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西河の一線天

-上海破時快梯-

   第二章


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 沈黙が重い。

 列車が上海を出発して一時間。ナップザックを膝の上に載せた西河は、じっと車外を見ている。その顔は表情を表さず、心情が皆目つかめなかった。

(女の子相手に言い方がキツかったなあ)

 ぎっしりと人の詰まった車内に目をやりながら、尚志は思った。

 夜行列車の中では、様々な光景が進行している。酒をちびちび飲む者や、早々と眠りに入る者、知り合いと地元の話題で盛り上がる者・・・

 尚志と西河の周囲だけは、氷の幕が下ろされているようだ。

「えっと・・・西河、さん?」

「じろっ」

 黒い瞳が無機質に尚志を見る。その強烈な冷ややかさに、尚志の心は後ずさった。

「さっきは・・・少し言いすぎた。悪かったな」

「・・・」

 西河は何も答えなかった。だが尚志が見ていると、微かにうなずく。尚志は肩の力を抜いた。これで眠る事ができそうだ。

「南昌に着くのは明日の朝だ。それまで眠ったほうがいい」

 先は長いし、とつけ加える。尚志は手をポケットに突っ込んだまま瞼を閉じた。ポケットの中には財布とパスポート、就労許可証が入っている。夜行列車に出没する物盗りから、それらを守るための習慣だった。

「こんな所で眠れるわけ、ないじゃない」

 ポツリと聞こえたが、尚志は無視した。配達屋に不可欠の能力、つまりどこでも寝られるという特性のおかげで、尚志はすぐに熟睡してしまった。




 首の筋肉が悲鳴をあげている。

「・・・痛っ」

 痛みが尚志を眠りから引き戻した。後頭部のすぐ下が染みるように痛い。変な姿勢で眠っていたらしい。 尚志は痛みに耐えながら首を回し、右手で揉んだ。

「まだ夜か・・・・」 

「まだ夜か・・・」

 薄明かりの下、乗客はみな寝入っている。

 ブツブツ文句を言っていた西河も、ナップザックの上に足を乗せてぐっすり眠っていた。長い前髪が、瞼の上にさらりとかかっている。小麦色の肌とつやつやの髪が調和して、ちょっとした色気を感じさせた。

「黙ってれば可愛いんだけど、な」

 口が悪すぎる。

 尚志はその時、静かすぎる事に気がついた。どこかの駅に停車中らしい。腕時計の針は四時過ぎ。日が出るには早い時間だ。

 暗いホームを見すかして駅名を探すと、かろうじて江山(チャンシャン)という表示が見えた。

 江山は浙江、江西、福建の三省が境を接する所。始発駅上海と終着駅南昌の、ちょうど中間地点だ。

(七時には終点に着くはずだったんだから、やっぱり遅れてるか)

 しかし、雨音はさっきと比べてかなり小さい。台風の暴風圏から出たらしい。窓を流れ落ちる水滴も弱々しかった。

(ま、台風さえ行っちまえばな。あとは楽なもんだ)

 タイムリミットまであと二日。台風さえなければ、南昌から広州まで丸一日で着くはずだ。

 意外と楽な仕事だったかもしれない。

(何だか冷えてきたな)

 奄美大島と同じ緯度とはいえ雨の下、夜明け前の時間帯だ。冷えて当然だろう。Tシャツ一枚の西河は震えているように見えた。

「上着くらい用意しておけよ」

 小声で言うと、尚志は自分のジャケットを西河に掛ける。それからもう一度、背もたれに寄りかかった。

 目が覚める頃には江西省に入っているだろう。




「ねぇ尚志! ちょっと起きてよ、尚志、ねえっ。」

 体が強く揺すられた。

「ああ? 何だよ・・・着いたのか?」

 無理矢理起こされて、不機嫌さは隠せない。いやいや目を開けると、鼻先十センチに西河の顔があった。

「うわっ!」

「失礼ねっ。『うわっ』て何よ!」

 小麦色の頬がぷくっとふくれた。

「わ、悪い。どうしたんだ?」

 西河は車外を指さした。雨がすっかり上がっている。青空が広がり、朝日がまぶしい。

 ホームで、見覚えのある人々がタバコを吸っていた。同じ車両に乗っていた連中だ。振り返ると、確かに車内の客数が減っている。

 腕時計を見る。

 七時十八分。

「さっき駅員が通ってからよ。みんなが外に出たの」

「何か言ってなかったか?」

 西河は紅い唇に右の親指を当てた。考え事をする時のポーズらしい。

「動かないって言葉しか聞けなかったけど」

「!」

 尚志は車窓を持ち上げた。湿気と熱を含んだ空気が流れ込む。窓から身を乗り出して駅名の表示板を探すと、すぐ見つかった。

「・・・・江山」

(動いてない!)

 尚志は呆然として席に座った。

 寝なおしてから三時間、列車は一ミリも進まなかったのだ。尚志が嫌な予想を導き出すまで、二秒とかからなかった。

「ちょっと外に出てくる」

「え」

 西河に何も応えず、尚志はホームに降りた。



 江山は三本の川に挟まれた町だ。川は三本とも西から東に流れ、町も東西に開けている。大都会ではない。人口は多いが、住民のほとんどが農業従事者。水が豊富で、郊外にはどこまでも水田が続く。駅からは見えないが、列車が動けば青々とした稲穂が視界に飛び込んでくるはずだ。

「どこまでも水田が続く」

 だがそれは、水害の多発地帯である事も意味する。

 尚志は改札口に行き、うるさがる駅員に食い下がって原因を聞き出した。

「橋が落ちた・・・・・? いつ!」

 駅員は答えなかった。「もういいだろ」と無愛想に言い捨て、駅員は尚志を追い払った。

 歩きながら考える。

 それにしてもにわかに信難い話だ。落ちた橋は信江という川に架かっていたのだが、尚志は昨日そこを渡っているのだ。武漢から帰って来る途中で。

「俺が渡ったあと、一日保たなかったのか・・・・」

 恐いような腹立たしいような、変な気分だ。

 私情はともかく、引き返すしかないのは明らかだった。流された橋が一日や二日で架け直されるはずもない。

(南京(ナンチン)から北周りで南昌に行くか。いや、時間がかかりすぎる。・・・・とすると)

「尚志!」

「・・・・・・あ?」

「ドコ行くの」

 歩きながら考えていたせいで、自分の客車を通り過ぎそうになっていた。西河の冷ややかな視線を浴びながら席に着くと、尚志は状況を説明をした。

「・・・そういうわけで、どの道を選ぶにしろ衝州(チュィチョウ)まで戻る必要がある。わかったか?」

 尚志が話し終えても、西河は視線を逸らさなかった。その姿勢のまま、ぽつりと呟く。

「話はわかったけど・・・戻れるの?」

「何だと」

「陽が出てからずいぶん経つのに、急行どころか普通列車もホームに入ってこないじゃない。浙カン線て、そんなに本数少ないの」

 少ないはずがない。浙カン線は長江下流と中国南部を結ぶ幹線だ。

「確かに・・・・おかしい」

 尚志は改札口に舞い戻り、再び駅員に噛り付いた。今度は喧嘩寸前の口論になった。

 やがて罵詈雑言に混じって返ってきた答えは、尚志を愕然とさせた。

「衝江橋(チュィチャンチャオ)が流された?」
「流された衝江橋」

 西河に打ち明ける尚志は、絶望的な顔をしている。だがこの辺りの地理に不案内な西河は、意味を把握できないようだ。

「つまり、こういう事だ」

 尚志は上着の内ポケットから路線図を取り出した。縦横に折り目の入った路線図から江山の位置を探し出し、西河の見やすいように置く。

 尚志の指が、江山の一センチ左を指した。

「このあたりが、信江の橋が落ちた場所」

 西河が生真面目にうなずく。

 尚志はそのまま線路に沿って指を滑らせ、駅を挟んだ反対側で止めた。

「ここが、衝江橋」

 聞いた途端、西河が顔色を失う。

「西河さんの言うとおり。列車はどこからも来ないし行かない」

 行きようがない。

 江山駅は孤立してしまったのだ。




 上海では、まだ雨が降っていた。台風は去ったものの、低気圧が頑固に居座っている。暴風雨と言うほどでもないが、迷惑な長雨が続いていた。

 破時快梯の朝は、他の私企業に比べてかなり早い。もっとも、宅急便の会社はどこでもそうだ。

 朝八時。

 同僚の賀(ホー)と並んで恵泉が服務台(受付)の事務用具を用意していると、資先が入って来た。

「おはよう恵泉」

「おはようございます、資先さん。今日は早いですね」

「ああ・・・尚志から連絡来たか?」

 尚志の仕事に不安を抱いた資先が、朝一番で電話するよう、厳命していのだ。恵泉は頭を振った。

「あの野郎、人が早起きして来てやりゃあこの始末だ。帰ったらシメてやる」

 言い方は過激だが、本音は誰の目にも明らかだ。恵泉はクスクス笑った。

「何がおかしい」

「いえ別に」

 恵泉がしかめっつらしい顔をつくっていると、総経理が出社してきた。さりげなく恵泉は耳を塞ぐ。

「よーーし! 仕事するぞぉーっ」

 破時快梯の一日は、総経理の大音声から始まる。声を聞いて運び屋は公司を飛び出し、恵泉たち事務員は受け付けを開く。

 電話が鳴った。始業と同時に電話が鳴るのもいつも通り。

「今日も忙しそう」

 隣の賀と話しながら、恵泉は受話器を取る。

 しかし、予定調和はそこまでだった。

「全員、その場を動くな!」

「予定調和はそこまでだった」

 総経理よりもっと大きな声だった。そして氷のように冷え切った響き。

 直後、命令口調の叫びと共に、ダークグリーンの服を着込んだ五人の男が事務所に飛び込んできた。

「な、何よ!?」

 男達は上半身に色々な装備を身に付け、手には自動小銃が握られていた。

 悲鳴が耳をつんざく。それを怒鳴り声が打ち消した。

「人民解放軍(レンミンチェファンチュィン)だ! 逃亡、抵抗する者には発砲する!」

「解放軍・・・!?」

「警察じゃない・・・」

 職員の口から、驚きと恐怖と困惑、混乱に満ちた声が漏れた。

 総経理は蒼白だった。横に突ったっている資先も、顎が外れるほど口を開けている。恵泉は電話の受話器を持ったまま、硬直していた。

 五人いる兵士のうち三人が裏口やトイレに進み、二人が職員に銃を突きつけた。

 職員は恐々として声がない。

 やがて事務所に、六人目の兵士が入って来た。いかつい顔の持ち主で、眼光鋭く歩き方に隙がない。がっちりした身体から、『殺ス』と言わんばかりの殺気を放っている。先に押し入ってきた五人と違い、重そうな装備を持っていない。手には小銃の代わりに拡声器があった。

 大男は恵泉の手からゆっくり受話器を引き剥がすと、通話を切って机に転がした。

「全員をここに」

 かすれるほど低いのに、よく通る言葉が洩れた。

 大男の命令に従って、五人の兵士は破時快梯の職員を事務所の一隅に追いやった。銃を突きつけられ、みな歯の根が合わない。

 大男は総経理以下をジロリと見回すと、部下に言った。

「他に隠れていないか」

 途端に破壊が開始された。

 部下の兵士は何の遠慮も会釈もなしに、壁の書棚を引き倒し、薄い板壁を突き破る。総経理は泡を吹き出し昏倒してしまった。

 かろうじて理性を残す戚資先は、仕事場が壊される様を見ながら、ありったけの冷静さをかきあつめて闖入の理由を考えた。

 もうもうと埃が立ちこめる。服や髪にゴミが飛ぶ。化粧したばかりの恵泉は泣きそうになった。

 兵士達は壁という壁を叩き、床まで踏み抜いてから大男に報告した。

「これで全員です」

 大男は資先たちの前に仁王立ちした。

「お前達を、誘拐の共謀者として逮捕する」

「誘拐ぃ!?」

 職員が一斉に声を上げる。

 その時である。

 壮年の紳士が事務所に駆け込んできた。

「シィーーーーホォーーーッ!」

 上品なスーツを身に付けた、格幅のいい男だ。かなり後退した髪は、きちんと整えられている。脂ぎった顔に黒ずんだクマがあって、傍目にも憔悴しているのがわかった。

 紳士は破時快梯の職員に一直線に突き進み一番手前の崔(ツェイ)という職員を掴み上げた。

「き、貴様らっ! 私の、私のシーホーをどこにやった! どこにやったんだ!」

 紳士が甲高い声で職員を振り回す。ほぼ狂乱状態だ。

 大男が間に入り、紳士を丁重かつ強引に引き離した。

「シィ、ホォ?」

 恵泉がうわごとのように呟く。

 資先の脳裏でこの瞬間、全ての糸が繋がった。




 いつまで待っても、通話中の音しか聞こえなかった。

「ずいぶん長電話なんだな」

 尚志は受話器を置いた。向こうが出なければ相談できない。

「さて、どうする」

 尚志は一人ごちた。

 どうしようもない事だけはわかっている。

 川を渡れなければ、どこにも行けないのだ。

 湿気を含んだ風を払うように、尚志は顔を上げた。頭上まで山容が迫っている。雨に洗われた新緑の青さが、目と心に気持ちよい。

「自力で何とかしろって事か」

 尚志は首を振り、西河の待つ椅子に戻った。

 二人は江山の食堂にいる。西河が空腹を訴えたからだ。例によってクロワッサンを食べたいなどとワガママを仰せになったのだが、田舎町にそんなものが売っているわけもない。第一、台風のあとでは選べるほど店が開かない。

 そんなわけで、西河は街路に出された汚いテーブルを占領し、頬をふくらませてお粥なんぞを啜っている。

 尚志は油条(ヨウティャオ)と下水湯(「げすいとう」ではなく「ハースイタン」。鳥の内臓が入ったスープ)を注文していた。西河の料理を一瞥して座る。

「油条(揚げパン)」

「ふうん。油条も饅頭(マントウ)もあるのにお粥を食べる」

 油条は揚げパン、饅頭は蒸しパン。どちらも中国の朝食メニューだ。

 西河はプラスチックの器に箸を突っ込んだまま、尚志を睨んだ。

「何が言いたいの」

「いや、華南の人らしいと思っただけ」

「ゴホッ!」

 西河は咳こんだ。

 北京あたりの華北では、小麦を主体にした食べ物を好む。米を食べるのは長江流域の華中、香港周辺の華南人だ。

「な、何で華南なの」

「何でって、肌の色は濃いし、言葉にクセがあるし。・・・もしかして上海人のつもりだったのか?」

 少女の柳眉が逆立った。

「つもりで悪かったわねっ」

「はは。本気で隠してるつもりだったのか」

 あれだけ派手に口喧嘩すれば、事務所の同僚で気付かない者はいなかっただろう。悪口は出身地の指標なのだ。

(子供だなぁ)

 尚志の丸顔に意地の悪い笑みが浮かんだ。西河がそれを見て、箸と器をテーブルに置く。

「・・・あ」

 気付いたときには遅かった。

 江山の空を、痛快な破裂音が通っていった。




「お待ちどお・・・兄ちゃん、その頬はどうした」

「・・・聞くな」

 判決を待つ被告のような沈黙の中、尚志はスープを飲み込んだ。味をぜんぜん感じない。

 西河は腕組みしてそっぽを向いている。

 尚志はため息をついた。

「何で考えてることまでわかるんだよ・・・・」

「何よ。言いたい事があるなら言いなさい」

「ナンデモゴザイマセン」

 そういえば西河は地獄耳だった。 

「次は往復で叩くからね。それで、これからどうするの」

 尚志は懐をまさぐった。道路地図を引き出して卓上に広げる。

「言いたいことがあるなら言いなさい」

「正直言って、かなり困ってる」

 尚志は地図上の江山を指さした。

 江山は山間の隘路だ。雄大な中国らしく幅が五十キロもあるが、隘路は隘路。町の南には武夷山脈と仙霞嶺が立ち並び、二千メートル級の山も点在する。

「車で渡れる橋は残ってないの?」

 西河は地図をのぞき込んだ。

「駄目だな。俺も真っ先に確かめたけど、両方の橋とも車道と鉄路がセットになってる。探せば小さい橋もあるだろうけどな。ただ、鉄路の橋でさえ流されたのに、小さい橋が残ってるかどうか」

「期待できないわね・・・」

 そういう少女の顔は暗い。

「運が悪かったな」

「なに他人事みたいに言ってんの。何とかしなさいよ!」

 キッとする西河に、尚志は無愛想な口調で応じた。

「俺に橋を掛けろってのか? 無理言うな」

「そ、それはっ・・・・・でも・・・・」

 尚志は揚げパンを千切って口に放り、スープで胃袋に流し込んだ。

「どうしてもか」

「ん?」

「どうしても、着かなきゃならないのか?」

 西河は口を結び、こくりとした。

(家族に会うだけにねぇ)

 なぜそこまで時間に拘るのか、尚志には想像もつかない。

 だがこっちにも『約束』がある。

 尚志とて「運が悪い」の一言で済ませる気はなかった。

「ホントに、絶対に、何がなんでもってんなら、手がないわけじゃない。」

「?」

 西河が面を上げた。

「福建省に出る。福建は鉄道が少ないかわり、車の輸送網が発達してる。長途汽車(チャントゥーチーチョー)は本数と種類がすごく多い」

 中国語の『汽車』は、蒸気機関車ではなくバスの事。『長途汽車』は長距離バスだ。

「それでっ?」

 西河が期待を込めて声をうわずらせた。

「それで福州か泉州か、とにかく海に出よう。台風が去れば船も出る。鉄道よりは遅いけど、今日中に船便をつかまえれば、明後日の朝には広州に到着」

 少女は瞳を輝かせた。

「・・・何?」

 尚志が西河を見つめている。

 西河が怪訝な表情になると、尚志は首を振って頭を掻いた。

「いや、西河さんの笑顔、初めて見た」

「・・・」

 西河の頬が少し染まる。笑顔と同じくらい可愛かった。

「ああっ、それより!」と、これは照れ隠し―

「そこまで考えて、どうして自信がないなんて言うのよ」

 尚志は道路の向こうを指さした。

「あれ、だよ」

「山? 山がどうしたの」

 二人は名前を知らないが、それは希馮山と呼ばれる。標高千八百八メートル。

 尚志は目を細めた。

「橋を流すような大雨で、山道が大丈夫かどうか。土が緩んでるだろうし、俺達が通る時に崩れるかもしれない」

 中国大陸の山地は地盤が弱いため、常に地滑りの危険がある。

「あ・・・そか」

「モノスゴク危ないぞ。鉄路で行くより余計に幸運が要る」

「・・・・・・・・・」

「それでも、行くか?」

 尚志は三十秒待った。陽光がスーツにあたり、背中に汗が滲んだ。ジャケットの中がむずむずする。

 西河は、頭のてっぺんから爪先まで決意に満ちて、言い切った。

「行く!」

「わかった」

 あとは尚志の仕事だ。車と運転手を見つけ、運賃を交渉しなければならない。

「それにしても、よっぽど大事な用があるんだな」

 尚志の言葉に、西河は遠い目をして呟いた

「パパが守らないなら、あたしが守らなきゃいけないもの・・・」

「え?」

 声は小さすぎて、尚志の耳に届かなかった。

「なんでもない」

 西河は席を立った。




 破時快梯の職員が解放軍の隊長(大男)を説得するのに、三時間かかった。

 まだ彼らは投獄されていなかった。冤罪と悟って、頑として動かなかったからである。そこで隊長が話を聞く事になった。

 三時間もかかったのは、職員のせいでも隊長のせいでもない。後から駆け込んできた紳士のせいだ。なにしろ総経理や資先が何か言えばたびに「嘘吐き」とか「誘拐犯」と叫び立てるから、邪魔くさいったらありゃしない。葛と名乗った隊長は、しまいに紳士を体よく追い払ってしまった。

「話を整理する」

 葛の声は地響きのように低い。彼は西河を令媛(リンアイ)と呼んだ。お嬢様という意味だ。

「シェ令媛は昨日の夕方一人で来られた。お前達は金を受け取って令媛の希望に従い、供を付けて送り出した。以上でいいか」

 総経理がブンブンと頷いた。

「ふむ」と葛。

「お前達の言い分はわかった。しかし証拠がない。だから信じる事はできないな」

「証拠ならあります。契約書が」

 総経理は訴えたが、「脅迫して書かせた可能性がある」と切り捨てられた。

「脅迫して書かせた可能性がある」

 職員達が絶望して沈黙した時、葛の携帯電話が鳴った。

「・・・わかった。ご苦労」

 電話を切る。

「お前達の言った通り南昌を探したが、令媛も尚志とかいう男も見つからなかったぞ。それどころか」

 葛は嗤(わら)った。

「上海からの列車は一両たいとも到着していない!」

 最後の一言は、雷鳴のように資先らを打ちのめした。

「そんな馬鹿な・・・」

「あ、総経理!」

 総経理がへなへなとくず折れる。恵泉が慌てて抱きとめた。

「事故だ」

 資先が宙を見据えて呟いた。

「どこかで事故があったんだ」

「今それを調べさせている」

 葛は事務机に寄り掛かって腕を組んだ。重みに天板がきしむ。

「宅急便会社ってのはちっぽけなものだな。どこもこんな風か」

 当たり前の事だが、誰も答えない。職員達がちらちら銃口を見ている事に気付くと、葛は部下に手を振った。

 二人の部下は三歩後退して、銃口を下げる。しかし視線は、職員達から一ミリも離さなかった。

「雨が上がったようだ」

 葛が窓に向けて顎をしゃくった。外光に明るみが増し、水滴がポタポタと垂れている。

 しばらくして、再び携帯電話が鳴った。

「私だ」

『全五峰(チャン・ウーフォン)です。江山公安局からかけてます』

 葛は短く承知の声を出した。聞き慣れないとうなり声にしか思えない。

『令媛の乗っておられた列車は、ここに立ち往生になってました。前後の橋が流されたんです。まったく、よく橋と一緒に落ちなかったものですよ』

「余計な事はいい」

 江山という声が漏れ聞こえ、恵泉は資先をつついた。

「江山てどこです?」

「浙江の南のほうで江西の一歩前だ。あの馬鹿、一晩かけて江山止まりかよ」

 列車が止まったのは台風のせいなのだから理不尽な小言ではある。 

『それで駅員に訊いた所、尚志という男と令媛をよく覚えていました。駅員は男と口論したそうです』

『・・・令媛たちは二時間前に町の食堂で朝食をとり、子連れの夫婦と話をしています。その後の消息はまだ不明』

「よし。調査を続けろ。公安局の全員を駆り出して見つけるんだ。」

『もうやってます。ああ、そうそう。尚志という男、食堂で令媛にビンタされたそうですよ』

 葛は吹き出した。

『では後ほど』

「・・・というわけだ。誘拐犯が飯を食いながら世間話するとも思えん。お前達の言い分が正しいようだ」

 全員が安堵の表情を浮かべた。それを見て葛は嘲った。

「尚志とやら、朝飯代わりに平手打ちされたそうだ。なんとも情けない男だな」

 総経理と資先が思わず笑い声をあげ、恵泉に睨まれて急いで口を閉じた。このおかげで職員は緊張をほぐす事ができた。

 葛は部下の一人に顔を向けた。

「表で濡れてる連中を帰してやれ。公用車を一台残しておくように」

 これを聞いた総経理がおずおずと業務再開の求めたが、葛の返事は、「不許(だめ)」

「令媛が保護されるまでは、この場で協力してもらう。外出も禁止だ」

 総経理は肩を落とした。

「文句は自分に言え。金に目がくらんで尋常ならざる依頼を引き受けたのだからな」

 恵泉は手を挙げた。

「別に手を挙げる必要はない。なんだ」

「あの・・・さっきから令媛って呼んでますけど、あの女の子は誰なんですか?」

 葛は鼻を鳴らした。

「さっきのお方を見てわからなかったのか」

「さっきの、お方?」

 恵泉が首を傾げた。

「誰か知ってる?」

 誰も答えない。

「さっきのお方を見てわからなかったのか」

 葛は頭を振った。

「まあ、少々落ち着きを失っておられたからな」

 かなり控えめな表現ではある。

「人並みにテレビを見ていれば、あのお方にうりふたつの兄君を目にしているはずだ」

 真っ先に資先が、次に総経理がぎょっとした。恵泉はますますわけがわからない。

「テレビに出る? 解放軍が関わる重要人物で・・・広州の・・・・・・シェ」

 職員の間にざわめきが広がった。

「やっとわかったか」

 葛が肉厚の唇を歪める。

 恵泉は青ざめた。

(続く)


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