身に凍みる寒さだった。
板張りの床は、肌にちくちくと刺さる冷気を放っている。
温かい空気は上昇し、冷たい空気は下降する。
だから体育館の床は最も冷えているわけで、いくら大勢の人間を詰め込んでも、どうにもならない。
広大な天井へ無駄に拡散していく、人々の熱気。
目に見えないそれを見上げ、僕はこっそりとため息を吐いた。
視点を戻せば、大きく墨書された「青翠(せいすい)高等学校 卒業式」の題字。
それと、寿命と髪の本数がデッドヒートしている校長先生の頭、じゃなくて顔。
ありがたくも全く心に残らない講話は、卒業式のせいか、余計に長い。それでも居眠りはできない。寒くて。傍迷惑な人だ。
いつもは時間を大切にしろとか説教するくせに、自分は無駄話をだらだらと続けるんだから、大人って矛盾してる。
こういうの、「憎まれっ子世にはばかる」って言うんだっけ? ←チガイマス
欠伸をかみ殺す同級生を横目に、うんざりしながら床の板目を数える。
現実逃避に飽きて、眠気が寒気に勝ちそうになった頃、ようやく校長先生の長話が終わった。
演壇の校長先生を追い出すように、すぐにスピーカーから「送辞」という短い言葉が流れ、続いて現生徒会長の名前が読み上げられる。
在校生の最前列で一人の男子が腰を上げた。ぎくしゃくした動きで、ぎっしり並んだ卒業生の間を縫い、演壇へ上がる。
あの人ってホント、本番に弱いなあ。
この数ヶ月で”内弁慶”(身内には強い人)の評価が定着した会長が、遠目にもわかる真っ赤な顔で、折りたたんだ原稿用紙を広げた。
貴重な休みを病院と療養で潰してしまった夏。
あの酷い日々から半年の歳月が流れた。
いま、僕の世界は平穏だ。
学校で居眠りしつつ学び、友達と遊び、家に帰ったらテレビやネットで時間を潰す。
凡人は凡人らしく。起伏に乏しい怠惰な生活ができれば、それで十分に幸せなんだ。
嬉しいことに、これからは今よりさらに平穏な日々が待っている。
だって、卒業式だよ?
そう。
今日を限りに、この学校から、あの人がいなくなる・・・!
思わず口元に浮かぶ笑みを、僕は手を当てて隠した。周りからは欠伸を隠したように見えるだろう。
まあいい。卒業式と言えば涙がつきもの。「出て行ってくれて嬉しい」なんて言える雰囲気じゃない。
それなら、つまらない話に欠伸したと受け取られるほうがマシだよね。
うんうんと、一人で納得していたら、僕を横に座っていたヤツから訝しげに見られた。
あー。たしかにオカシイか。
生徒会長が、「未来に大きな壁が立ちはだかる事もあるでしょうが」なんて言った直後に頷いたら。
僕は口をへの字に結んで、抑えがたい微苦笑をむりやり封じ込めた。
緊張のあまり、赤かった顔をどんどん白くしながら、生徒会長は何とか原稿を読み終えた。
僕も含めて在校生のほとんどが「会長選挙で投票したの、失敗だったなー」と思ったのは言うまでもない。
人を見る目って、大事だね、ウン。
考えるそばから、何もない床でつんのめる会長。
はらはらしながら見ていた僕たちは、次にスピーカーから流れた言葉で、一瞬にして視界と思考から現会長を消し去った。
”答辞。卒業生代表、惣右衛門あきら”
「はい」
久しぶりに聞いた。
決して大きくはないのに、よく通る声。
卒業生の最前列で、小さな影が立ち上がった。
惣右衛門あきら、先輩。
迷いのない動きで、とつとつと階段を上がっていく。
和紙を蛇腹に折りたたんだものを、胸に抱いていた。答辞の原稿だろう。
あの人だったら自分のセリフくらい簡単に暗記するだろうけど、やはり形式というのも大事だから。
演壇に着いた先輩は、来賓客、父兄席、それから学校運営者へと、順番に頭を下げていく。
優雅なお辞儀に合わせて、豊かな黒髪がふわりと揺れた。
・・・・髪、伸ばしたんだ。
胸の内がつきんと痛んだ。
久しぶりの感覚。
そういえば、しばらく先輩の姿を見かけなかった。
見たくなかったのが一番の理由だけど、受験生は色々と忙しいし、年が明けたら登校日が減るから。
惣右衛門先輩は、当然というか、第一志望の四年制大学に合格した。
彼女の自宅から通える範囲で、最も偏差値が高い学校だ。
そこはたしかに有名だけど、先輩の学力から言えば余裕過ぎるレベルでもあった。
無責任な噂によれば、この不自然な進路は親族会議の決定だったとか。
誰もが知る日本の最高学府に合格できる力があるのに、保護者がダメ出しをしたという。その理由がふるってる。
”女の学歴が高すぎると嫁の貰い手が減る”−
まさか本当にそんな事を言ったとは思えないけど、惣右衛門家の歴史と伝統を考えれば、誰でも「それはありそうだ」と思う話だった。
余計な方向に思考を働かせている間に、惣右衛門先輩は演壇のマイクを取り上げていた。
見慣れた凛々しい面立ちに、うっすらと浮かぶアルカイックスマイル。
学校のカリスマに相応しい、衆目を引きつけるオーラ。
小さな体躯なのに、悔しくなるほど堂々とした立ち姿。
目を反らしても良かったんだけど、それは何だか負けのような気がして。
僕は正面を・・・惣右衛門先輩を見据えた。
背中に視線を感じるのは、気のせいじゃないだろう。
僕と先輩・・・・他称「高校一のバカップル」が夏休みに別れた事は、秋の終わりまで噂に残っていた。僕も先輩も「双方合意の上でのこと」と説明したけど(実際、それで間違いじゃない)、ヒネた物の見方をする奴はどこにでもいる。
下手な素振りを見せて、そういう連中に話題のタネを提供する気はなかった。
会場全体へ向けて、先輩が軽く一礼する。
思い思いに返礼する在校生。生徒会長時代の名残か、卒業生まで反射的に返礼したのがちょっと笑えた。答辞って、あなた達が在校生に送る言葉でしょうが。
やはり先輩は、原稿を見ない。畳んで演壇に置いたままだ。両手は柔らかくマイクを握っている。
体育館全体を見回し、彼女は第一声を放った。
「諸君」
「私は、仁科祐が好きだ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい?
「諸君。私は、仁科裕が、大好きだ」