さらさらと。
ひそやかに。
すべるように。
流れて行く。
藍の水面(みなも)。
そこに映るは、ただ一本の糸。
「この静寂をもってウコィキ淵とは、異なものよ」
とはいえ、名前の由来は聞いていた。
この淵の、昏(くら)き底には主が宿る。
身の丈、我らの五倍はあろうかという大魚、ポロパロ。
今まで幾人の勇者が奴に戦い(ウコィキ)を挑んだか数知れぬ。
しかし誰もが知っている。
生きて帰った者は、一人もいない。
それでも。
それだからこそ。
我はこの場所に糸を垂らす。
彼奴(きゃつ)と戦い、勝つために。
皆との戦いに勝つために。
そして何より、我自身に克つために・・・
狩りと釣りは男の仕事だ。
父や祖父の代からそうだったし、さらにその祖父の頃もそうだったという。
さらにさらに昔のことは知りようもないが、たぶん同じだろう。
それほど古いしきたりだ。
異論はない。まこと、狩りと釣りほど器量技倆を試されるものは、他にないであろう。
これこそ”男”の仕事だ。
故(ゆえ)に我は、ポロパロを釣り上げねはならぬ。
我が身に余る淵の主を陸に上げ、皆を瞠目させねばならぬ。認めさせねばならぬ。
我はマッカチ(小児)などにあらず。
一人前の”男”である、と。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・目障りな」
しきりに舞い落ちる紅葉のことだ。
和人(わじん)なれば”秋深し・・・”などと歌でも詠もう。
濁酒など片手にあらば風雅に感じよう。
が、今の我はそのような心持ではない。
命が、将来が、全てがかかっているのだ。
水面に挿す、ただ一本の糸に。
「む」
何かが、視界に入ってきた。
朱色の何物か。
ゆっくりと淵を横切る。
「また邪魔物か・・・・・・・・・・・・」
服地のようであるが、鮮やかに染め抜かれたそれは、綿にしては薄く絹にしては艶がない。
それに大きすぎる。
「はて・・・・・?」
竿を上げると、”それ”は上手い具合に釣針に掛かった。
ぱたぱたと雫を垂らしつつ、足元に引き寄せる。
「これは面妖な・・・・・」
見たことのない代物であった。
奇体な物が流れてきた川上に目を遣る。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・むう?」
「こ、こんにちは・・・・・」
そこに、居るはずのないモノが居た。
居るはずがなく、居てはならぬモノ。
巨大な体躯を備えた、我らと似て非なるイキモノ。
カムイ・モシリの道を知らず、入るも見るも願うも許されぬ哀れな存在。
・・・・・・・・・”人”。
「あの〜」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「それ、ボクの帽子なんだけど・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「えっと、えっと・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・ここ、どこ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「釣りどころではない、か」
「え?」
嘆息し、長い糸を手に収める。
「さて・・・・・如何にすべきや」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
やがて我は知る。
己が器量を試す道は、狩りと釣りだけではないと−
「1104S・・・・・1104S・・・・・・」
メモを右手に、ナップザックを左肩に。
ふかふかした床を歩く僕。
間接照明に照らされた通路は、ほの暗い。
踵が沈む臙脂(えんじ)色の絨毯。
シミ一つない壁。
しなやかな光沢をはなつレースのカーテン。
いかにも分厚そうな扉は磨きぬかれ、複雑な装飾で飾り立てられている。
ホテルの十一階は、高校生に不相応な高級感に満ちていた。
「何で僕がこんな所に・・・・」
バンケットルーム(宴会場)でみんなと夕食を済ませ、割り当ての部屋に戻ったら、荷物がなくなっていた。
かわりに置かれていたのが一枚のメモ。
事情により犬養良は部屋を変更
1104Sへ 荷物は移動済 |
かくして首をひねる同級生を後に残し、静まり返った廊下を歩く僕がいる。
「・・・・・・・・・・ここか」
”1104S”
渋みのある銀色の金属板に、たしかに部屋番号が刻まれていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ん〜・・・・
鍵を渡されてないってことは、もう開いてるんだよね・・・・?
重量感のある扉を前に、しばしためらう。
若干の疑念を残しつつ、扉をノック。
低い音がして、扉が想像以上に厚いことを悟る。
「聞こえなかったかな・・・・」
もう一度ノックしようと拳を上げた時、音もなく扉が開いた。
そして聞こえたのは・・・・・周囲の重厚さと対極に位置する軽〜い応答。
「はぁ〜い♪」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
音もなく開いた入り口の向こうには−
「待ってたわぁ、私のりょーちゃん☆」
フワフワのバスローブに身を包んだ、輝ける美女がいた。
「・・・・・美守さん」
「んふっ♪」
僕の保護者で、学校の先生でもある大上美守さん。
凄みすら感じさせる美貌に微笑をたたえて、僕を見つめている。
「やっと会えた・・・・」
豊かに盛り上がった胸に、細い両手を押し当てる美守さん。
お風呂上りらしいツヤツヤした肌から、ローションやコロンの入り混じった芳香が漂う。
「寂しかったわ・・・・りょーちゃんの顔を見られなくて」
絶世の美女がせつなそうに瞳をうるませる。
真っ白な胸の谷間が視界に入り、慌てて目を逸らした。
僕のとまどいを見て取った美守さんが、くすりと笑いを漏らす。
思わず頬が熱くなった。
どれほど見慣れていても、彼女はくらくらするほど魅惑的だった。
「寂しかったって・・・・・た、たった半日じゃないですか」
「恋する乙女に半日は長すぎるのよ・・・?」
九百歳のモノノケが”乙女”なんて言っちゃイケナイと思います。
反射的にそう考えたけど、もちろん口には出さない。
「お入りなさい。今日の事、いろいろ聞きたいし」
美守さんが扉を押さえたまま、室内への道を開ける。
「僕も聞きたいことがあるんですけど」
「そう?」
「はい」
どうして僕だけ部屋がここなのか、とか。
何で美守さんがここにいるのか、とか。
なぜバスローブ姿でくつろいでいるのか、とか。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ふと−
イヤ〜な予感がした。
「どうしたの? りょーちゃん」
「えっと・・・・」
今までの経験と勘が、警鐘を鳴らしている。
ちょっと待て。
部屋に入るな。
”危険だ”と。
「美守さん」
「なぁに?」
「まさか、変なこと考えてませんよね・・・?」
「あら、変なコトってどんな事かしら?」
「それは・・・・・」
「それは?」
えっと−
「うふふふふふ」
美守さんが目を細めて笑った。紅い唇から白い歯をのぞかせ、嫣然とした微笑をつくる。
言葉に詰まり、どきまぎする僕。
何年一緒に暮らしていても、この人の色気には勝てない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「どうしたの〜、りょーちゃん?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「りょーちゃんの考えた変なことって、どんなことかしら?」
「や、あ〜・・・その・・・・」
「うふふふ・・・・何なら・・・試して、みる?」
美守さんがローブの胸元に指をあてた。
すいと白魚のような指が落とされ、バスローブがくつろげられる。
当然、深い谷間と柔らかそうな胸のふくらみが−
「み、み、み、美守さんっ! ここ廊下ですよっ」
「大丈夫よ。りょーちゃんしかいないし、りょーちゃんにしか見せないもの♪」
優美なラインを惜しげもなく晒して、美守さんがウィンクした。
一気に赤面するのが自分でもわかった。耳鳴りがするほど顔が熱い。
「これが出迎えの挨拶とは・・・・・・・・
十歳(とをとせ)の間に、人界の慣らはしも大きに変わったものよの」
「「!!??」」
唐突に、僕の左肩でナップザックがしゃべった。
「ウタリを村に迎えし暁は、我らもそのようにせねばならぬか。いやはや、今から思いやられるぞ」
「いや、しなくていいから」
つか、絶対にしちゃだめです。
「ふむ。リョウの応対を見るに、いささか惜しい気もするが・・・」
「どこか惜しいのさっ?」
ナップザックから、くくく・・・と甲高い笑い声が漏れた。
「その初々しさが、だ。いと愛(め)ずらしき様ぞ、ウタリよ」
「からかわないでよーっ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・りょーちゃん、誰と話してるの?」
「あ」
いけない。美守さんにはイヨ君のこと、まだ教えてなかった。
肩にかけたナップザックを前に回そうとする。
そこで勝手にジッパーが開いた。
尖ったイナウ(神錫)がきらめき、文様の織り込まれた被り物がぬっと出てくる。
「我はリョウのウタリ(同胞)にして北の方に座する者、イヨイタクトゥイェだ。
美守といったか、狼殿? 以後、懇意に願うぞ」
カンガルーの子供が母親の腹袋から外を見るように、ナップザックの中から挨拶するイヨ君。
いつの間にか、美守さんの顔から微笑が消えていた。
「えと、僕の古い友達の、イヨ君です」
「リョウの”家族”であることは存じておる。特にサポと呼ぶことをさし許そう」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・りょーちゃん」
「はひ!?」
一瞬だけ。
一瞬だけど、美守さんの瞳に狼の本性が覗けた。
「・・・・話を聞かせてもらうわよ。お入りなさい」
「う、うん」
美守さんはバスローブを直すと、僕らを部屋に招いた。
その顔に、さっきまでの艶やかな雰囲気は微塵もなくて・・・
「うむ、なかなかの女性(にょしょう)であるな。あの精気の強さ、見事である」
「イヨ君、度胸あるね・・・・」
人間にそんな余裕はないんだけど。
「我はコタン(村)一番の狩人、イヨイタクトゥイェぞ。怒気や殺気の一つや二つ、何ほどのものか」
「頼もしいよ・・・・」
「うむ。安んじて我に任せるがよい」
そうして、僕らは美守さんの待つ部屋に入り−
五分後。
第二回 暴露大会が始まった(泣)