頭巾や肩に、うっすらと白いものが見えた。
睫毛(まつげ)にかかった結晶は型崩れを起こしていて、曇天から舞い降りた雪でないことがわかる。
木立の上を、タンダ(冬神の使者)風が駆け抜けた。針葉樹の天辺が、おののくようにガサガサと鳴る。
「おそらく、ここで決まりだ」
中年未満の男が荷物にかかった薄雪を払った。
「片付けだ。山を下りるぞ」
「はい、ししょー」
「あいよ」
あまり役に立たない木陰に隠れていた女と子供は、揃って待ちかねていたようで、勢いよく立ち上がった。寒気を振り切るようにテキパキと、自分の仕事にとりかかる。我関せずとうずくまる駄獣には、男が強く短い気合をかけた。
「しっかし、どうすんのさ、テッカン」
「さて・・・・」
女が熾火(おきび)に土をかける。駄獣の背に雪除けの覆いをかける薬師は、手を止めた。
「・・・・そうだ、おととい峰を越えた時、西にいくつか炊煙が見えたろう。先ずはその辺に行くとしよう」
「アンタにゃ珍しく、行き当たりばったりじゃないか」
「ここまで引き回されたのが、そもそも想定外だ」
男は力をこめて綱紐を手繰り、ふっと短く息を吐いた。
巣篭もりの場所を求めて山を徘徊するウルルに付いて来たら、こんな奥地まで来てしまった。マラダの石碑を過ぎたから、国境も越えている。
そしてウルルは、昨日の昼にふらっと木立に紛れこんでそれっきり。
おそらく花季まで姿を現すことはない、というのがテッカンの判断だった。
「おかげで待っているうちに、珍しい薬種を集められたがな」
「ししょー。寒季の間に処方を教えてくださいね」
口を挟んだのは、小妖種の弟子だ。背負い袋を通した横紐を腰に巻き付け、荷物を揺すって荷崩れしないかを確かめている。
「いいとも。ちょうど、凍傷に効く薬の材料だったしな」
「やった!」
「よく聞け、タジー。薬名はとうきしぎゃくかごしゅゆしょうきょうとうだ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」
人の動きが止まった。駄獣だけが、愛嬌のある目をくりくりと動かす。
「ししょー・・・・もう一回」
「とうきしぎゃくかごしゅゆしょうきょうとう」
「長っ! 無駄に長っ!」
薬師の道と無縁の女が、率直な反応を示す。
「薬師なら、この程度の名前で長いなどと言わん」
そうだろう? と、師匠が弟子の顔を見つめた。
「頑張って覚えたら、次は、けいしきょしゃくやくかしょくしつりゅうこつぼれいきゅうぎゃくとうを教えてやるぞ」
幼さの残る弟子は、無言で、ぱくぱくと口を動かす。
しばらく固まっていたが、やがて師匠の目を見て、からかわれたと悟ったらしい。
「し、ししょーはイジワルだーっ!」
小妖種がちんまりした体を震わせ、顔を真っ赤にして声を張り上げる。
テッカンは暖かみのある笑い声で応じると、弟子の柔らかな髪に掌を当てた。
「意欲があるのは褒むべきことだ。仕事の邪魔にならない限り、尋ねることをためらうな」
「う〜・・・・う、ウン・・・・」
頬に朱を残したまま、肩を縮める弟子が頷く。
「ただし、二度同じことを訊いたら拳骨(ゲンコツ)だ」
弟子を撫でていた手を固く握り、その顔に突き出す。タジーは弾かれたように飛び下がった。
何にでも真剣な師匠は、叱るときも手加減しないのだ。
タジーが口元をへの字に曲げ、首をすくめる。テッカンは握っていた拳を弛(ゆる)めた。
「準備が整い次第、出発する。細かい物の置き忘れがないようにな」
「はっ、はい〜」
「いつでもいいさね」
返事を背に受けて、薬師は森を見渡した。
この緑の海のどこかで、旅の仲間が眠っている。花季(春)の兆しを待ち焦がれながら。
牙獣が冬眠することは昔から語り継がれてきたが、実際にどんな場所でどのように眠っているかは、誰も知らない。
かつて調べようとした勇気ある者たちもいたが、決まって戻ってこなかった。
当然だろう。何十日も飲まず食わずで空きっ腹を抱える野獣の眼前に、ほかほかの生肉が進み出るのだ。そんな事は調査でも研究でもなく、ただの自殺行為である。
「テッカン」
「ししょー、準備できた」
「・・・・・・・・わかった」
毛むくじゃらの旅仲間に、心の内で一時の別れを告げ、男は駄獣の綱を引いた。
「ねえ、ししょー」
「何だ」
「ボク、こっちら辺て来た事ないけど、山向こうと違うの?」
「そうだな。国が違えば言葉も少し違うし、法も違う」
「ふ〜ん・・・・異国なんだあ」
「すぐ慣れる程度の違いだ。あまり緊張することはない」
「はーい・・・」
「あぁ、なんつったっけ、ここ。荷車の国(マタナシュク)・・・・いや、陰の国(マドエシュク)だっけ?」
「二つとも違うぞ、アイ。マドヤシュク(永き国)、だ」