目次に戻る トップに戻る
前へ 次へ









 市立病院は今日も繁盛していた。

 面会の受付を済ませ、老若男女で混雑する一階からエレベーターで四階へ。

 控えめな電子音とともに扉が動くと、無音の回廊が開かれた。

 個人病室の並ぶ四階は関係者しか立ち入らず、一階の喧騒と無縁だ。

 すれ違う白衣の看護師さんと目礼しつつ、目的の病室へ足を進める。

 大きな窓から、眼下で咲き誇る桜が見えた。今を盛りと、薄桃色の花弁で装飾された枝が、四方へ一杯に腕を伸ばしている。

 どこで咲いても同じ桜なのに、病院から見えるそれは、なぜか儚げで悲しい色に映った。

 僕は現実から目を背けるように、桜から顔を逸らす。

 だけど病室の扉に嵌められたネームプレートは、逃げようのない現実を突きつけた。


<小川真央>


 無機質なゴシック書体は、扉の向こうにいる患者への感傷を拒絶するようなそっけなさ。

 僕はわずかに息を止め、軽く扉を叩く。

 反応はなかった。

 首を傾げて、再度ノック。


「裕ちゃん」


 思いがけず背後から声が届いて、振り返った。


「おばさん」


「こんにちは」


 マオの母である富子(とみこ)叔母さんが、ニコリとした。無理に作った笑みが、疲れた顔に痛々しい。眠れないのだろう、目の下にクマができていた。


「来てくれてありがとうね」


「ううん・・・・・マオはどう?」


「寝てるわ。それで水を替えてきたの」


 叔母さんが左手に提げたガラスの一輪挿しを上げる。

 シンプルで大振りな三枚の花弁と鮮やかな深緑の茎が、目の覚めるような対比を成していた。


「寝てるけど、いいかしら?」


「うん。顔を見に来ただけだし」


 一時は命が危ないとまで聞いていたから、すぐに話ができるなんて思ってなかった。

 叔母さんに扉の前を譲る。


「目は覚めたけど、まだ話をしたくないみたいなの。食事も摂らないし」


「そうなんだ」


「ホントに何を考えてるのかしらね・・・」


 叔母さんの言葉は誰に向けたものでもなかったろう。

 僕はただ口を結んだまま、わずかに頷く。それこそ、みんなが一番に知りたいことだった。

 でもそれは、彼女が自分の身を傷つけ始めてから、決して明らかにしないことでもある。

 叔母さんは軽く息を吐くと、ドアノブに手をかけた。

 扉が静かに押し開かれる。

 春の匂いを含んだ風が通り抜けた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・マオ?」


 扉を開きかけたまま、叔母さんが停止する。

 僕は肩越しに病室を覗き込み、同じように停止した。


「マオ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 彼女は何も応えない。

 寝台の中にもいない。


「マオ・・・・・・?」


 白い病院服が、桜の色を含んだ風にはためく。

 艶の落ちた黒髪が柳の枝のように揺れる。

 僕の従姉は、緑の芽吹く町並みを背に、枯れ木を思わせる空虚を漂わせて、窓枠に体を預けていた。


「マオ、何をしているの」


 硬い、叔母さんの声。


「早くベッドに戻りなさい。無理しちゃいけません」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 マオは動かない。僕たちに背を向けたまま、窓の桟に骨ばった両手をかけて、春の息吹を全身で受けている。


「マオ・・・!」


 叔母さんが病室に踏み込むと同時に、マオが振り向いた。

 ただ一つの挙動。

 それだけで僕らは凍りつく。


 あの顔。血色の失せた蝋人形のような。

 あの髪。干からびた天草のような。

 あの口元。潤いを失ってひび割れた唇。

 そして、あの目。汚水のように濁り澱んだ眼差し。


「やっと・・・・・・・・・ったのに」


 白っぽい唇から零れたのは、枯れススキの擦れ合う音に似た、萎びた声。


「・・・・終わったと・・・・思ったのに」


 僕らに向けた視線を逸らし、彼女は世界へと目を向ける。

 だけど違う。彼女が見るものは、僕らの見ている光景じゃない。

 あんな濁った眼差しで、見えるわけがない。


「マオ」

「マオ・・・・」


「でも、これで、終わり」


 叔母さんと僕の呼びかけを拒絶するように呟く。


「ぜんぶ、おわり」


 マオの細い体が傾ぐ。

 外へ向けて。


「マオ!」

「止めて!」


 叔母さんの手から離れた一輪挿しが、床と衝突して派手に砕け散った。

 左右の廊下から足音がする。


「どうして! どうしてさ!? マオ、どうして!」

「マオ!」


 僕らの叫びを受けた背中が、その傾きを止めた。


「どう・・・して・・・・?」


「そう、どうして! どうしてそんな事をするんだ、マオ!」


「止めてマオ! お願いだから戻って・・・・」


 僕が怒鳴り、叔母さんが懇願する。僕ら二人とも、両手を震わせて。

 彼女は背を向けたまま。


「・・・・・わから、ない?」


「わかるわけないだろ! 誰にも!」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そ」


 マオの細い肩に、くっと力が入った。


「・・・・・・・だから」


「え?」


「だから、終わらせるの」


 彼女が顔半分だけを見せる。

 黒く沈んだ瞳。底の知れない虚無を感じて、僕は総毛だった。


「誰も」


 マオの濁った眼差しを受けて、叔母さんも体を震わせるのがわかる。


「誰も、助けて、くれない」


「助けるって、何さ!」

「みんなマオのために・・・!」


「助けて、くれなかった。誰も」


 目を閉じて、だから終わらせるの・・・・と、再び呟く彼女。


「小川さん、どうしましたっ」

「小川・・・さん!? キミッ」


 僕の背を突き飛ばすように、白衣の大人たちが病室に飛び込んだ。


「すぐベッドに戻りなさい」

「まだ動いちゃいけませんよっ」


 みんなマオの事情を知っているのだろう。荒げた声を押し殺していても、ほとばしる緊張感は隠しようがない。


「マオ、みんな心配してるんだ」


「そうよ、マオ。もう馬鹿な事はやめて・・・・」


 窓際の少女を囲むように、じりじりと近づく病院の人々。

 彼女は虚ろな目を周囲に向けて、ただ呟く。


「嘘は、嫌い」


「嘘じゃない。みんなホントにマオを心配してるだろっ」


「本当だったら私はここにいない。だから嘘」


「えっ?」


 嘘つきは嫌い。


 みんな嫌い。


 嫌い。


「嘘嘘って、何が嘘なんだよ! ゼンゼンわからないよ!」


「そうよ、マオ! 落ち着いて・・・私たちに教えて、ねっ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 その時の彼女。


 あの表情。


 あらゆる感情を心底から噴き出させたような。


 虚無の殻を破って顕わになった−


「だから嫌い」


みんな


「表だけ見て、困って悩んだフリをして、助けるような事を言って」


 なのに


「誰も私を見てくれない。誰も助けてくれない!」


 誰も


 誰も


 誰も


「優しいふりをする人が嫌い」


「親切そうな人が嫌い」


「物分りのよさそうな人が嫌い」


「心配気な顔をする人が嫌い」


 それに

 誰よりもっ


「親しい人ほど嫌い!」


 ママも



 ゆーちゃんも



 ミオも



「みんなみんなみんな嫌い!」







「だいっっっっっきらい!!!!!!!!!!!」



























 ごすっ。























 真紅。



 白衣を染める。



 アスファルトに広がる。



 身の内に秘めた苦悩と対極的な。



 鮮やかな。





 ・・・・・真紅。








 僕は、



 病室にぽっかりと空いた窓から、



 見下ろしていた。






 世界を染め上げる、真紅を。

 































 その後。




 検視解剖で、マオが妊娠初期だった事が判明した。










 
 

 







目次に戻る トップに戻る
前へ 次へ