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 戦争は、悪事である。


 それは暴行、殺害、略奪、破壊を怪しげな論理のもとに正当化し、営々として築き上げた万民の努力を無に帰す。

 農民は働き手を連れ去られ、田畑は汚され、村落は食料を強奪され、女は貞操を奪われ、皆が涙にくれる。不運にも行軍進路に当たってしまった村々は、兵と駄獣が垂れ流した糞便の悪臭に悩まされる(兵士たちがわざわざ公衆便所を利用するものか?)。


 しかし戦争は、重要な事業でもある。特に都市にとって。


 戦争は大量の人的物的資材を消費(浪費)する。貧民は戦場で食事を得、都市住民は商店と工房で仕事を得る。あらゆる品物の売価が跳ね上がり、商人と工房主の懐を潤す。流通が活発化し、市場は好景気に沸く。


 そしてまた、戦争は必要な政務でもある。為政者にとって。


 古今東西、社会にはあぶれ者が存在する。時代の常識、倫理にとらわれず、社会を騒がし風紀を乱す連中は、必ずいる。彼らは怠惰で、貪欲で、不幸である。勤労を厭うがために農事に適さず、幼少から修業を怠ったがために、工房も雇わない。対人関係を築くのも苦手で、商売人にもなれぬ。

 そのような輩は、ある程度まで地域社会も許容するが、やはり限度がある。そして忍耐の限界を超えた社会は、あぶれ者を放逐する。

 彼はどこへ行くのだろうか?

 選択肢は、主に二つ。犯罪者になるか、兵卒になるか、だ。

 国民の国家は、国土防衛を担う兵士たちを愛国の勇士とした。しかし王者の国家にとって、兵士は勇者でも英雄でもない。国王の軍隊は失業対策であり、治安対策だ。これは兵士の力によって社会の秩序を保つものではない。庶民から巻き上げた税によって、兵隊の鎧を着たあぶれ者をおとなしくさせているのである。ケベキは言っている。”野盗に兵隊どもをけしかけて共食いさせよ”と。

 もちろんいかに大きな国家とて、あぶれ者を雇うに限度がある。”サラスの子は長生き”(憎まれっ子世に憚る)と言うが、放っておくとあぶれ者はいつまでも軍隊に居座る。そして彼の後継者は後から後から生まれ出でる。これでは国がもたない。


 そこで事業としての、政策としての侵略戦争が必要になるのである。


 為政者にとって戦争、特に侵略戦争は有益だ。都市の景気が良くなり税収が増える。あぶれ者が国内からいなくなり、善男善女が生きやすくなる。さらに軍隊は国外で物資を調達するため、金庫の負担が軽くなる。勝てば略奪品が王宮に奉献され、王の財産になる。負けたって社会のハミデ者がいくらか死ぬくらいで、ちっとも損失にならない。

 有名なサカドの書に、次のような言葉が記されている。


『戦争とは他国の飯を喰らうことだ』


 戦争は、国家の必要悪なのである。





 テッカン将軍も、必要悪の一部であった。

 しかし彼は目立ちすぎた。

 テッカン将軍は粗暴なきかん坊だが、戦えば必ず勝ち、部下に気前が良く人気があり、底知れぬ胆力と活力の持ち主でもある。

 ではあるが、為政者からみれば、ちっとも嬉しくない存在だった。

 必勝とは近隣諸国に恨まれることであり、部下に気前が良いとは略奪品を王宮に納めないことであり、底知れない活力は王権でも手綱を効かせられないことだからだ。


 ダサイン・カーネ王、御歳45歳。すでに13年、王国を良く保ち続けてきた。

 めまぐるしく変化する内外の情勢において、この人物が王権を守ってこられたのは、もちろん本人の資質による。

 年少から亡き父王に従い、政務の表裏を知悉した。そして短気に流されぬ理性を持ち、万人を腹に納める度量がある。この賢王あってこそ、カーネ王国は10年を超える平静を享受できたと言えよう。


 また、王には権力のために悪事を厭わぬ覚悟があった。




 だからテッカンは、祝勝記念会で毒杯を賜ったのである。













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