西河の一線天
-上海破時快梯- |
第七章
俊卿との対面は印象的だった。 俊卿は切れ長の目を持つ美男子だった。しかし左耳が削げ落ちていて、尚志と西河はまずそれにビックリした。 俊卿は俊卿で、西河が名乗ると目をむいた(まるで死人でも見たような顔だった)。 尚志と西河、俊卿の三人は、尚志のあてがわれた部屋に入った。俊卿が、三人だけで話し合いたいと申し出たからだ。 尚志の腑に落ちない点が、一つあった。 どういうわけか、俊卿は西河をお姫さまのように扱っていた。今の西河ではそんな風に見える筈もないのに。 「さて・・・」 俊卿は西河に体を向けた。尚志には見向きもしない。 「シェ令媛。あなたは今、ご自分がどういう状況に置かれているか、ご存じですか」 俊卿の声は苦々しさに満ちていた。一方、西河はきょとんとしている。ご存じではないようだ。 「南京の総司令部と二つの省軍が死に物狂いになってあなたを探しています。山のこちら側は豪雨のため、あなたを探す余裕がありませんでした。それで今、こういう事になっています」 俊卿が胸ポケットから、マイクロカセットレコーダーを取り出す。尚志はますます混乱した。 「あの、西河が何かしたんですか? そもそも俊卿さんはいったい・・・」 「君は黙っててくれ」 俊卿はピシャリと言い、レコーダーを再生した。 五百円大のスピーカーから、雑音混じりの声が流れ出す。 丁寧だが冷たく、かすれるほど低い声だった。 『・・返す、三十一野戦軍司令員、梁元瑞閣下は、本日ただいまをもって職を辞された。次の司令員が着任されるまで、南京軍区政治委員、史玉孝(シー・ユィシャオ)閣下が臨時に指揮を執られる』 軍区の政治委員は事実上の最高責任者だ。軍区司令員(最高司令官)の命令も、政治委員の添え書きがなければ発効しない。 尚志は不満げに腕を組んだ。 兵隊さんの一人や二人辞めたからって、何だってんだ。 「辞職した司令員は私の直属の上官だ」 「・・・・・ふぅん?」 西河は興味なさそうに髪をいじっている。 『人民解放軍の全兵士は、史閣下のご命令を遅滞なく遂行するように。福建省東部に展開中の部隊は、現在の任務を中断する事』 俊卿が舌打ちしたが、もちろん尚志と西河にその理由はわからない。 『各部隊は上杭並びに厦門(シァメン)に集結する。各自の任務については指示を待て。次に・・』 ここで俊卿はレコーダーを停めた。 「これは一時間半前に録音したものです。今ごろは、上杭と厦門に兵士が溢れているでしょう」 西河は投げやりに応じた。 「だからぁ?」 「わからないんですか!」 俊卿はレコーダーを西河に突き出した。 「あなたを探すためにやってる事なんですよ! あなた一人を探すために! そのせいで私の上官は辞めさせられ、福建人は救護活動を中止させられたんです!」 俊卿は言い終わると、肩を落として椅子に沈み込んだ。 「・・・」 唖然とする二人と悄然とした軍人。 沈黙が重い。 最初に思考を取り戻したのは尚志だった。 「でも、なんでだ? 西河一人のために、どうしてそんな大仰な」 俊卿が初めて尚志に顔を向けた。淡く笑っている。 「自分が誰と共にいるか知らなかったのか」 「自分が誰と共にいるか知らなかったのか」 その目が「呆れた奴」と語っていた。 (自分が誰と・・・?) 西河。 そして謝令媛。 ・・・・わからない。 「まあいい」 俊卿が西河に顔を戻した。 「ともかく、南京に連絡を取ります。ここでお待ち下さい。戸外には出られないように」 「嫌っ!」 跳ねるように西河が立ち上がった。椅子が後ろに倒れる。 「パパに知られたら、上海に戻れって言われるわ」 「そうかもしれませんね」 俊卿が肩をすくめる。 「そしたら・・・・そしたらそしたら、ママに会えないじゃない!」 「はあ?」 俊卿が、堅苦しい軍服姿に似合わぬ素っ頓狂な声を出した。 「媽媽(ママ)って・・・令媛、まだおわかりにならないんですか?」 「だってだって、せっかくここまで来たのにい!」 「令媛・・・」 尚志は感心してしまった。 (こいつのワガママは相手を選ばねーのか) 相手は本物の拳銃をぶら下げた解放軍の軍人さんだ。しかも凄み溢れるあの顔。尚志なら抗弁どころか、裸足で逃げ出して恥としないだろう。 その軍人さんが、西河を相手に困惑している。 「あんたも客家でしょう! 同じ客家でも優しい阮家と大違いねっ。親を思う心がわからないのっ!?」 西河はマシンガンの如く、資先をやりこめた時さながらにまくし立てる。 「あたし達に甥っ子助けて貰いながら、よくそんなこと言えるわね。恩を仇で返そうっわけ! ご先祖様が泣いてるわ。うちの子孫は孝も信も義も知らないってね!」 「あの・・・」 無茶苦茶な論理だ。俊卿の額に冷や汗が浮かんでいる。 「ああ、そうだ! 三つも徳を破って恥じ入ろうともしないんだから、あんたは恥も知らないわけね。こんな叔父貴を持ったなんて、小愉は本当に可哀想! 雲卿さんが生きてたら、あんたに何て言うかしら!」 西河は両手を腰にあて、自分より頭一つ大きい俊卿に鼻を鳴らした。 「何・・・?」 俊卿の瞳が鈍い光を放った。思わず尚志はベッドの上で身構える。 「・・・雲卿が、『生きてたら』? あいつは死んだのか」 俊卿は穴が開くほど西河を見つめた。 「あたし達の目の前でね! 知らなかったの!?」 知るわけがない。俊卿が聞いたのは、実家が倒壊した事と弟の消息が途絶えた事、小愉が助けられた事だけだ。 「覚悟はしていたが・・・」 小愉が助かったのならあるいは、と希望を抱いていた。 俊卿は再び腰を下ろした。背中を丸め首を垂らし、ひどく年をとったように見える。 「・・・それで、どうして雲卿は死んだんだ」 目が虚ろになった俊卿は、誰に訊くともなく呟いた。 「尚志・・・」 西河の言葉に頷き、尚志は季迪たちに話した事を繰り返した。
白い壁と天井まで届く本棚。その真ん中で梁司令が机に腰掛けていた。 梁の襟元から階級章が剥ぎ取られている。階級章は床の上にあった。 暗に辞職を薦める上司との電話を切ったあと、自分で引きちぎったのだ。 「若造・・・!」 あのいかつい冷血漢め。わざわざ私の電話で史玉孝を呼び出しおった。 梁は暗い外を眺め、俊卿がいなかったのは運不運のどちらかと考えた。
ロウソクの灯火の下、俊卿は立ちつくした。目の前のベッドに、宣明と並んで小愉が眠っている。安らかな寝顔に、俊卿は弟の幼かった頃を見た気がした。 「何という事だ・・・」 生まれて一年も経たないのに、この赤ん坊は死ぬような目に遭わされたのか。 「何という事だ・・・」 肩を震わす俊卿を、尚志たちは部屋の外から遠巻きに見ていた。 「一番可哀想なのは、あの俊卿かもなあ」 重苦しい沈黙の中、季迪が気遣った。 「自分の知らないうちに、家族が悉く去ってしまったんじゃから」 尚志と子孟が黙って頷く。 「一番可哀想なのはあたし! 死ぬような思いさせられて山道歩いてきたのに、ここまで来て上海に戻れなんて!」 西河の勢いに季迪が唖然とした。 「冗談じゃないわよっ。ねっ、尚志、そう思わない!?」 「・・・・・・・・・・・・・そうかもなな」 (・・・・駄目だ、こりゃ) 西河を除く三人は、顔を見合わせ首を落とした。 「家長殿」 部屋から俊卿が出てきた。目が少し赤くなってる他は、まったく平静に見える 俊卿は季迪老に頭を下げた。 「家長殿。迷惑なのはわかっていますが、しばらく小愉の面倒を見ていただけませんか。なるべく早く引き取りに来ますから」 季迪老が俊卿の胸を小突いた。 「お前はそのクソ真面目な所がいかん。余計な事言わんでも、ちゃんと見るわい。小愉は儂の孫じゃ」 「よろしくお願いします。家長殿」 子孟が苦笑した。 「家長殿だって。今時はやらないよね」 「お前は礼を知らなすぎるんじゃ!」 季迪が振り向いて子孟に怒り、それから尚志を見てかっかと笑った。 俊卿もかすかに笑顔を浮かべたが、すぐ真顔に戻って尚志の前に立った。目の前で見ると、意外に俊卿の背は大きい。尚志よりも指三本は高いだろう。鼻先二十センチに立つ解放軍士官は、強烈な威圧感を放っていた。 「この先どうするつもりだ」 「・・・え?」 西河が横合いから口を挟む。 「広州に行くの!」 「広州に。しかしどうやって」 俊卿は数え始めた。 「令媛は足の具合が悪いようです。お供の尚志も疲れ切ってますね。道中にある川は溢れて道が水浸しになっています。バスは通らないし、広州に直接通じる鉄路もありません。海港だってボロボロで、ろくに船も出ませんよ」 季迪が地団駄を踏んだ。 「じれったい奴じゃのう! 何が言いたい。はっきり言えっ」 俊卿は顎をしゃくって外を示した。 真昇飛机(ヘリコプター)の暖気音が伝わってくる。 解放軍士官は言った。 「借りは、返さねばならない」
阮家との別れは、思ったより辛かった。 尚志がではない。西河がだ。 半日も居なかったしその間ほとんど寝ていたから、尚志には感慨なんてない。 西河は子孟の母親にいたく気に入られ、目を赤くしながら見送られた。必ず来てねという言葉に、何度も頷いていたから、お互いに気に入ったようだ。尚志は西河の涙を見て「鬼の目にも涙」と言いかけたが、鬼より怖い目つきになったので口を閉ざした。賢明だったと言えよう。 (しっかし腹立つ・・・) 小愉の事だ。 尚志がさよならを言った時はあさっての方を向いていたのに、西河が「お別れね」と言ったら泣き出したのである。 (あのガキ、誰が命を助けたと思ってるんだ!) 「いつでも出発できます!」 暗緑色の機体からパイロットの声が届いた。二枚の羽根が空を切る。 「いつでも出発できます!」 俊卿は尚志と西河を機体後部に押し込むと遠くで見ている季迪の所に戻った。 「なるべく早く戻ります」 頭を下げる俊卿に、季迪が怒鳴った。 「心配するな。実家のほうはちゃんとする! それから、今日よりお前の家は康成楼だぞ! 遠慮なくいつでも帰ってこい!」 季迪の後ろで、子孟がニコリとした。 「ありがとうごさいます」 俊卿は深く頭を下げると、機体に走っていった。ヘリコプターのドアが閉まる。 機体はすぐに浮き始めた。揺れ動く小さな窓から、誰かが手を振っている。子孟がぶんぶんと手を振って応えた。 爆音を轟かせて機体が浮き上がる。 ヘリコプターは上空で向きを変え、東へと一直線に飛んでいった。 「・・・子孟」 「何?」 季迪にはもう、機体に光る赤い標識灯しか見えない。 「先生のお名前、『林尚志』じゃったな」 「そーだよ」 遠く霞んでいく標識灯を見つめながら、季迪は決めた。 「ならば小愉の正名、愉尚卿にしよう」 「うん!」 それは何よりも相応しい名に思えた。
福建から広東へ行くには二本の道がある。 上杭を通る北路とチャン州を通る南路だ。 七月四日、午後十時二分。 チャン州から南に延びる道に、無数の車が連なっている。それらは列の先頭で幾つかに分かれ、徹底的に検査されていた。 調べる兵士、調べられる人々、どっちもウンザリという顔だ。様子を見ながら、壮年の連隊長が無線に怒鳴っていた。 「全ての車を調べるなど不可能だ。列は長くなるばかりだぞ!」 かすれるほど低く、冷たい声が答える。 『ご苦労さまです』 誠意が微塵も伝わってこない。 『しかし史閣下のご命令で、重要人物保護のため、いかなる努力も惜しむなと言われております』 連隊長は舌打ちして、手元にある『重要人物』の写真を見た。 白黒写真の中で、吊り目の女の子が笑っている。 「白黒写真」 「通行車の中には多くの怪我人も乗っている。一刻も早く広州の病院に運ばねばならないんだ! 食い物を買い出しにいく連中だって、夜っぴて走り続けて朝までに帰れるかどうかわからないんだぞっ」 『残念です』 同情のかけらも感じられない声だった。 『任務に遂行する人員を出来る限り増やし、すみやかに検問が行えるようこちらでも努力しております。なにとぞしばらくのご辛抱を・・・』 「・・・了解した(人非人め!)」 叩きつけるように受話器を置くと、連隊長は検問所に出ていった。 「話にならん!」 「どうします? 兵士には三十六時間寝ていない者もいます。このままでは・・・」 そう言う部下も、目の下にドス黒いクマが出来ている。 「梁閣下ならこんな馬鹿げた事を許すまい。あの憎たらしい若造のせいだ」 連隊長は部下の背中を叩いた。 「お前、寝ろ! 俺も寝る! 兵士も寝かせちまえ!」 「しかし検問が・・・」 士官用の宿舎に向かって歩きながら、連隊長は答えた。 「監視の撮像机(テレビカメラ)があるだろう。朝になったら、録画テープを低速再生でダビングしておけ。それを提出すれば証拠に充分だ」 部下はニヤリとした。 「了解しました!」 背後で兵士たちの歓声が上がる。 連隊長は満足そうに頷いた。
眼下を、町の明かりが通り過ぎていく。 「すっごーい! 早ーい!」 窓際の西河がはしゃぎ声をあげた。 「早ーい!」 乗ってから二時間、同じ感想を言い続けている。 (何であいつが平気で俺が・・・) 「うわ・・・!」 いきなり椅子が二十センチ落ちた。 「俊卿さんっ!」 尚志は怒鳴った。 「この揺れは何とかならないんですかっ?」 機体のブレと相まって、否定する俊卿の首はがくがく揺れた。 機体が斜めに傾く。重力が首と脇腹にかかった。 「今は珍しく大気が安定している。快適なほうだ」 「大した事ないじゃない。こんなのが耐えられないの?」 斜めになった俊卿と西河が口々に言う。 (お前ら正気か!?) 言いたい事を口にせず、かわりに尚志は歯をくいしぱった。さっきしゃべろうとしたら機体が揺れて舌を咬んだ。それから、最低限の言葉しか発していない。 椅子が跳ね上がった。 「ンが!」 狭い後部空間である。尚志は頭上の金具に脳天を直撃し、シートベルトの範囲内でのたうち回った。 「あはははは! 格好悪ーい!」 西河が尚志を指さして笑う。俊卿は多少哀れみの表情を浮かべ、尚志のシートベルトを締め直してくれた。 (ここから蹴り落としてやろーか) 尚志は西河を睨んだが、西河はすでに足下の夜景に心を移している。 「俊卿さん! あとどれくらい飛ぶんですかっ」 俊卿は外を見た。 「さっき上杭を通過したからな。あと五分たらずだ」 (やった!) 尚志はシートベルトを握りしめた。 「すまないな、省境までしか送れなくて。広州まで乗せてあげたいのだが」 福建と広東では所属する軍区が違う。兵士が勝手に省境を越える事は許されない。それはヘリコプターも同じだ。 「こっちが恐縮しちゃいますよ。本当なら今ごろ地べた這いずってたはずなんですから」 「役に立てて何よりだ」 俊卿がかすかに笑った。 「愉中尉!」 パイロットが振り返った。 「無線です! 中尉を呼んでます!」 俊卿がシートベルトを手早く外す。 「自分を?」 瞬時に口調が軍隊調に戻る。 名指しというのが気になる。嫌な予感がした。 (シェ令媛を運んでいるのがバレたか・・・・・無線封鎖すれば良かった。いや、パイロットは巻き込めん) 俊卿は背筋を伸ばし、ヘッドセットを内蔵するヘルメットを被った。 「こちら愉俊卿中尉! そちらは!」 その時、後部にいる西河が大声をあげた。 「尚志! ヘリコプターが近付いてくるよ!」 ヘッドホンがザッと鳴る。 『愉中尉か? こちら三十一野戦軍の司令員代行、史玉孝閣下の副官』 かすれるほど低く、限りなく冷たい声。 「名前と階級は!」 今や俊卿にも、横並びになったもう一機のヘリコプターが見えた。パイロットの横に座った大男が、こちらを注視している。 「こちら史玉孝閣下の副官」 『葛汝忠(コー・ルチュン)、大尉(シャンウェイ)だ』 俊卿のヘッドホンにずしりと重い声が響いた。 (続く)
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