前へ 次へ
Top 目次













 原体験、というものがある。


 ある人が生きてきた中で、最も強く心に焼きついた経験。


 それはある人にとって夏休みの虫取りかもしれないし、母の胸にすがりついた記憶かもしれない。住家の火災がトラウマのような原体験となっている者もいれば、犬に噛まれたことが原体験となっている者もいるかもしれない。


 ある薬師の原体験は・・・・葬儀だった。


 彼の家族ではない。赤の他人だ。


 しかし彼にとって、その葬儀は特別だった。


 弟子としても人としても未熟だったあの頃。


 日々の暮らしに霞んでいく様々な過去の情景の中、そこだけは鮮やかな色彩を留めている。

















 働くことが生きること、という男だった。

 長いあいだ働き続け、六人の子供を育て上げた。

 その労苦に満ちた人生の果て、男が得たものが、死の病。

 子供らはあちこちの病院を訪ね回ったが、快癒の見込みなしとして、どこも治療を断られた。

 数十を超える病院から見放されたあげく、子供の一人が迷い込むように師の店にやってきたのが、始まりだった。

 死の病である。他の医者と同様に、師も最初から「助かる見込みはない」と言った。違ったのは、それでも施薬を引き受けたことだ。


「病人が助けを求めるなら、応えるのが薬師の道だ」


 首を傾げる周囲に、師はそう告げた。

 とはいっても、最先端の医療技術を誇る大病院が匙を投げた患者なのだ。もとより助かる法はない。通常の医療なら、痛み止めを用いた苦痛の緩和を第一とするだろう。

 しかし彼の師が取ったのは正反対の道、つまり真っ向から病と激突することだった。

 諸肌脱ぎになって患者と相対し、五感の全てを用いて全身を観察し、知識を総動員して処方を調合する。患者専用の薬を一から作り出し、経過を確かめ、調合を変え、最も効果的と思われる処方を探求する・・・・

 おそらく人体実験と同様の行為であったろう。患者の家族にも、疑念を唱える真っ当な神経の持ち主はいた。だが患者本人が、強い意志で投薬の続行を求めた。




 投薬を始めて一週間。痛み止めの服用をやめた患者は、激痛のあまりショック死しかけた。




 投薬を始めて二週間。苦痛で食事が喉を通らず、患者は明白な栄養失調の症状を示した。




 三週間目で、患者は文字通りの骨と皮となった。





 四週間が過ぎた頃。

 患者の胃が重湯(おもゆ)以外の栄養を受け付けるようになった。




 二ヶ月。患者の肌につやが戻り始める。




 三ヶ月。自力で食事を噛めるようになった。




 五ヶ月。腕を上げ、匙を使い、食事できるようになった。




 八ヶ月。補助具の力を借りて、寝台から出られるようになった。




 十ヶ月。庭で陽光を浴びていたところを知り合いに見られ、「危篤じゃなかったの!」と驚かせた。




 十二ヶ月。

 遠来の友と十年ぶりの親交を温める。わずかながらも酒を酌み交わし、声を上げて笑い、上機嫌で送り出す。




 十二ヶ月と十日。

 数十年間そうだったように、家族に笑顔でおやすみの挨拶をし、就寝。




 十二ヶ月と十一日目。

 医師により死亡を確認される。



 病院の宣告した余命より、十ヶ月以上も長く生きていた。












 その葬儀が、薬師の原体験であった。


 六人の子供と九人の孫(そして二人の妻の遺影)に囲まれての、ささやかだが心のこもった葬儀。焼香に並ぶ長い列と、心底からの嘆きの言葉に、故人の遺徳が偲ばれる。

 長い時間待たされ、ようやく彼の師が焼香に立った時だ。

 遺族が雪崩をうって薬師を取り囲んだ。

 口々に感謝の言葉を述べ、土下座せんばかりの息子や娘。

 師は彼らへ静かに、しかし重々しく告げた。


「感謝するのは私だ。


 一介の薬売りをこれほどに、命を賭けてまで信頼してくれた患者が他にあろうか。


 諸君の亡き父上と共にあった時間は、我が生涯の誇りである」 


 その時、テッカンは確かに見た。


 老人の遺骸に向けられた瞳にきらめく光。深い皺に滲んだ雫を。








 以下はずっと後のことになる。

 数年の修養を経たテッカンは、師が老人に施した処方を、改めて見せてもらった。

 そして驚愕した。

 師が数週間がかりで、夜の目も見ずに調合した秘薬の正体に。

 その処方がもたらした効果と正反対の、原価のあまりの安さに。

 聞けば故人の子供たちは、多数の病院の紹介料や診察料、痛み止めの薬代に、かなりの金額を費やしていたという。

 呆然とする弟子に、師は過日を懐かしむように目を細めて言ったものだ。


「死期の迫った男から、あんな懸命に『いちばん安い薬を! いちばん安い薬を!』と訴えられてはなあ。

 応えなければなるまいが?」


 その時に師が浮かべた、滋味溢れる微苦笑もまた、テッカンの心に深く刻み込まれている。
















「苓桂甘棗湯」


「プラサン6 チャフー1 ディア2、あとバラヒーが4、です」


「苓桂ジュツ甘湯」


「プラサン6 チャフー4 ディア2・・・・あと、あと・・・あ、あー」


 匙に汁を溜めたまま、小妖種の子供が口をへの字に結んだ。

 にっくき仇が隠れているかの如く、細い梁がむき出しの天井を睨む。


「アラマ・・・じゃなくてアハナーが3!」


「よし」


 回答と唾が同時に飛び出たが、薬師は何事もなかったように顔を拭った。


「どちらも心(しん)に関わる処方だ。 まして苓桂甘棗湯は子供に処方することもある。取り違えは許されないぞ」


「はい、ししょー」


 真面目な顔で頷いた弟子だが、匙から汁が垂れて机を汚したため、今ひとつ締まらない会話となった。小妖種が細い腕で慌てて机を拭く。

 その仕草を見て、薬師がかすかな微苦笑を浮かべた。

 誰にもわからなかったが、その笑みは、彼の師にとてもよく似ていた。













前へ 次へ
Top 目次