製本という概念がなかった頃・・・・つまりテッカンが生きている時代。
およそ書き物は”書巻”と呼ばれた通り、皮紙をくるくると巻いて保管したものだった。
見ればわかるが、これは置き場所に困り、整理も面倒だ。目次も索引もない。それ以前に背表紙がないから、手に取らなければ何が書いてあるかわからない。厄介なシロモノだったのである。
救いは日常生活に不要だったことか。書巻は宝飾品や蒸留酒と同等の贅沢(ぜいたく)品と見なされていた。
一部の国で図書館が重要な公共施設に位置づけられていたのも、書巻が高価だったためだ。
そんな貴重品のはずの書巻が、石畳に無造作に積み上げられている。
まさに、道楽者ここにあり、という光景だ。
「して、どうなのじゃ? その他所者ら、何ぞしでかしおったか」
書巻の山の谷間から、鈴が鳴るような声が上がった。
大きすぎる椅子に、しがみつくように腰掛けた、黒い少女。
側に控えた女が、わずかに首を振る。
「今のところは」
「ふん、騒ぎでも起こせば楽しめようものを」
「トゥーラ様」
冷たさを含んだ呼びかけで、女代官が暗に諫言する。騒動を望むなど、仮にも領主の言うことではない。
小さな領主はひらひらと掌を振った。
「冗談じゃ。しかし珍妙な踊りとやら、妾も見てみたいの」
「ご随意に。彼の者ども、日の出から朝餉(あさげ)まで舞っております」
したり顔で言い放つ部下を、口をへの字にしてトゥーラが睨んだ。低血圧の少女が早起きできないと知ったうえで、言っているのだ。
「検疫が終われば呼び寄せてもよかろ?」
「賛成いたしかねます。いかにも怪しい連中を領主の館に上げるなど・・・ハフマン・デー様もお喜びにはなりますまい」
「また父祖の名か。聞き飽きたぞ、ヤナ」
トゥーラは鼻頭に皺を寄せるが、女代官はいつもの無表情で聞き流した。
「聞き覚えのない籍の男にコソ泥の小妖種、それに籍もない女。いずれ脛(すね)に傷持つ身。無礼の振る舞いがあっては、トゥーラ様にもご迷惑が」
じっと正面から、ヤナが上司へ視線を向ける。
そのまま、二呼吸ほど停止する二人。
トゥーラは肘掛けに体重を預けた。忌々しげに首を振る。
「つまらんの」
「それが寒季です」
「話を逸らすでない。我は奇人どもを見物したいと云うたのじゃ」
「ならば、それが祖王の名を負う高貴の姫君の心掛けです、と言い直しましょう」
「ますます、つまらん」
少女が黄昏をまとった腕を振る。皮紙の山から、八つ当たりされた巻物が転がり落ちた。
「天地は限りなく広大であるのに、妾はただ血のために、山間に埋もれつましく生きねばならんのか」
幾度となく繰り返された愚痴が、薄桃色の唇から零れる。
トゥーラは黄昏の染みついた手に目を落とした。
「”これ”は厄介な賜り物よの」
ぽつりと呟く上司を、代官はかすかな憂いの色を浮かべて見つめた。
与えられた部署を死んでも守り抜け、とはヤナが小さな頃から繰り返し教え込まれたことだ。それは、我が身を捨てて王家を守る守護戦士の心構え。
しかし目の前の少女にそんな理屈は通用しない。
トゥーラの体を流れる血は、祖国を守り抜いた英雄のものだけではない。艱難辛苦を乗り越えて世界を渡った放浪民の血も、半分は含んでいるのだ。
その半分が、小さな領主の心を騒がせるのだろう。
「人それぞれ、背負うべきものがあります。私には社稷(しゃしょく)を守る務め。トゥーラ様は−」
「わかっておる。だがのう、ヤナ。我が血を伝えたいと思うものが居ると思うか?」
闇に沈みそうな暗灰色の顔が、新雪の鮮烈さを保つ白皙の美貌に向けられた。
黄銅の視線が揺らぐことなく、部下に注がれる。
「もちろんです、としか」
二人とも、よく理解している。それが虚言であると。
仮にもトゥーラは一国の王女である。それも年頃の身なのだから、輿入れの申し込みが門前市を成していてもおかしくない。
だが現実は、森と雪に囲まれた暖炉の前で、無為の時間を過ごしている。
「顔も見ぬ輩へ嫁ぐなど不本意なれど、な」
「・・・・・・・・」
何しろ、噂が悪すぎた。
”男殺しの暗黒姫”・・・・トゥリチャラ(トゥーラ)殿下の悪名は、天下に轟いている。
事実はどうあれ、「千人切り」の異名を持つ花嫁など迎えては、外交上の利点など帳消しのうえ負債までかかりそうだ。
ちなみに「千人切り」とは、刃物で千人を斬り捨てたという意味ではない。念のため。
「はあ・・・妾もヤナのように嫁き後れてしまうかのう」
「わ、私は嫁き後れてなどおりません」
「ならば町に出て、同い年の女に尋ねてみよ。子供が何人いるかとな」
「うっ・・・・」
鼻白む部下を横目に、トゥーラは肘掛けに顎を乗せた。
すかさず目付役から注意が飛んでくるが、手を振っていなす。
「退屈じゃ」
ただ一言に、全てが凝縮されている。
これこそが、寒季なのである。