「この部屋だ」
短く告げた恩田先輩の向こうに、幅の広い木製の扉があった。
濃い木目のドアも、鈍く輝く真ちゅうの把手も、病院に場違いな重々しい作り。ネームプレートもなく、一見したところじゃ病室とわからない。
「今は安定しているが、三日前まで危ないと言われていた」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それは」
しんと静まった総合病院の一隅。
僕は立つ。
強い既視感に襲われながら。
「自分の部屋で切ったんだが、発見があと五分遅ければ、手遅れだったそうだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
・・・・・似ていた。
場所も時間も違うけど。
彼我の置かれた状況と立場、今にも弾けそうな張り詰めた静謐、胸を圧迫する不安。
どれも・・・・似ていた。
できれば二度とあってほしくなった。
”あの時”も、知らせは突然で。
”あの時”も、中にいたのは僕に近い女の子で。
”あの時”も、彼女は自分で・・・・・自分を・・・っ。
そ れ に
” あ の 時 ”
僕 は −
「入るぞ」
「・・・・・っ」
顔を上げると、肩越しに僕を見る先輩の視線と出会った。先輩は気持ちを押し隠したような、不透明な瞳の色をしてる。この人の目に、僕自身はどう映っているのだろう。
僕は言葉なく、ただ頷いた。
先輩がごつごつした拳で扉をノックする。
待つほどもなく、頭上から女性の声が降ってきた。
『お入り下さい』
抑えた電子音に続いて金属音が響き、扉が軽く震える。
音源に顔を向けると、僕らの真上にスピーカー、そして左右の斜め上にカメラが一台ずつ備えてあり、二つのレンズがこちらを向いていた。
先輩は躊躇うことなく扉を押し、足を踏み入れる。おそるおそる、僕も続く。
まず覚えたのは、違和感だった。
狭い。
室内は四畳ほどの空間。半分が広く空けられ、残りのスペースに無愛想な操作盤や監視モニター、流し台、そしてこぢんまりした応接セットが詰め込まれている。ベッドを置くような場所はなく、実際、どこにも寝台がない。
すぐに部屋の対面にもう一枚の扉に気がつき、理解した。ここは控え室なんだ。
この病院にこんな部屋があるなんて知らなかった。
同時に思った。控え室つきの病室なんて、さすが惣右衛門家は扱いが違う。
「いらっしゃいませ」
操作盤に向いていた女性が椅子を回し、立ち上がった。落ち着いた様子の、年配の女性看護士さんだ。
「お世話になってます」
恩田先輩が分度器で測ったような斜め45度のお辞儀をし、僕もつられて頭を下げる。
「アキラと会えますか」
「さきほどお目覚めになったところです。伺ってみましょう」
そこで看護士さんは僕に注意を移した。
「こちらも患者さんのお身内ですか?」
少し首をかしげた看護士さんに、値踏みする目で上から下まで観察される。惣右衛門会長と付き合っていた時、たびたび感じた視線だ。何度あっても慣れないし、居心地が悪い。
「友達です。アイツの」
「事情はご存知なのかしら」
「コイツは大丈夫です」
先輩は太鼓判を押すように言ったけど、全然ダイジョウブじゃない。気持ちも体調も。
看護士さんは、先輩と僕を見比べるように幾度か視線を往復させた。
「モニターは点けておきますね」
「どうぞ」
他意を感じさせない先輩の返答に納得したのか、彼女は頷いた。操作盤の前に腰を下ろし、白いヘッドセットを耳にかける。いくつもあるボタンの中から青いものを押すと、口元のマイクに話しかけた。
「・・・はい、お見舞いのお客様がこちらに。はい、恩田さん・・・・それからお友達がご一緒に−」
落ち着いた話ぶりは、看護士というより熟練の秘書みたいだ。
先輩がその場を離れたので、僕も続いた。奥の扉の前に進み、開錠を待つ。
「開けます」
大きな扉が開錠を知らせる金属音を鳴らした。
ちょっとした会社の社長室か、豪邸のリビングか。
入室した空間は、普通に考えるところの病室からずいぶん隔たっていた。
窓は大きく、レースの装飾カーテンが垂れ下がり、壁の色はベージュで床は毛足の短い絨毯だ。奥に贅沢な革張りの応接セットと、大画面の薄型テレビが据えられていた。
本来の目的であるベッドが、むしろ場違いなくらいで−
そんな異質な空気に包まれるまま。
彼女がそこにいた。
(・・・・・・・・・・・・・・・あきら、さん)
別人かと思った。一瞬だけど。
たしかに造形は、見慣れた惣右衛門あきらだ。
けれどキングサイズのベッドに横たわる体は、いつものオーラを放ってない。
薄い毛布に隠された緩やかな起伏から感じるのは、ひたすらな空疎。
凛とした態度も、鮮やかな印象の笑顔も、血の気のうせた顔から伺えない。
腕から伸びる点滴のチューブも痛ましい。
「まさか・・・・」
細々とした擦れ声にハッとした。
モーターの回る低い音がする。電動マットレスがゆっくりと持ち上がった。
「来てくれるとは・・・・思わなかった」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
一目見て、彼女の顔が”彼女”と重なった。
ただ顔が白いんじゃなくて。
背後に死神の気配を察してしまいそうな。
今にも冥土に呑まれそうな。
・・・・・・強い、強い既視感。
「勝次、ありがとう」
「・・・・・・・・・・・・・・・・いや」
色のない相貌と乾いた唇が、霞んだ笑顔をつくる。顔を向けられた恩田先輩は、居心地悪そうに視線を落とした。
「ふふ・・・・・・」
こっちを見て、再び笑みをつくる惣右衛門先輩。
伸びかけの髪が、彼女の左頬に垂れた。惣右衛門先輩は、左手を上げようとして点滴に気付き、手を替えて頬にはりついた髪を払った。
「私は・・・・・ヒドい人間だ」
陽炎のように儚げな微笑に、僕は目を逸らせなかった。
「こんな事をして、周囲を困らせて・・・・・・それでも嬉しく思っている」
小さな右手を左手がある辺りに置く。たぶん、そこに傷跡があるんだろう。
「ねえ、ユウ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
答える言葉なんてあるわけもなく、僕はただ視線をあわせる。
「勝次。ユウと二人で話したい」
「・・・・わかった」
彼女の言葉を予想していたのだろう。恩田先輩は承諾の返事をすると、僕に窓際の天井を指し示した。
「仁科、何かあったらアレに手を振ればいい。看護士が来る」
「わかりました」
「落ち着かないものだぞ。常に見られているというのは」
僕達にならって天井の監視カメラを見上げる惣右衛門先輩。
「自分のした事を考えろ」
「・・・・・・そうだな」
肩をすくめた彼女に「無理はするな」と言い置いて、恩田先輩は出て行った。
「ふう・・・・細々と気を使う男だ。まるで母親だな」
恩田先輩が出て行った扉に向けて、彼女は口を尖らせた。
「それだけ先輩が心配なんでしょう」
「まあ・・・・・ね。ユウ、済まないがもう少し寄ってもらえないか」
「はい」
僕は壁際の丸椅子を取り、ストレスを感じないギリギリの線で腰を下ろした。
「うん、助かる。 君の体には申し訳ないが、正直、声を出すと疲れてね」
「いえ。先輩は気にしないで、辛かったらすぐ言ってください」
「わかった」
答えてから、ふと先輩が寂しそうな表情になった。
「あきら、と・・・・呼んではくれないんだね」
僕は返事を込めて沈黙を守った。しばらく視線を合わせた彼女は、溜め息を吐いて目を閉じる。
「それも当然か。私のした事を思えば・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「色々、済まなかった。ユウにはどれほど謝罪しても足りない」
お辞儀のつもりだろう、彼女はベッドの上で動きづらそうに頭を垂らした。
「ユウにとって私は疫病神なのだろうね・・・」
「ええ」
「・・・・・・・・即答したな」
「事実です」
頷いてみせると、先輩に軽く睨みつけられた。ぜんぜん怖くない。
僕が何の反応も見せずにいると、彼女は外に視線を移した。
「本当は、もっと、ユウと気の置けない会話をしたかった」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
それは無理だ。
反射的に思うと、喉が詰まるような感じがした。
僕達二人は「終わった」。その事実は変えられない。
「今はわかっている。私の勝手な都合で始まり、私のワガママで続いた関係だ。君が耐えられなくなったら、それで終わりだと」
「・・・・・・・・・・・・・・・・はい」
ホント、血を吐くまで耐えたんですから。
「それでも、ね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「それでも私は・・・・・もっと、君と話をしたい・・・・」
「だったら−」
「え?」
「だったら、何でこんな事をしたんですか」
自分でも戸惑うほど硬い声だった。僕を一瞥した先輩が、ビクリとするほどに。
演劇の垂れ幕が落ちるように、僕達の空気が変わった。
静寂じゃなく、重い沈黙が二人の間を漂う。
「・・・・・・・・ったから」
気まずさに耐えかねて俯いた僕の耳に、砂粒のような言葉の一欠けらが届く。
「知って、しまったから」
顔を上げると、申し訳なさそうに僕を見つめる先輩の顔があった。
「ユウの過去を調べたんだ・・・・・済まない」
「っ!」
瞬間、心音が跳ね上がった。
彼女が頭を下げる。その意味は明らか。
僕の触れられたくない過去を知った、ということだ。
「なん・・・・で・・・・・」
「わからない」
再び俯いた僕の言葉に、先輩は首を振った。
「私にもわからない。あんな事があった後だというのに」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「それでも、君の事を知りたいと思わずにはいられなかったんだ。本当に−」
彼女はふぅっと滑るように笑った。
「いつも迷惑ばかりかけて、私は嫌な人間だ」
「あ−・・・・・」
待って。
やめてくれ。
その笑い方。
その言い方。
それはまるで、
”あの時”の
”あの時”の−