話中にも関わらず、梁は大音声をあげた。 白黒の写真。 顔写真だ。 自分の!! 人民日報のトップに、自分の顔写真がでかでかと― 『福建人民の英雄 梁元瑞!』 『豪雨に対する万全の備え 三十一野戦軍司令員に先見の明』 『孤立した人民を筏で救出! 突出した創造性』 『たぐい稀な指導力と人望 梁元瑞に学べ』 政府系新聞に特有の大仰な美辞麗句が、これでもかと紙面を埋め尽くしている。 目眩がした。 「・・・これは・・・これはっ」 額を押さえ、よろよろと椅子に座り込む。 梁の様子に気付かない風で、俊卿は受話器を差し出した。 「閣下。史玉孝政治委員の副官、汲紹衣(チー・シャオイー)大尉からお電話ですが」 梁は怪訝な表情をした。 「汲紹衣? あの憎たらしい若造はどうした」 「前任者の葛汝忠大尉は、本人の希望により、本日付けでシーツァン(チベット)に転出されたそうです」 「転出・・・?」 「はい」 「受話器を差し出した」 俊卿は淡い微笑を浮かべた。 「政治委員は、閣下の将来について前向きに話をしたい、と。お話されますか?」
エピローグ
7月12日、午前7時30分。
上海、邯鄲東路。
通行人の増え始めた朝の街に、一人の青年がふらりと姿を現す。 尚志だ。 一週間の連休を終えての、久しぶりの出勤である。真新しいバックパックを持つ手と、辺りに視線を配る顔に、治りかけの傷痕がまだ目立った。 連休は、ほとんど強制だった。 尚志が西河の一族に狙われた場合に備えて、飛ばっちりを避けたい総経理の命令だった。もちろん尚志に異存はなかった(心身ともにボロボロだったし)。 尚志は上海に戻ったその足で、体に鞭打って長沙(チャンシャー)まで飛び、洞庭湖(トンチンフー)の小村に潜り込んだ。そして一週間、釣りと惰眠を貪ることで費やしたのだった。 「・・・行ったら会社がなかったりしてな」 冗談混じりの独り言だったが、心配がない訳でもない。 総経理も尚志も、葉家に喧嘩を売ったつもりはない。今回の仕事は(異例ずくめだったが)純粋なビジネスだし、指定刻限もきっちり守った。誘拐、捜索云々の騒ぎだって、葉家が勝手に騒いだだけと言える。 ただし、向こうがどう考えるか、それは別問題だ。総経理が、財産を換金性の高いものに換えている事を、尚志は疑っていなかった。 かくいう尚志も預金先(緑葉銀行だった)の金を引き出し、日本円に替えてあったりする。仕事柄、飛行機の時間も頭に入っている。高飛びの準備はできていた。 「・・・・・・・・・・あった」 会社の看板はまだ掛かっていた。 周囲の様子も、常と変わるところはない、ように見える。 始業時間には早いが、総経理なら来ている頃だ。尚志はビルに入った。 見慣れた破時快梯の扉の前に立つと、扉の隙間から光が漏れている。予想通りだ。「早安(おはようございます)!」 尚志は扉を開け― 最も見たくないモノを見てしまった。
「ニンツァオ(おはよう)、尚志!」 「うわぁぁぁぁぁぁっ!!!」 尚志は廊下に飛び退った。 「なんでお前が居るんだーっ!」 驚愕の声を非難と受け取ったのか、少女は小さな唇を尖らした。 「あんたって、とことん失礼ね」 少女が顎を引くと、胸元のリボンが揺れる。制服姿の西河は尚志に指を突きつけた。 「久しぶりに会ったのに、その挨拶はヒドすぎない?」 (できれば永久に遭いたくなかった・・・) 「なーに」 「何でもない」 西河は地獄耳だった。 「ま、いいわ。入りなさい」 「・・・・・・ああ」 自分の家に案内するような口調だ。尚志は不承不承、スカートを翻す西河の後に続いた。 事務所の服務台には、仏頂面の呂恵泉が座っていた。 「ニンツァオ、恵泉。久しぶり」 「ニンツァオ」 「・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・」 「恵泉? えと・・・」 「尚志、わかってると思うけど、あなたにお客様」 声も態度も素っ気無い恵泉だった。 「尚志!」 「はいはい」 西河が窓際で待っている。 尚志は適当な椅子を引っ張り出して腰を落ろした。 会話の第一声は西河の嘆息だった。 「あんたに謝ろうと思って来たんだけど、今のでその気がなくなっちゃったわ」 「謝る?」 「だって、あたしは・・・・・聞いたでしょ? パパのこと」 「ああ」 「尚志に嘘、吐いてたから・・・」 西河が上目使いで尚志の顔を見る。 「なんだ、そんな事か」 「そんなことって・・・」 「気にすんな。この仕事じゃ良くあるんだ」 「でも」 「いいから」 尚志は腕を伸ばした。びくりとした西河の頭に、掌を載せる。 「その程度の事で謝りに来るなんて、お前、意外と可愛い性格じゃないか」 「い、意外は余計よっ」 もっとも、そういう性格でなければ、嵐の下を広州まで行きたいなどと考えなかったろう。 さらさらした西河の髪の感触が心地よくて、尚志はしばらく手を引かなかった。 と、西河の頬が少しずつ染まっていく。 「尚志、あの・・・・」 「コーヒーをどうぞ!」 優雅とは言いかねる所作で、恵泉がプラスチックのカップを机に置いた。カップの中がぐつぐつ煮立っているように見えるが、気のせいだろう。たぶん。 「あ、ありがと」 「いーえ」 ぶっきらぼうに応えて恵泉が去る。 「・・・・・どうしたんだろ、恵泉」 「・・・・・・・・・・・・・・」 少女は苦いものを噛んだような顔で、眉間に指先を当てた。 「尚志・・・・・・あんたってばホントに・・・・・・」 「ん?」 「なんでもない」 西河は鞄を手に腰を上げた。 「じゃ、学校あるから、あたし行くね」 「そうか」 「うん。あン、あとねあとね、パパとママがお礼をしたいから、一度来なさいって」 「お礼・・・・参りか?」 「違うよぉ、ちゃんとしたお礼! 尚志は命の恩人だもん」 「そ、そうなのか?」 「そうじゃない。でね、夏休みになったらアタシ、広州に帰るの。その時は」 またよろしくね、と、西河が笑って言う。 西河の笑顔の向こうで、恵泉が泣きそうな顔をしていた。
・・・そうして、本格的に夏がやって来る。
台風もまた、到来する。
けれど尚志を取り巻く台風は、未だ過ぎ去る気配がない。
もしかしたら、これからずっと―
(西河の一線天 終わり)
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