彼方から、笛を吹くような鳴き声が届いた。
それは若干の震えを帯びて長々と続き、じんわりと余韻を残して消える。
凛とした女が曇天に顔を向けた。
「セープ鳥の求愛か?」
「だね」
小妖種の子供が短く答える。
「この陽気で盛るなんざ、鳥にも変わりモンがいるんだねえ」
女は唇の端をわずかに上げ、硬い幹に背を預けた。
鳥も獣も、恋を歌うのは花季と相場が決まっている。が、中には例外があるようだ。
寒季の真っ只中で相手が見つかるかどうかは、もちろん別の問題だが。
女は空の変わり者を意識から切り捨てると、人の変わり者を見下ろした。
街道から少し外れた樹林の只中。
男が毛布の上に寝転がっている。
今ひとつ年齢を掴みづらい顔は、瞳を閉じたまま時おり何かを呟く。
その側に小妖種が腰を下ろし、男の言葉を皮紙に書き留めていた。
(ま、コイツが愛を囁く姿なんざ、永久に拝めそうもないけど)
寒季の森だ。風がなくとも足元からしんとした冷たさが這い上がってくる。
女護衛は外套の下で腕を擦った。
神話は医神トゥルーンを、タナスとロタナスとマクシュードの間に産まれたとする。三柱ともれっきとした男神だが、そこは柔軟に考えて欲しい。神話だし。
とにかく、ヒゲ面の野郎三人がくんずほぐれつの末、医者の守護神が生まれた。さらに医者は男の仕事で弟子も少年ばかりだったから、医者は衆道趣味の代名詞みたいになっている。実際、その道に耽(ふけ)った者が多かったことは歴史が証明しているが、「真っ当な趣味」の医者にはいい迷惑だったろう。
そして神話は薬神スワライを、トゥルーンとマクシュードの間に産まれたとする。二柱ともれっきとした男神で親子だが以下略。
・・・・・・・・神話だし。
凡(およ)そ薬と呼ばれる物は、スワライ神から人に伝えられた。ということになっている。
もちろん薬が天から降ってきたり、地から湧き出るはずもない。現実の薬学は、無数の人体実験の末に成立しているのである。
ちょっと想像して欲しい。「コレはいかにも胃に効きそうだ」などという当て勘だけで、病人に雑草の煮汁を飲ませる薬屋の姿を。
我々からすれば滅茶苦茶としか言いようがないが、薬学の(そして医学の)歴史など、始まりはそんなものである。タカイド王に水銀を飲ませた医者の話や、蜜に鉛粉を混ぜて調味料にしたネペプの料理人の話は、医学生なら誰でも教えられるはずだ。
長い歴史の中で繰り返された無数の失敗(死人もたくさん出ただろう)と、わずかな成功。その積み重ねにより、現代の我々は薬学の恩恵に預かっている。
こんな事を書くと、薬師(くすし)が皆、目的のために手段を選ばない薬物キチ○イに思えるかもしれないが、薬師にだって正常な神経の持ち主はいる。そういう者はどうしたかというと、やっぱり人体実験をした。
ただし試すのは患者でなく、自分の体だが。
「頭に陽証あり」
「あい・・・・頭に陽証」
師匠の言葉を聞き取る小さな弟子は、眉間に皺を寄せている。
薬師が試したのは、テンドナと呼ばれる木だ。大きな卵型の葉をつける樹木で、高く育つ。その樹皮を煮出して、僅かに口に入れた。
草木の薬種は、ほとんどが葉や果実、種子、根だ。木皮の薬種は乏しいから、使えるとわかれば新しい処方が見えてくる。
もちろん使えない物のほうが多いし、それが当然でもある。しかし運が悪ければ有毒だったりするわけで、試用は常に命がけだ。有名なアカレンなどは、根の一欠けで十人も殺す。
それでも実験を繰り返す理由は、ただ一つ。
彼らが薬師だからである。
「左腕に洪・・・虚実は未だ定かならず」
「洪が右から左へ」
自分の体内で起こる変化を観察し続ける男と、神妙な顔で見入る子供。
そして、それを眺めて欠伸する女と獣。
”フ〜・・・・”
「・・・・・・・何だい、ウルル」
腕組みして見下ろす女の側に、「森の王」と呼ばれる肉食獣がにじり寄る。
”・・・・・・・”
目が合う。
「やめやめ! ンな顔をされてもアタシゃ知らないよ」
アイは大きく首を振った。
毛獣の真っ黒な瞳が「構って、遊んで」と訴えているような気がしたのだ。
獣が人語を理解できるはずがないし、逆もまた同じ・・・・はずだ。
”フ〜ッ”
「大人しくしといてくれ。遊びたいなら後で連中に相手してもらいな」
”・・・・・・・・・・・”
「つれない事を言うなっても、アタシは仕事中なんだよ。わかる? し・ご・と」
”ウーフ”
「ウルルが居れば平気って、おま−」
女護衛はふと言葉を止めた。
獣が人語を理解できるはずがない。
できるはずがないのだ。
「・・・・・・・・・・・」
アイはもう一度首を振ると、寒季でも暖房要らずの毛糸の塊から離れた。無言で別の立ち木の側に移動し、体を預ける。
毛獣が、しゅーっと音をたてて鼻息を漏らす。女の背を追う瞳は、面白いものを見つけた子供のようにキラキラしていた。
”ウフ〜ッ”
「現実を認めろ、じゃないっ」
「アイ」
「ねーちゃん、うるさい」
「アタシが悪いのかー!?」
”ウーフフフッ”
「お前もだ、ウルル」
”ウフ〜・・・”