薪の弾ける音で、少女の目が開いた。
黄銅の瞳が印象的な、薄闇色の少女。
皮紙が丸まり、膝に落ちている。
どうやら居眠りしていたらしい。
はふ、と薄桃色の唇から欠伸が漏れた。”永遠(とわ)の国の恥辱”と蔑視され、敬遠されるトゥリチャラ王女も、欠伸は年齢相応の可愛らしさだった。
高貴な少女は軽く頭を振り、丸まった書巻を摘み上げる。ざっと斜め読みし、傍らに積まれた皮紙の山の上に放り投げた。
「ハズレじゃな。世間の評判など、とんと当てにならぬ」
王都で大流行している詩文と聞き、伝手を頼ってわざわざ取り寄せたのだが・・・少女の心には響かなかったようだ。
この場合の詩とは、つまり恋文の見本である。
結婚は依然として親同士の話し合いで決まるが、都市部では文化としての恋愛(ごっこ)が、その萌芽を見せ始めていた。
あるいはこれこそが、混沌の時代の終焉を知らせるものだったかもしれない。どんな世界でも、戦乱の中で流行る詩歌は武勲詩と決まってる。
残念ながら夕闇を身にまとった少女は、この潮流から取り残されていた。
やんごとなき身分の淑女ともなれば恋歌の十や二十は諳(そら)んじるものだが、いかんせん彼女は立場が特殊すぎた。
元より一国の王女として生をうけた身ではある。しかし己が咎なくして蔑まれ、年中絶え間なく中傷を耳に注ぎ込まれれば、どれほど真っ直ぐな精神でも歪んでしまう。
そして故なしとは言えないものの、辺境の寒村に押し込まれた身。
恋だの愛だのにうつつを抜かせる心境に、なりはしないのである。
「誰ぞある。湯をもて」
少女は薄闇の染みこんだ掌を打ち合わせた。鈴のような声を扉に向ける。
しばらく、部屋に静寂が降りる。
黄銅の光を秘めた瞳がすっと細まった。
おもむろに細い腕が書巻の山へと伸びる。
マドヤシュク王のご息女たるトゥリチャラ殿下は、丸まった皮紙を固く巻き締めると、厚い扉へ勢いよく投げつけた。
やがて慌ただしい足音が近づいてくる。
「しっ、失礼しますだ。失礼しましただ、ご領主さま」
扉を叩くのもそこそこに、当番の村娘が顔を見せて頭を下げる。
王女は、何度もお辞儀する気弱そうな娘に、鋭い眼差しを注いだ。
「何事か、ヒルテ。外に出ておったじゃろう」
「へ、へい、ご領主さま。実は」
緊張で頬を引きつらせた娘は、村で煙が立っていると告げた。
「火事か」
肘掛けに乗りかかっていた少女が、ぴっと背筋を伸ばす。
混凝土と鉄材の普及した現代でも火事は恐ろしい。ましてや木造家屋ばかりの当時、火災はおおごとであった。万が一にも出火したら、対処は寸刻を争う。
しかし娘は集落の方向にちらと目を向けたものの、気弱げに首を振った。
「それが白い煙で。でもみんな騒いでるし・・・それで気になりましただ」
「ふん」
薄闇の少女は、肩の力を抜いた。火災なら黒煙と相場が決まっている。
「よい、ヒルテ。様子を見てまいれ」
「は、はぅい〜」
「荒事ならば近づくでないぞ。ヤナがおれば、手空きを見て話を聞いてこよ」
何事であれ、騒ぎがあれば彼女の代官がその場にいるはずだ。
「あい、わかりましただ」
ひらひらと手を振る小さな領主に、村娘は頭を下げた。
音を立てて扉が閉まる。厚い扉を通しても、ドタドタした足音が遠ざかるのがわかった。
「ガラブの女はまこと、使用人の仕事に向かぬのう」
とはいえ、辺地の村である。いまさら躾がどうのと言っても始まらない。
王女がわずかに肩をすくめると、銀糸の髪が揺れた。
この時代、たいていの村には共有の離れ小屋がある。
使う者はさまざまだ。テッカンたちのように他所者を隔離したり、悪さした村人を閉じ込めたり、地域によっては月経がきた女性を住まわせたり(生理を月の穢れなどと呼んだのはそういう連中だ)。
基本的にはよろしくない理由で多目的に用いられた。山岳部では洞穴で代用することも多い。
最低限の生活用具は揃っているが、基本的には風雨を避けて寝るためだけの掘っ立て小屋である。領主の館のように柵で囲まれているが、意味は正反対。中の者に「この外にゃ出ちゃなんねえ」と教える境界線だった。
ガラブの村に備えられた離れ小屋も、丸太を組み合わせた柵で囲まれている。
日頃は人が近寄らないその建物に、村人が鈴なりになっていた。
「あいつら、何モンじゃ?」
「山向こうの薬屋だと」
「何しとるだぁよ」
「ワイが知るか」
「はぁ、ケッタイな組み合わせだの」
「んだ。コソ泥つきの薬売りだぁ」
男も女も頬を火照らせ、厳しい寒さを忘れたようにわいわいとしゃべくっている。
彼らが視線を注ぐのは、異国の薬売りだった。
年齢の分りにくい男と細身の女、そして悪名高い小妖種。
肌に刺さる冷気のただ中、三人は汗を滴らせて体を動かしていた。
「いいか、一つ残らずだ。どんな小物も見逃すな」
「わかってるよ」
「はい、ししょー」
雪を掘り起こして、横長に焚かれた火。大中小三つの鉄鍋が、並んでかかっていた。鍋はぐらぐらと沸き返り、もうもうと湯煙を上げる。
薬売りを名乗る者達は、掘っ立て小屋の備品を持ち出しては、鍋に放り込んでいた。
包丁、汁椀、裁縫針に鍋つかみなどの小物から、掛け布や敷き毛布、薬缶までも、煮え立つ熱湯にざぶざぶと浸ける。
湯が減るとそこらの雪を拾っては入れ、また同じ事を繰り返す。
煮られた生活用品は、男が火箸で摘み上げ、物干し台にぶら下げていた。
あちこちから湯煙が上がり、汗だくの薬売りたちも湯気を立てている。見ているだけで、こっちまで汗が浮かびそうな光景だ。
「お代官さま。ありゃあ、ナニしとるですだ」
「清祓(せいばつ)、と言っていた」
「・・・・はぁ?」
不安げに体を揺する村人と対照的な、落ち着いた女の武人。代官ヤナは腰に手を当て、三人の動きを見つめていた。
視線を他所者からそらさず、口だけを動かす。
「神聖な薬を調合する前に、建物から邪気を追い払う儀式、だそうだ」
「ははぁ〜・・・・それで毛布なんぞ煮るだか?」
「私に訊くな」
ヤナはわずかに顎を引いた。険しい眼差しは、飽きることなく三人に注がれている。
戸口から、小妖種が顔だけ出した。
「ししょー、寝藁(ねわら)も煮るの?」
「そんなもの、火にくべてしまえ」
事も無げに言い捨てた男へ、若い女がかみついた。
「ああ? 硬い床で寝るのかよぅ」
「今さらだな。それに血吹虫(ベン)に刺されて、嫌な思いをするのはお前だぞ」
「・・・・・・・」
ベンというのは蚤(のみ)虱(しらみ)のたぐいである。
むっとした女を見捨てて、男は振り返った。
「待て、タジー。寝藁は私が扱おう。お前には大きすぎる」
「はぁ〜い」
小妖種を追って、男が小屋に入っていく。
・・・・・この当時、熱湯消毒という言葉は存在しなかった。
もっと言えば「消毒」という概念がなかった。
まず病気は、天神の罰か魔神の呪いと考えられていた。薬は痛みを和らげるか、呪いを消すもの。身体の不調を整えるという役割は、ほとんど期待されていなかった。
もちろん細菌の存在など知られていようはずもない。伝染病の詳細が明らかとなるには、数百年後の医師ホッフロー・クゥから始まる「発見の世紀」まで待たねばならない。
薬師テッカンは、時代を数百年さかのぼって高温殺菌を実行していたわけである。
「くせ者が来たな・・・・」
「は? お代官さま、いま何と?」
「いや、何でもない」
首を傾げる村の男を置いて、ヤナは口元を引き締めた。
初対面から感じ続ける違和感が肚の底に溜まり、不愉快さとなって胸の内を刺激している。
長い寒季になりそうだ、と女代官はひとり憂鬱になるのだった。