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 ヒウルーンの高峰を越えた風は、水分が少ない。

 都人(みやこびと)には嫌な季節である。彼らは長い外套で強風から身を守り、油を塗った唇から「花季(春)はまだか」と泣き言を零す。

 農村ではこの乾いた南風を利用して、伝統の干物作りに精を出す。村人は、鼻を曲げるような悪臭を放ちながら、農作物を物干し台にどんどんぶら下げて行く。
 臭いの元は、肌荒れ予防で体中に塗りたくった毛獣の獣脂だ。料理などに使えなくなった、腐りかけの獣脂を使うからである。この「悪臭行事」は、行商人を寒季のカーネから遠ざける一因となっている。


 そのカーネは、前代未聞の災厄に揺れていた。




 




 この時代、治安組織というものは存在しなかった。正確には「治安(ウタラウ)」と云う言葉自体がなかった。その発音は、明らかにストロギ語族のものである。

 では、どうやって社会秩序を維持していたかというと、「自分(達)の身は自分(達)で守る」、という事に尽きる。

 王侯貴族は私兵を飼って身体財産を守らせ、都市は互助団体や自警団が見回りをして犯罪を防いだ。村は身を守る術を持たなかったため、常に大小の盗賊の脅威に晒されていた。大規模な略奪への対抗手段として農機具を用いた集団戦闘法が考案され、これが後のストウ・パアリーの乱に代表される、為政者への強力な抵抗を生み出したことは、読者諸賢もご存知だろう。

 以前にも述べたが、国王が軍隊を養うのは、毒をもって毒を制するためだ。ミストルにおいては、ユンのような宗教政治を取りえなかったため、支配の正統性は強者の正義にのみ拠っていた。だから王者は常に最強でなければならず、強圧をもって国土を抑えた。犯罪者は町中を引き回され、広場に首を晒すなどの見せしめ刑を受け、犯罪者でなくとも晒し者となることが多々あった(ハイテーナの無宿者三百人を使った”羞恥の行進”はよく知られる)。

 ここで話を最初に戻すが、治安組織がない以上、支配階級にいるものは高度の自衛能力を備えていなければならない。「面子(めんつ)が立たない」行為には断固とした対応が求められた。周囲から甘く見られると、露骨に実権が弱体化するのだ。

 では、例えばどんな行いが忌むべきこととされたのかというと、まさにカーネで起こった事態。


 すなわち、支配階級に属する者の殺害である。












 最初は軍人階級の子女から始まった。


 出世頭と評判の青年将校に嫁入り間近の少女が、自宅から誘拐。翌日、無残な姿で発見される。口にするのもおぞましい行為を加えられた亡骸には、「テキイ・ケイ・ワキリワムツ(次はお前だ)」と汚い字で書かれた皮紙が縫い付けてあった。

 これを端緒に、軍属の子女だけを狙った誘拐殺人が二十件続く。被害者の遺体には全て、上記の文面が縫いとめてあった。

 ロヒ・カーヌ率いる軍務庁は、この連続犯罪に対応して戒厳令を発動。王都はもちろん郊外の住民まで総当りで犯人の捜査を推し進める。それこそ犯罪まがいの拉致監禁、拷問が行われたが、コソ泥以上の犯罪者は見つからず。

 さらに事態は悪化する。犯人の魔の手が、貴族階級にまで伸びたのである。コルの領主アイセンタルの次男(七歳)が、王都の邸宅から姿を消し、翌朝に城門へ吊るされているのを見つけられた。もちろん胸には「テキイ・ケイ・ワキリワムツ」。

 アイセンタルは、王の許可を得て城門の番人十八名を磔(はりつけ)にしたが、奪われた命が返ってくるはずもない。そして連続殺人も止まらない。貴族階級からの被害者も続出し、対岸の火事と傍観していた高貴の人々は、急に慌てだす。

 異常犯罪の皮を借りた政治謀略との見方もあったが、門閥と全く無関係に産み出される被害者たちを前に、陰謀説は力を失った。

 カーネ王は当初、「自分の身は自分で守れ」という原則に従って犯人追捕を関係者に任せていた。しかし王弟スオキエが娘を奪われるに至って、堪忍袋の緒を切らせる。

 最初の殺人から八十九日後、ダサイン・カーネ王は非常事態宣言に署名。

 その三日後、王太孫サタイエが消息を絶つ。十人を超える側仕えと護衛の中、瞬きする程度のわずかな空白を利用した、巧妙な誘拐だった。

 サタイエ王子(の遺体)は見つからなかった。ただ翌々日に、例の言葉を書き留めた皮紙が、王の私室に置かれていただけである。

 厳重を極める警備体制の下で、国王の部屋へどこからどうやって侵入したのか。誰にもわからなかった。

 もっとも、犯人の侵入を許した臣下に対する国王の怒声は、城外からでもわかったという。











 後日のことだが、ダサイン・カーネ王は天寿を全うした。

 謎の誘拐殺人事件は、国王の後継者を最後に終息し、二度と被害者を見出すことはなかった。

 だが非常事態宣言が解除されることはなく、臣民は長い間、窮屈な生活を強いられた。「テキイ・ケイ・ワキリワムツ」は民衆の間で流行したが、後に使用を禁じられた。現代においてもマクベン辺りの古老は、この言葉を禁忌としている。

 ダサイン王は常識の範疇を超えた警戒心を抱くようになった。寝台は毎夜三十人の守護戦士に守らせたが、それでも安眠にはほど遠く、マスタ鳥の鳴き声一つで飛び起きたという。

 少しでも王に疑われた者は、自身の予定よりかなり短縮された寿命を迎えることになった。誅殺された者の数は、上から下まで軽く千人を超す。その中には王妃と王弟、及びその子弟従者二百九十四人も含まれる。

 王城は亡者の宮廷に例えられるほど沈痛な静寂に満たされ、カーネ王都は冥府の都と歌われた。国力は衰退し、王権が弱体化して封土の反乱を招き、それが王の猜疑心をさらに増す負の螺旋。カーネの衰退は、まさにこの王から始まったというのが、後世の共通見解である。

 カーネ王ダサイン・ハウダル・カーニ・サーキーは、二十二年のあいだ国土を保ち、死ぬ。

 五十五歳の誕生日を目前にして国王が崩御した時、国中が歓喜の声に沸いたと、コブドの年代記が伝えている。














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