「とんでもないトラウマだな」
「これでも改善したんだ。勝次も報告書を読んだろう」
「ああ。女の先生とか女子生徒がさわるだけで気絶した話だったか」
低い声。
囁き声。
「半信半疑だったが・・・・・そんなヤツが現実にいたわけだ」
「うん・・・・・予想だにしなかったとはいえ、もっと早く興信所を使うべきだったよ。まったく、私は愚か者だ」
「それにしても突っつきすぎだぞ。フラッシュバックなんて洒落にならん。仁科が女の顔も見られなくなったらどうする」
「別にかまわないさ・・・・私はね」
「何だと!?」
「お二人とも、もう少し静かにお願いします」
第三の声。
「・・・・失礼した、先生」
「気をつけます」
「こちらの少年は、別の部屋に移しますか」
「もう少し。もう少しだけ待って欲しい・・・・まだ用が済んでないから」
「そうですか」
「待てよ、あきら。今のはどういう意味だ?」
あき・・・ら・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
あきら!?
「っ!!」
僕は飛び起きた。
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「急に起きると危険ですよ」
右側から届いた声に、まだ霞む両目を振り向ける。 ぼやけた視界が顔の輪郭と白衣をとらえ、やがて落ち着いた雰囲気の、初老の医師になった。 男の先生だ。
「・・・よかった」
思わず呟いていた。 いま女の人が近くにいたらどうなるか、自分でもわからない。
「それはこっちのセリフだが」
「ユウ、心配した」
低い声と細い声が背中にかかる。 不明瞭なままの頭で周囲を確かめると、自分が応接セットの長椅子に寝かされていたのがわかった。 首をぐっと回す。惣右衛門先輩が大きなベッドから見つめていた。そのすぐ傍に、恩田先輩。
「・・・・先輩」
「すまない・・・・・本当に」
そこで、絨緞に膝をついていた医師が咳払いした。惣右衛門先輩が口を閉ざす。
「仁科 祐さんですね」
「・・・・・はい」
「気分は悪くないですか。頭が重い、偏頭痛などはありませんか」
「いえ。平気ですけど」
外見の貫禄と正反対な、丁寧口調の質問に応じて、多少ぼんやりするものの、素直に答える。 聴診器を当てたり、口を大きく開けたり、学校の健康診断そのままの問診を終えると、先生は黒革のカバンを取って立ち上がった。
「問題のありそうな兆候は見られません。しかし過度に刺激的な環境に身を置くのは、しばらく慎むように。 異状を自覚したら、掛かり付けの病院へすぐ連絡を」
「・・・・・わかりました」
「手間をかけた」
「ありがとうございました」
少し肩の丸まった医者に、三者三様の返事をする。ちなみに一番偉そうなのが、一番小さな人だったり。
「お大事に」
お決まりの言葉で締めて、先生は豪華な病室から出て行った。 オートロックの扉がかすかな施錠音を鳴らし、封鎖空間の完成を知らせる。 僕は両のこめかみに左右の中指をあて、ぐりぐりと押し回した。
「帰ります」
ソファの脇に揃えてあってシューズへ足を突っ込み、ゆっくりと腰を上げる。
「ユウ−」 「わかった。仁科、迷惑をかけてすまなかった」
惣右衛門先輩を抑えるように、ことさら大きな声で恩田先輩が謝った。 不満そうに息を呑む音が聞こえたけど、気づかなかったフリをする。
「・・・・・お邪魔しました」
大きなベッドへ向けて頭を下げる。
「送ったほうが良さそうだな。帰りもウチの車を使ってくれ」
駐車場で待っている黒塗りの車を呼び出すためだろう、恩田先輩がケータイを取り出す。
「いえ、大丈夫です。少し外の風に当たりたいですし」
僕は手を振って謝絶した。
「そうか・・・気をつけて帰ってくれ」
「はい。それじゃ、惣右衛門先輩も、お大事に」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
返事はなかったけど、もう一度だけ頭を下げてから扉へ向かう。 なんだか、ロクな話もできなかったし、何のために来たのかもわからなかったけど。 そんな事はもう、どうでもよくて。 とにかく出て行きたかった。 僕はここに居ちゃいけない。 振り返らず、細かな装飾を施された扉へ進む。 近づいただけで、ロック解除の電子音が鳴った。控え室の看護師さんが、モニターを見て操作したんだろう。 そういえば、あの人は女性だった。 控え室は狭いけど、できるだけ遠ざかって歩こう。そう考えながら、ドアノブに手をかける。 拍子抜けするほど軽く扉が開いた。
「ユウ!」
先輩の声。
「一つだけ、一つだけ聞いて欲しい・・・!」
今まで数えるほどしか聞いたことのない、張り詰めた声色。
だけど。
僕は振り返らなかった。
あの人は−
「君は・・・・っ」
聞くな。
あの人は−
「ユウは、悪くない!」
「・・・・っ」
何を言ってるんだ。
この人は−
「ユウは悪くないから!」
惣右衛門あきらは。
演技の天才で。
誰もかもを騙しきって。
「悪いのは”こっち”だからっ・・・!」
抜群の知性で周囲を操る−
この人は。
「手首を切ったのも、その理由を作ったのも、みんな”わたしたち”なのだから!」
「!!」
見るな!
心のどこかが叫んだのに。
その言葉が許せなくて。
僕は振り返った。振り返ってしまった。
「・・・せん、ぱい・・・」
「この”わたし”が言うのだから・・・・・・・・間違いないよ」
彼女は。
あの全校生徒の憧れ、生徒会の誇りは、
異様な光を瞳に湛えて、
ほつれた髪を血の抜けた頬に貼り付けて、
ひび割れた唇を震わせて。
この人は−
「だから、ユウは悪くない」
それでも、微笑を浮かべた。
「悪くないんだ」
「・・・・・・・・・」
ああ。
そうだ。
また引っかかるところだった。
この人は−
「本当に謝るべきは」
この人は−
「私と、彼女だから」
大 ウ ソ つ き な ん だ 。
「だから、ユウ・・・・!」
僕は、
叩きつけるように扉を閉めた。
病院の外は、光と熱気に満ちていた。
眩しく輝く屋根瓦とガラス窓。
逃げ水の浮いたアスファルト。
時が止まったかのように停滞する空気。
見舞いに来たはずの客が、そのまま熱中症で入院してもおかしくない。
この暑さには太陽の敵意すら感じる。
かろうじて日陰になっている、玄関の下。
僕は柱にもたれかかり、肺に溜まっていた二酸化炭素をぜんぶ吐きだした。
サイテーだ。
僕の心も、体も、過去さえも引っかき回して。
本当に、サイテーだ。
あの人は。
胸に居座っているこの疼きは、単純な体の痛みじゃなくて。
僕の想いとか思い出とか後悔とかを、むき出しにしてグチャグチャに捏ねられたようで。
とてつもない不愉快さだ。
それに加えて、言いたい事を表現しきれない憤懣があり。
自分の理屈を通しきれない無力さがあり。
さらに全ての事情を把握できないがゆえの困惑もあって。
ただ一言で表すなら、それは「やられた」という想い。
つまり、敗北感。
ちくしょう。
なんで。
どうして。
どうしてだ。
どうして、こんな・・・・・っ!
どうして、あの人が!
どうして!
「ナットクできない!!!」
「ただいま」
「おかえり、勝次。ユウは帰ったか?」
「この目で確認した。立ち去る前に、玄関で何やら喚いていたが」
「・・・そうか。では、私たちも帰るとしよう」
「手続きを済ませてくる」
「任せた。それから先生と看護師に十分なお礼を」
「庶務課にもな。化粧室をずいぶん汚したろう」
「そうだった。ああいう顔料を使ったのははじめてでね」
「仁科が便所を貸せと言ってたら、困ったことになっていたぞ」
「うん。詰めの甘さは反省している」
「反省するところが違うだろう。まったく困ったヤツだ・・・・こんな事をして何になる」
「何の意味もないなら、しないよ。付き合ってくれた叔父上には、この通り、ちゃんと感謝してる」
「白々しく頭を下げるんじゃない。つか、叔父上ゆーな」
「現実逃避は感心できないね。叔父上は叔父上だろう?」
「だから叔父上ゆーな。誕生日はお前のが早いだろうが」
「あはははは。それじゃ、頼んだよ。私はメイクを流してくる」
「俺が戻る前に帰り支度を済ませておけよ。人間ドックに延泊割引はないんだ」
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