当時は不可能であったが、仮に山南一帯を鳥瞰(ちょうかん)したとしよう。
寒季のさ中だ。広大な樹海は氷雪を浴びて、塩を撒いたごとく白斑ができているだろう。それは皺の寄った絨緞(じゅうたん)に似て、あちこちで細かく盛り上がり、また窪んでいる。
その深緑の絨緞を下から引き裂く、不気味な鋸歯がある。巨大なギザギザは、いかなる豪雨暴風にも揺らぐことなく天を指す。旧帝国期にハドノーレと呼ばれ、今なお公式にはハディオスと呼ばれる山脈。
すなわちチャンデルナゴルである。
ハディオスと、チャンデルナゴル。
明らかに異なる言語体系から出でた二つの呼称。
それはこの地が、二つの文明の衝突し、混交する舞台であった証拠だ。
いやさ過去形にあらず。かつての大混乱が過ぎ去ったとはいえ、未だ山南は文明の狭間できしみ声を上げている。
人はある神を受け入れるも別の儀式を拒絶し、また他人に旧来の伝統を押しつけ、あるいは新たな流行に親しむ。人類社会は分裂して右往左往し、個々人はさらに分かれて右顧左眄(うこさべん)し、行き着く所を知らない。
赤々と燃え立つ松明(たいまつ)の熱気に、降りかかる粉雪が弾けた。
灯明を持つ手はしかし、ぶ厚い手袋をしてなお震えている。地面は足踏みする革靴にすっかり踏み固められ、極点の万年氷さながらの凍てつきぶりだ。
十人ほどいるだろうか。男達は防寒用の顔覆いからギョロつく目玉をのぞかせ、苛立たしげに体を揺すり、絶え間なく悪態を吐いている。各々の手には松明のほか、曲がった鍬に粗末な鎌など。
曇天とはいえ真っ昼間だ。松明を必要とする時間ではない。もちろん農具を使う時期でもない。
奥深い樹林の下、ささやかな集落を背にした、落ち着きのない集団。
その中に、取り分け目立つ者が一人いる。
冷気と寒風のただ中、集団の先頭に立つ、その者だけが身じろぎもしない。道の真ん中に立っていなければ、案山子(かかし)と見違えそうなほど。
人は様々な挙動によって存在を主張するが、その人物は動かないことにより、強烈な自己主張を行っていた。
「ヤナ、そなたは寒くないのか」
ウワハイの鈴が鳴るような声が尋ねた。
全身に毛布を巻きつけたトゥーラが、小さな体を震わせている。目元を除く全てが外気から遮断された姿は、声を聞かなければ少女とわからないだろう。
それでも、きょろきょろと動き、不機嫌そうに瞬く黄銅色の瞳が、彼女の感じる強烈な寒さを訴えていた。
話しかけられた女代官は、ひんやりした態度で応じた。
「トウーラ様には、どうかご無理なさらずに。今日はいちだんと冷えております」
「うっ・・・だ、ただ誰も帰るとは言うておらぬぞ」
「それは失礼しました」
上司へ短く謝罪の言葉を唱えたものの、ヤナの目線は揺るぎもしない。薄闇に消えていく細い道を、じっと見据えたままだ。
背後からは「本当に見たのか」「酔っぱらってヒトと岳獣(ケダラ)の群れを勘違いしたんじゃないか」と、災いの種を蒔いた男を疑う声が切れない。
「連中の考えも尤もよのう。皆で確かめたというわけでなし」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
小さな領主が肩を揺らす。
と、重い風音が頭上を駆け抜けた。あたりの木々が嫌な音を上げてしなる。
どっ、と。枝に乗っていた雪と樹氷が、霙(みぞれ)となって全員に降り注いだ。
ヤナ以外の全員が悲鳴を上げる。
「こっ、これはたまらぬ・・・!」
被った氷雪を慌てて払い、少女が呻く。
「のう、ヤナ。ここは一人か二人の見張りを立て、他は家で待つべきではないか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ヤナ」
答えを返さない部下に、些か焦れた様子で領主が問いかける。
「・・・・・・・来ました」
またも上司の言葉を無視して、ヤナは呟いた。
外套の内に納めていた両腕が上がり、雪が張り付いた頭巾を背に弾き飛ばす。
灰色の空の下、怜悧な美貌と艶のある黒髪が露わになった。人工物を疑わせるほど整った顔だが、頬に浮かぶ薄紅色が、わずかな人間味を与えている。
実戦用の細剣が揺れ、これまた実用一点張りの革鎧と擦れて、耳障りな音を立てた。
若い女性を前面に押し立てた村男たちが、一斉に口を閉ざす。
じっとりした沈黙が漂う村外れの細道。
しばらくすると、森の闇の中から滲み出るように、人影が沸いた。
大中小の三つの影。そして荷物を満載した駄獣。
深々と被った頭巾は厚く雪を被り、足元しか見えてなさそうだ。
三人は這うよりも遅く、危なげに左右に振れながら歩いてくる。
「三人か」
「見る限りでは。・・・・・トゥーラ様」
「ふん」
小さな領主は鼻を鳴らして引き下がった。
上司が太い幹の影に身を置くのを横目で確認し、ヤナはくっと息を呑んだ。
「それぞれ片腕以上の距離で離れよ。私の後ろに立つな」
肌を苛む寒気に乗って、ぴりっとした声が発せられた。着ぶくれした男たちがのろのろと、足元を確かめながら散開する。
ヤナは接近してくる人影を見据えたまま、腰に提げた短弓を取った。するりと矢をつがえる。やがて相手が短弓の射程に入りきったところで、彼女は喉を震わせた。
「そこの者たち、止まれ!」
木々の間を、凛とした命令が突き抜ける。
駄獣を引き連れた三つの外套が立ちすくんだ。
「私はガラブの差配を司る代官だ!
この先は、英雄ハフマン・デーの血を引かれし高貴なるトゥリチャラ殿下の御領地なるぞ!
汝らこの地に入りたくば、名と身分を明らかにし、斯様(かよう)な時節に越境した目的を申し立てよ!」
定型になっている問い掛けが、曇天の下、朗々と告げられる。
突然に誰何(すいか)された三人が、顔を見合わせた。
村男の誰かが唾を呑んだ。喉を動かしただけなのに、やけに大きな音に感じられる。それだけ緊張し、感覚が鋭くなっているのだ。
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」
なにやら囁き合う三つの外套。
ヤナはおもむろに弓を引き絞ると、つと天へ向けて放った。矢の行方を確かめることもなく、速やかに次弾を引き抜いて構える。流れるような動作は、日頃の修練のたまものだ。
短弓に合わせて削り出された小振りの矢が、灰色の空に消える。
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・っ!?」
三人は話し途中に慌てて退いた。足元の雪がいきなり舞い上がったからだ。
弾け飛んだ白雪の渦の中心に、垂直に突き立つ矢があった。
「顔を見せ、我が問いに答えよ! それとも言葉がわからぬか?」
「・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
もそりと、最も背の高い者が外套を動かした。毛糸の手袋が頭にかかり、深く被っていた頭巾を取る。
黒々とした蓬髪が外気に晒され、その下には白っぽい男の顔が−
「っ!!」
「ヤナ!」
「わ、わたしらは・・・・」
名乗りを上げようとした男の胸元に、矢が吸い込まれていった。