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西河の一線天

-上海破時快梯-

   第八章


『繰り返す。命令だ。停止せよ。前進は軍命令への反抗とみなす。』

 尚志達のヘリコプターが前進を停めた。

 すぐ横に、葛の機体がピタリと寄せる。総司令部直属だけある、見事な腕前だ。

 葛のいかつい顔が、手を伸ばせば届きそうな距離にあった。

「・・・くっ」

 俊卿の整った顔に、汗が浮かぶ。

「何、どうしたの? どうして停まったの?」

 西河が顔を覗かせた。

「顔を出さないで!」

「はぅ!?」

 一瞬のことだったが、葛は見逃さなかった。

『愉中尉。私はシェ令媛を視認した。貴官はいかなる理由でシェ令媛を移送しているのか? またどこを目的地として移送しているのか?』

(しまった)

 機体ごしに冷たい視線が突き刺さる。俊卿は額を拭った。

「それは―」

『警告しておく! 優秀な副官がそうであるように、私も常に録音机を携帯している。この会話は録音されているぞ。虚偽の説明は、のちに偽証罪を問われる事となる』

「・・・了解しました」

 後部座席の尚志は、シートベルトを外して西河を助け起こした。前部の俊卿を見上げると、背中が汗で湿っている。

「どうも嫌な感じがする。俺達が乗ってるの、バレたんじゃないか?」

 肘と膝を衝いた西河が跳ねるように飛び起きた。

「それで? どうなるの!?」

 尚志は肩をすくめた。

「さあな。俊卿さん次第だ」

「どうなるの!?」

 前部ではその俊卿が、蛇に睨まれた蛙のようになっている。

『貴官は命令を受領しなかったか。三時間以上前に、福建人民の救援部隊に撤収命令が出ている』

 野獣の風貌に似合わぬ、ナメクジみたいな話し方だ。

「その命令は自分に無効であります。自分に出された命令は、シェ令媛の探索のみでありました」

『ならば司令部にシェ令媛の保護を報告しなかったのは何故か?』

 そこまで考えていなかった。

「それは・・・報告せよとの命令を受けておりませんでした・・・」

『話にならんな。シェ令媛に直接お話を伺う。お前のヘッドセットを令媛にお譲りしろ!』

 ヘリコプターの窓越しに、葛が冷たい眼差しを送ってくる。資先は拳を握りしめた。

「令媛」

「なに」

「向こうにいる者が、令媛とお話をと」

 西河は俊卿にヘルメットを渡されると、きょとんとしてそれを見つめた。

「どうやって使うの?」

 俊卿は黙ってヘルメットを取り上げ、西河の頭に押しつけた。

「えっと・・・ウェイ(もしもし)?」

 西河が前席に身を乗り出すと、もう一機のヘリコプターに乗る男が頭を下げた。

『聞こえます。シェ令媛でいらっしゃいますか。初めまして。私は葛汝忠大尉と申します。そこにいる愉中尉より偉い者です』

 西河は何の感銘も受けなかった。

「で、何? オジサン」

『・・・この葛、昨日からずっと令媛の無事を心より案じておりました。しかしもう安心して下さい。お父上が上海でお待ちです。私がただちに令媛を上海のご自宅へお連れいたします』

 西河は向こうで会釈した男を眺めた。計器板の光が反射して、いかつい顔が不気味に浮き上がっている。

「・・・・・・・・・嫌」

『え?』

 明快すぎる回答に、葛の思考が停止した。

「嫌って言ったの。あたし広州に行くのよ。ここまで来て上海に帰れなんて、冗談じゃないわ」

『・・・し、しかしそれではお父上が』

「パパにはあたしから連絡したげるわ。広州に着いたらね」

『・・・』

 葛は頭を巡らせた。

 ガキだが、それなりに知能が発達しているようだ。自発的に上海へ向かわせる事は無理か。

 ならば・・・

『承知いたしました。しかしそちらの機は、そろそろ燃料が不足し始めておりましょう』

 パイロットが燃料計を見ると、まだ半分残っている。顔を上げると、葛と目があった。その瞳が語っている。

(その口を開いたら営倉送りだ)

 パイロットは沈黙した。

『令媛の機体では、広州まで飛べませぬ。私の機体でしたら燃料も十分に残っておりますし、広州へ夜明け前にも到着できるでしょう一度着陸して、こちらにお移り下さい。燃料の少なくなったヘリコプターほど、危ないものはありませんよ』

 もちろん葛は、広州へ行くつもりなどなかった。彼が受けた命令は、上海へ西河を連れ戻す事である。それ以外の結末など考慮に入っていない。

(令媛を確保しさえすればこっちのものだ)

 泣こうが喚こうが関係ない。文句は上海で聞いてもらうがいい。

 葛はできるだけ愛想良く西河に笑いかける。本人の意に反して、その顔はげっぷしたロバみたいに見えた。

『・・・いかがでしょうか?』

 西河は窓越しにじっと葛を見つめた。

「・・・あたし、信用できる人とできない人の区別くらいできるの」

『はあ・・・』

 何を言い出すんだ。この小娘。

「あんたは信用できない」

 葛は頭を殴られた気がした。

『し、失礼ながら、私は愉中尉よりも偉い解放軍の大尉で、幹部の副官を仰せつかっております! それほどの職務を任される者が信用されないわけがないではありませんか!』

 西河は目を地面にそむけた。いつの間にか、高度が落ちている。灰色の台地に、漆黒の筋が何本も通っていた。

「あんたが誰だろうと知った事じゃないわ。あたしはあんたを信用しない。ドジで馬鹿で口が悪いけど、尚志のほうが百万倍も信用できるわ」

『尚志! あの小僧を?』

 葛の瞳がギラついた。面と向かって侮辱され、顔に赤みがさしている。

『ろくな仕事をしないあの尚志! ならば一つお聞きしましょう。令媛の信用される尚志は、自分が小日本である事を教えましたか? しなかったでしょう』

 「小日本」と聞いた西河は、反射的に振り返った。蚊帳の外に置かれた尚志と視線を交わす。

『私も最初は騙されたのです。何か目的があって・・・・・・その男は上海人になりすましているのです。そんな怪しい小日本を、あなたは解放軍の大尉より信用するとおっしゃるのですか?』

「・・・」

 西河はヘルメットを取った。尚志と俊卿が緊張して彼女を見つめる。

「尚志」

 西河は尚志の目を覗き込んだ。

「広州に連れてってくれるよね?」

「当たり前だ」

 二人の顔に、同時に微笑みが浮かんだ。

『令媛、シェ令媛!』

 葛は急な音信不通に不安を感じ、マイクに何度も怒鳴った。

「聞いてるわよ。うるさいわね」

 西河がヘルメットを被り直して応える。葛はほっとした。

(どうやら尚志を問いつめたようだ。これで小娘はこっちのものだな)

『いかがでした? 私の申し上げた通りでしょう』

「どうでもいいわ、そんな事」

『ええっ!?』

「尚志が日本人だから何。あたしだって嘘吐いたもん。おあいこだわ」

『しかし令媛!』

 食い下がる葛に、西河はきっぱり宣言した。

「再見(ばいばい)、オジサン。あたし広州に行く」

『令媛! 令媛!!』

 返事はなかった。

『そっちのパイロット! 聞いてるだろうな!? ただちに機体を着陸させろ。ただちにだ! そこから一センチでも前進したら、お前を反抗罪で告発してやる!』

 葛は次いで自機のパイロットの肩を叩いた顔面が発光するほど赤熱している。

「おい! あの機の横に降りろっ。あのクソガキ、絶対に広州になど行かせんぞ! 行かせてたまるか!!」

 暗黒の夜空に、醜い罵声が轟いた。

 尚志達の乗ったヘリコプターが、降下し始めた。

「あら?」

 機体がふいに傾斜した。「うわっ!」

 バランスを崩した尚志が、西河の上にのしかかる。

「ちょっと、尚志! どさくさまぎれに何すんのよ!」

「何もしない! 変な事考えるな」

 そう言いつつ、尚志の手が西河の胸に当たっている。

「変な事してるでしょー!」

 西河が真っ赤になって尚志の手を払った。

「あ、そこ胸だったの?」

「ヒッドーイ!!」

 緊張感のない二人に、俊卿が近付いた。こっちは緊張感ばっちり、鼻頭と額に汗が浮いている。

「令媛、何を話したのですか?」

 西河は尚志を一瞬見つめ、えいやと突き飛ばした。

「向こうの人が上海に連れてくって言ったから、嫌って言い返したの」

「・・・それだけですか?」

「それだけよ! 尚志! あんたこんな所で寝てないで、これからの事考えなさい」

 尚志はむくりと上半身を起こした。背中の埃をポンポンと叩く。

「もう考えてる」

「えっ?」

 何かが機体の底をかすめ、機体が揺れた。

「木の枝です! 大丈夫!」

 パイロットが叫ぶ。

 尚志が窓の外を見ると、彼方に町の光が見えた。まだかなり高い所にいるらしい。山か丘を越えたのだろう。

 尚志は窓に寄り掛かって外を眺めた。

(たしか、あの台地だったはずだ)

「最後の最後でツキが回ってきた」

 西河と俊卿が、尚志を見つめた。

「何、尚志?」

「大丈夫って言ったんだ。契約は守る!」

 足元が激しく揺れた。

「席に着いて! もうすぐ着陸します!」

 眼下に緑色の絨毯と細い黒線が見える。

「俊卿さん」

 尚志が俊卿の腕を押さえた。

「俊卿さん。ヘリコプターって、飛行中でも扉が開くって聞いた事あるんだけど」

 俊卿は何も考えず肯定し、即座に否定した。

「やめろ! 何をする気だ!?」

 訊いた俊卿にも答えはわかっている。

「無理だ。ヘリコプターからの降下なんて素人にできるものか!」

 揺れるヘリコプターからの懸垂降下は、バランス感覚と高度な熟練を要する技術。素人が格好つけたって、骨を折るのが関の山だ。

「西河」

 俊卿を無視して、尚志は西河の頭をぽんと叩いた。西河が最高に可愛い笑顔で応える。

「行くぞ」

「うん!」

「尚志、お前」

「頼む」

 尚志は相手の肩を掴んだ。

「俊卿は借りを返した」

 機体が激しく傾ぐ。

「俺も、契約を守りたい」

「俺も契約を守りたい」

「・・・・・・・・・・・・・わかった」

 感嘆と諦観のないまぜになった面持ちで、俊卿は答えた。




 ハゲ山の土壌が洗われると、岩盤が顔を出す。巨大な岩盤は種々様々な奇景を形作り、人々の目を驚かせてくれる。忠圭山もそうやって出来た岩山の一つだ。麓には、ちょっとした広さの一枚板がある。

「忠圭山」

 省境から遠く離れた岩の上に、二機のヘリコプターは着陸した。

「どういう事だ!」

 低い声音で葛が凄んだ。顔面が充血して、まるで猪豚だ。

「ご覧になった通りです」

 すました声で俊卿が答えた。

 俊卿が乗っていた機体の後部は、葛が乗り込んだ時空っぽになっていた。

「どこに奴を隠した! あの忌々しいガキ!」

(おやおや・・・)

 俊卿はパイロットと並んで立たされながら思わず口笛を吹きそうになった。

「私はしっかり見ていたんだ! お前達が着陸してから今まで、誰も機体を離れた者はいなかった。だからあの小娘はここに居なければならんはずだっ。」

(忌々しいガキに小娘、ね)

 葛は標的を俊卿からパイロットに変えた。

「おい、お前言え!! シェ家のガキをどこに隠した!?」

 締め殺さんばかりの勢いで迫る。半分はその気だろう。 パイロットは猪豚の剣幕に怯え、小さな声で答えた。

「・・・しました」

「何だと!?」

「・・・途中下車、したんです」

 葛が絶句した。

「フ・・・・フハハ・・・・」

 横から笑い声がこぼれる。俊卿の声だ。薄く唇を開き、笑う。かすれるほど小さい笑い。しかし葛を怒らせるには、それで充分だった。

 激怒した葛は、岩塊のような拳を振り上げた。

「貴様なにを笑うかっ」

「っ!」

 俊卿は地面に叩きつけられた。硬い地面に顔面がひしゃげ、血が流れる。耳の削げ落ちた部分に激痛が走った。

「ヘッ!」

 うずくまる俊卿を見捨て、葛はきびすを返した。振り返りもせず命令する。

「全兵士を集めて来る! 愉っ。貴様はここで待て! 兵士にクソガキが飛び降りた場所を教えるのだ」

(なん・・・だと!?)

 俊卿がぼやける目を見開いた。

「全・・・兵士? 福建人民の救援・・・は? 誰が・・・窮民を助けるんです?」

 答えは、勝ち誇った叫びだった。

「人民など知った事か! シェ家のクソガキ、広州になど絶対に行かせん!!」




 西河が開口一番に言い切った。

「あんたって本当にダメな奴ね!」

 言いながら腰を押さえている。

 二人とも泥にまみれていた。

「何が川に落ちれば痛くないよっ。あれのドコが川なの!」

 指の先には川がある。ただしこの川、深さが十センチしかなかった。

 尚志は首を揉んだ。

「上からはちゃんとした川に見えたんだよ。西河だって文句言わなかったろ」

 実際は道にたまった雨水だったのだ。

「言うヒマなんてなかったじゃないっ。あーん、腰が痛いぃ!」

 したたかに打ったらしい。

「腰ならいいだろ。こっちは首を折るトコだった」

「自業自得ね」

「・・・・・・・」

 冷たい西河だった。

 首に手を当てながら、尚志が辺りを見回す。丘の中腹だった。一帯に雑草が生え、人家の明かりは見えない。

 ヘリコプターの音も消えていた。別の、もっと平らな所に着陸したのだろう。

(追いかけて来るかな)

「何か、逃亡犯の気分だ」

「尚志があたしを誘拐して?」

 『謝家のお嬢様』がせせら笑う。

「そうだ」

「馬鹿ねぇ。尚志みたいな間抜けにあたしが誘拐されるワケないでしょ」

「その間抜けに頼った西河は大間抜けだ」

 少女は鼻を鳴らした。

「ところで、ここドコ?」

 暗くてよくわからない。山の稜線だけが、星空の光でかすかに確認できる。東京では見られない狼座と祭壇座が、南にくっきりと見えた。

「上杭の南二、三十キロって所だな」

 広東との省境まで五キロ程度だ。

「道わかる?」

「ちょっと歩けば目印に出る。そこを抜ければ広東省だ」

 西河は疑わしそうに尚志を見た。

「なんか自信ありそうな口振りねえ。頼もしいこと」

「知った道だからな」

 尚志はさらりと受け流して空を見た。南の冠座と蠍座を選び、西河に指し示す。

「知った道だからな」

「あれが空の目印」

「・・・ちょっと歩いて見つけるんじゃなかったの?」

 尚志は顔の泥をこすった。どうも今回の仕事は水と泥との縁が深い。

「西河が言ってるのは地の目印。ついでに言えば、目印がゴールだ」

 西河は南を見つめたが、暗黒の中に目印など見つからない。

「それでゴールはどこなの」

 じれったそうに訊ねる。

 尚志は短く答えた。

「一線天」




 葛のヘリコプターが遠ざかると、パイロットは俊卿を助け起こした。

「・・・あの野郎め。ヒデエ目に遭いましたね」

 パイロットが自分の手絹(ハンカチ)を取り出し、俊卿の左耳に当てる。

「ありがとう」

 俊卿はその場であぐらをかいた。パイロットもその横に座る。

 傷口がビリビリと痺れるようだ。

「この借りは返す」

 俊卿は唸るように言い、胸ポケットに指を突っ込んだ。

「・・おまけを付けてな」

 倒れた時に壊れなかったかと心配だったが、無事に動くようだ。

(あの猪豚、優秀な副官は常に録音机(カセットレコーダー)を持つとか言ってたな)

「同類にされるのは心外だが」

 こいつが彼に必要だったのは、片耳が不自由だったからだ。俊卿は右手を右耳に押しつけた。

 掌の中で、マイクロカセットレコーダーが、『人民など知った事か!』と怒鳴った。

「録音机」




 岩盤が何らかの理由で割れると、そこは細い谷となる。 中に踏み入れば、そそり立つ断崖に挟まれ、天空が一本の線にしか見えない。

 それが一線天(イーシェンティェン)。

「一線天」

 岩山の多い中国には多くの一線天がある。有名なのは名峰黄山の中腹にあるもの。マイナーな所では、福建省内にも金渓ダム(豪雨の時に放水の通知が送れて、梁司令に怒鳴られたダム)の付近にある。幅は一メートル前後。長さは短い一線天で十メートル足らず。長い所なら数百メートルに及ぶ。

 残念ながら、一線天は人気の観光ポイントではない。狭くて日光が差し込まず、水はけが悪くてじめじめしている。両脇の岩にびっしり苔が張り付いて、頭上からはポタポタ水滴が落ちてくる。鍾乳洞と同じで、一度行ったらそれで充分。おまけに重大な欠点もある。

 雨の後には川と化すのだ。

「尚志って本当に最低ーッ!!」

「その言葉は聞き飽きた」

「反省しなさいよ!」

 膝まで水に浸かって、西河は喚いた。下半身が完全に水に浸かっているうえ、頭の上から水が垂れてくる。せっかく貰った服がズブ濡れだ。

「雨が降ったら水の量が増えるに決まってるでしょう! 前に来た時乾いてたからって、豪雨の後も同じと考えたのっ? 短慮にもほどがあるわよ!」

 言いたい放題の西河だが、左手は、尚志の服をしっかと握って放さない。

 尚志はぶ然としながら早足で流れを歩く。今日何度目かの疑問が頭に浮かんだ。

(なんで俺がこんな目に・・・)

 尚志は諸悪の元凶を振り返った。尚志にしがみついていた西河は、視線に気付くと胸を隠す。

「見ないでよ」

 白い服が水で透けてる事を気にしたらしい。

「真っ暗で見えるもんか。第一見せるほどのモンじゃないだろ」

「しっ、失礼ね! あたしだってちゃんと胸あるわよ!」

「そりゃスゴイ。びっくりだ」

「うー・・・バカバカバカ!」

 尚志の後頭部を叩く西河だが、足元が悪いのと暗いのとで、ぜんぜん的に当たらない。

「後で覚えてなさいよ、尚志」

「わかったわかった」

 



 夜の福建上空を、迷惑な騒音をまき散らしながらヘリコプターが飛ぶ。機体の中では葛がマイクにがなり立てていた。

「チャン平の部隊! 聞こえているはずだ! ただちに応答しろっ」

『・・・こちら、チャン平駐屯の三師第五連隊、どうぞ』

「こちら三十一野戦軍司令員代行、史玉孝の副官! ただちに兵士を集めて省境沿いに展開してもらいたい!」

 のらりくらりとした答えが返ってくる。

『・・・こちら第五連隊。連隊長は現在仮眠中です。命令は司令員代行から直接いただきたいのですが。そうでなければ、当方が連隊長に処罰されます』

「何だと! 私は閣下のご命令に基づいて協力を要請して・・・」

 ナメクジみたいにぬたっとした声が答えた。

『要請と命令を混同しないでいただけますか。第五連隊は、明朝よりの福建人民救援活動に備えて休息中です。命令によっては直ちに行動しますが、命令がなければ動けません』

 葛が計器板を殴りつけた。

「だからこの要請は史閣下の命令に基づいて・・・!!」

『・・・ザザッ』

 交信が一方的に切断される。

 実に七件目の要請拒否だった。

「きっ、貴様ら! 何様のつもりだーっ! 史閣下に言って貴様ら全員軍法会議にかけてやるぞ。必ずだ! 覚えとけ!!」

 誰も聞いていないマイクに、葛が怒鳴りちらす。

 葛の狂態を片目に、パイロットが自分の不運に嘆息した。




 突然、視界が開けた。

「・・・あれ」

 澄み切った夜空に、熱帯の星座が煌めいている。二人は小高い丘の上にいた。

 二、三歩進むと、足元の水かさが急速に減っていった。湿気のこもった風が緩やかに通り過ぎていく。

 真っ正面にチラチラと、町の明かりが瞬いた。

「尚志・・・あれは?」

「たぶん、梅州(メイチョウ)」

 右側を、車の光が列を成して町に流れていく。

(やった・・・)

「車の光が列を成して町に・・・」

「広東だ・・・・はは」

「やったぁーっ!!」

 西河がいきなり歓声をあげた。

「やった、やったわ! 広州までもう少しね!」

 西河が尚志の肩を揺すった。

「あ、ああ。そーだな」

「じゃ、行きましょ」

(何!?)

 西河の瞳が闇のなかに輝いている。

「早く町に降りましょうよ」

「そ、そうだな。少し休んでから・・・」

 西河は尚志をまじまじと見つめた。いきなり、双手を振りかざす。

「何よー! 若いのに爺臭い事言っちゃって!」

 尚志の背中をバンバン叩く。 呼吸困難を起こしそうだった。

 むせる尚志の横、西河は一人で盛り上がっている。

「まずゆっくりできる所を見つけてシャワー浴びなきゃ。服も着替えないと風邪引いちゃうわね」

(馬鹿は風邪引かねーよ)

「ちょっと時間遅いけど・・・」

 現在、午前一時四十分。

「・・・何か食べたいなー。脆皮鶏(鶏の唐揚げ)なんかが手軽でいいかな」

(晩飯にあれだけ食ってまた食べるのか!?)

 しかも、ニワトリ。

 呆気にとられた尚志の前に、西河はしゃがみこんだ。ニコニコしながら尚志の膝を叩く

「さー、早く早くっ。は・や・く!」

(なんでお前はそんなに元気なんだ・・・)

 全身の力を西河に吸い取られた気分だ。

 そんな尚志の心も知らず、西河は尚志の顔を覗き込んで小首を傾げる。そして尚志に訊ねた。

「走れる?」




 俊卿が司令部に戻ると、まだ司令員室に明かりが灯っていた。

「ただいま戻りました」

 部屋の真ん中で、梁『前』司令が机に腰掛けている。背が丸い。今朝に較べて十年も歳をとったようだった。

 梁は俊卿を認めると、まず首を傾げた。

「その血はどうした」

「・・・捜索中に転びました」

 真実ではないが、嘘でもない。経過を省いただけだ。

「そうか・・・救護室に寄ってから帰れ。私も帰る」

 静かに言って、梁は腰を上げる。辞職についてはお互い一言も触れない。俊卿は梁のために扉を開けた。

 夜の基地はしんと静まりかえっている。打ち放しのコンクリートが、熱帯夜をうす寒く感じさせた。

「ああ、俊卿」

 梁が立ち止まる。

「お前の借りは返せたか?」

「おかげさまで、大方は」

「よしよし・・・」

 梁は穏やかに笑って廊下を歩み去る。

 その姿が消えるまで、『元』副官は敬礼し続けた。そして誰もいなくなった廊下でひとり呟く。

「しかし、一番大きな借りが残っています」

 俊卿は司令員室に入り、内線を取り上げた。

「愉中尉だ。人民日報福建支局、第一編集科長の阮伯孟(ロァン・パイモン)を」




「情けないわねえ」

 確かに情けない格好だ。丘を下る道を、西河が後ろ向きになって尚志の両手を引いている。

「ほーら、急いでっ」

 さっきからずっと、「急げ」と「早く」しか言ってない。

 尚志は疲労困憊の体(てい)だった。

「・・・わかったからそう引っ張るな」

「言われたくなきゃ急ぎなさいよ」

(出来るかっ)

 ようやく道路に出ると、真夜中なのに頻繁に車が通っていた。

「誰か乗せてくれないかなあ」

 西河が光の列を見ながら言った。

「びしょ濡れ泥だらけの二人組を乗せてくれる、奇特な人がいりゃーな」

「他人事みたいに言ってるわね」

 西河の反論を無視して、尚志は梅州にとぼとぼ歩き出した。

「尚志! 車を掴まえないのー?」

「時間の無駄だ」

 背後でクラクションが鳴った。

 尚志と西河をヘッドライトが照らし出す。

「奇特な人・・・」

「みたいだな」

 道路脇の二人の横に、埃まみれの小型車が停まった。ドアに『里堂旅行社』と書いてある。

「いよう、そこのお二人さん! 清潔なタオルとパリパリに乾いた服はいかがかね?」

 尚志はため息を吐いた。

「西河。こいつは奇特な人なんかじゃない。悪魔だよ」

 そうでもなければ、ここに居るはずない。

「目一杯割り引いて悪夢」

「ガハハハハ! ほら、乗んな」

 西河は目をまん丸にしていた。

「まずタオルが欲しいですね、先輩?」

「後ろに山ほど積んでるよ」

 戚資先がニヤリと笑った。


(続く)

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