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 香と虫除けの臭いが鼻を衝く。

 細々と漏れる囁き声。

 真新しい制服が白木の箱にかけられ、ありえたかも知れない未来を暗示する。

 黒枠の写真が、場違いな笑顔を人々へ向けて。


「お前のせいだ!」


 椅子が蹴倒された。


「お前のっ・・・!」


 部屋中の視線が一点に集まる。


「お前のせいで死んだんだ! このっ」


 悲鳴と制止の声が飛び交う。


「人殺しがああああああああ!!!」


 充血した目。


 鈍い音。


 鉄の味が口に広がり、視界を真紅が染めた。




























 悪夢は終わらない。







「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」





 寝起きの視界が、ぼんやりと木目の天井を映し出す。

 既視感と違和感が入り混じり、すぐに納得する。

 病室じゃない。自分の部屋だ。

 室温はじわりと汗が浮かぶくらい。もう朝の気温じゃない。

 カーテンに突き刺さる強い光も、起きるには遅い時間だと教える。

 額から垂れた雫が瞳に流れ込み、顔をしかめた。熱帯夜でもなかったのに、ひどい寝汗だ。

 背伸びをすると、体に張り付いたシャツがべりっと剥がれた。嫌な感触に、再び顔をしかめる。

 蝉の鳴き声がじんじんと響いた。

 液晶時計が示すのは、八月の十日目。

 今日も・・・・・暑くなるのだろう。

 額の汗をシャツで拭い、着替えに手を伸ばした。

 


















 西の窓に張られた簾(すだれ)が、ひそやかに揺れる。

 思い出したように縁側の風鈴が鳴った。

 陽炎の彼方から、バラエティー番組の乾いた笑い声が届く。クーラーが嫌いな家は、ウチだけじゃないらしい。

 退院して二週間になるだろうか。

 胸の疼きと熱さは、ずいぶん楽になった。薬の効果と、過剰な刺激がなくなったおかげだ。精神的な解放感も大きい。




 ・・・・悪夢は終わらない。


 けど、それは僕の問題だ。




 物理の宿題をやっつけてると、視界の隅でちらちらと白いものが動いて見える。ミオだ。縁側に寝転がって、足を振りながら文庫本を読んでる。この従姉妹は夏休みに入ると、惣右衛門先輩と交代したように頻繁に顔を見せるようになった。

 ウチは風の通り道にあたるので、外が猛暑でも意外と過ごし易い。冬は猛烈に寒いけど・・・・とりあえず夏は助かる。来客用にクーラーもあるものの、扇風機が一台あればたいていの日は足りる。

 で、「家より涼しいから」とミオも来るわけ。ここ2年は来なかったけど、今年は以前と同じように、毎日ウチで夏休みの午前を過ごしている。僕は朝の涼しいうちに宿題を少しずつ進めてるんだけど、ミオはマンガを読んだり小説を読んだり、気ままなもの。夏の終わりに慌てる典型的な自爆パターンだね。

 それにしても、こいつは無防備すぎるというか・・・・扇風機でワンピースが捲れてるのに、ちっとも気にしてない。スパッツを履いてるのと外から見えない安心感もあるんだろうけど、滑らかな背中と丸い尻の形が丸出しだ。もちろん従妹の尻くらいで心は動かないけど、目の前で服やら足が揺れてると、どうしても気が散る。

 風でふわふわしてるワンピースを見てたら、すぐ傍にあった床の染みが目に入った。何度も擦られて真ん中は消えかかってるけど、まだ縁の部分が残ってる。

 褐色の染み。

 あれは”彼女”の−


「ナニ見てんだ」


 振り返ったミオが、こっちを半目で睨んでワンピースを引いた。やっと自分のだらしなさを理解したか。

 無言で染みを見てると、ミオは僕の視線を追ってすぐに気付いた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 ミオがワンピースの裾をさらに引っ張り、染みを隠す。本に目を戻しながら密かに溜め息を吐いたのがわかった。




 ・・・・・・そうだよ、ミオ。


 そんな簡単に忘れられるはずがないんだ。


 まだ二年しか経ってないんだから。













 顔を上げれば、陽光が白と深緑の強烈なコントラストを描いていた。

 障子で額縁のように切り取られた屋外は、カオスと呼べるほど草木の生い茂った庭。なかでも果樹の多さが建て主の性格を表してると思う。父さんがお盆に刈り込むと言ってたから、あと数日はこのままだろう。

 小さかった頃はこの庭で、みんな裸になって水遊びをしたものだ。午後は縁側で西瓜にかぶりつき、川の字になって昼寝した。夜はやぶ蚊に閉口しながら花火を楽しんだ。僕達はいつも一緒・・・・”三人で”一緒だった。

 夏の、いや僕の思い出は全て、彼女たちと共にあった。



 あの春までは。













「・・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・・」









 あの春。



 彼女は全てを失い、



 僕らはかけがえのない宝を失った。



 家族という、無二の宝を。









「・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・ゆーちゃん・・・・・・・・」










 それが彼女にとって救いとなったのか、



 僕は知らない。




















 ファーストフードの店へバイトに出るミオを見送り、ゆっくりした昼食を摂り終えると、1時近くになっていた。

 さっきまでミオが占領してた特等席・・・一番風が通る場所に寝転がる。ひんやりした床板に、ナメクジのようにぺたーっと張り付く。

 麦茶を持ってきた母さんが「牛になるわよ」とお決まりの台詞を残して出て行った。

 牛でも羊でもいいです。横になれるなら。

 ごろごろと体を返して、満遍なく床板の冷たさを味わう。


 ぷぅ〜っ。


 どこか間の抜けた調子で呼び鈴が鳴った。

 いや、屁じゃないから。

 家と同じほど古いウチの呼び鈴は、日によって音色が変わるんだ。気温とか湿度が関係あるらしくて、冬は「ビーッ!」と凛々しく鳴り響き、夏は・・・・いま聞いた通り。

 母さんの足音が玄関へ向かい、しばらくして僕が呼ばれた。


「お客様よ」


「僕に・・・?」


 Tシャツに手を突っ込んで腹を掻きながら、玄関に出る。


「・・・・・・・・・・・・・よう」


「うあ!?」


 僕を迎えた顔と声に、一瞬で背筋が伸びた。

 渋面を含んだいかつい顔。がっちりした大きな体躯に太い腕と脚。

 そこに居たのは真っ先に予想から除けた人・・・・正しくは、その関係者だった。


「顔色は悪くないな」


「・・・・・・・おかげさまで」


 頭を下げた僕に、前生徒会副会長の恩田先輩が頷いた。












「その節はご面倒をおかけしました」


「いや」


 オレンジジュースの中で氷が割れた。風鈴の音色とあいまって、甲高い音色のハーモニーを奏でる。

 外が明るすぎるせいか、充分な光量が確保されてるはずの居間が薄暗く感じられた。

 扇風機が静かに首を振る横で、恩田先輩は「シャキッ!」と効果音を添えたいくらい良い姿勢で座った。向かいに僕も腰を下ろす。 

 先輩は夏休み中なのに制服姿だった。

 訊いてみると、初めて訪ねる時は制服にしてるとの返事だった。以前、私服で知り合いを訪ねて、押し売りか地上げ屋みたいに扱われた経験があるそうだ。

 この人、迫力があるもんねえ・・・・

 先輩の意外な苦労に、僕はちょっとだけ同情した。


「それで先輩、今日のご用件は何でしょうか」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 水を向けると、先輩は座布団から降りた。


「すまなかった」


 両手を座卓に突いて頭を下げる。短く刈り揃えた髪に、白髪が混じっていた。


「ずいぶん迷惑をかけてしまった。申し訳ない」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 とりあえず言葉はない。僕は黙ったまま、「センパイも苦労が多いんだなー」なんて考えていた。

 怒りや恨みがない、と言えばウソになる。よくも騙してくれたな、と思わないワケじゃない。

 でも、もう終わったコトだ。

 とりあえず声を掛けた。


「恩田先輩、頭を上げてください」


 相手が額を卓に付けたままでは話し辛い。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 もう一度お願いすると、先輩はゆっくり顔を上げた。僕と目が合う。

 それで気がついた。

 先輩の眼差しに、いつもの鋭さが見えない。鈍いというか、少しレンズが曇った印象。学校で話す時に感じていたプレッシャーも、今日はほとんど無い。


 何かあった。

 予想はつかないけど、とにかく「何か」あった。

 まあ・・・・僕には関係ないけどね。


「先輩」


「・・・・・・・・ん」


「ご用件はそれだけですか?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 ただ謝るためにわざわざ来たというなら、律儀なヒトだ。受験勉強で忙しいだろうに。


 先輩の返事は遅かった。

 とゆーか、返事が無い。


 これはちょっと珍しい光景だ。

 恩田先輩は口数が少ないけど、言うべきことは明確に言う。そういう印象が強いから、その先輩が言いよどむという事態があるとは想像してなかった。

 言うまでもなく先輩が考えてるのは、あの人の事のはずだけど−


「仁科」


「はい?」


「率直に言おう」


 恩田先輩が、さ迷わせていた視線を僕に戻した。


「惣右衛門あきらと、仲直りしてくれ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 うわあ。


 眩暈がした。


 考えうる可能性の中で、一番最悪の話だ。


 仲直りだって?


 あの人と?


 今さら?


 ムリ。


 ぜったいムリ。


「できません」


「頼む」


「できません」


 出来ないものは出来ない。

 また頭を下げる相手に、首を振った。


「だいたい仲直りなんて、僕に何をしろというんですか。あの人に謝れとでも?」


 それはどう考えても立場が逆だと思う。


「理不尽なのはわかっている。謝るのはこっちだ。仁科に応える義務など少しも無い。それでも−」


 虫のように座卓にへばりつき頭を下げ続ける先輩。


「頼む」


 その口調に含まれた重みが、気にかかった。


 ・・・・・変だ。


 目の前の人もそうだけど、惣右衛門先輩は逃げない。惣右衛門の名を負っているせいで、どんな問題からも逃げられない。常に見られていて、逃げたら家名に傷がつくからだ。

 その彼女は動かないのに、代理人ともいうべき男が無理を承知で仲直りしろという。


 やっぱり・・・・変だ。


 心がざわめく。


「恩田先輩、一つ訊きたいんですが」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 うつ伏せたままの先輩は反応しない。

 僕は構わず先を続けた。


「惣右衛門先輩は、どうしたんですか」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 厳つい肩がわずかに動いた。

 でも、返事はなし。

 僕は腕を組んだ。これは長期戦になるかも。

 静かに息を吐き、返事を待つことにした。




 15秒経過−




 30秒経過−




 1分経過−




「・・・・・・・・・・・院」


「えっ?」


 ずいぶん長く感じた一分の後、返ってきた言葉は低くぼそっとしたものだった。


「すみません、もう一度−」


「あきらは・・・・・・・御井(みい)の総合病院にいる」


「病院・・・・?」


「ああ。あいつは、               んだ」











 視界が真紅に染まった。

 胸から喉へ熱気が逆流する。

 座卓を蹴飛ばし、裸足で庭に飛び降りた。

 着地と同時に抑えきれなくなる。


「ぶぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」


「仁科!」


 居間から先輩の叫び声が届いた。


「げぼ・・・・! ぐへっ!」


「仁科、大丈夫か!」


「ぶ・・・・・・うぶ・・・・う」


 返事なんてできなかった。

 胃の中から全て吐き終えるまで、どうしようもない。


「・・・・・・さ・・・・・・・悪・・・・・・・!」


 胃酸に焼けた口中の痛みに涙を浮かべ、溶けかけた米粒を地面に撒き散らし−


「最・・・・・・悪・・・・・・・」


 恩田先輩の言葉が僕の中でリフレインしていた。

















「あいつは、カッターナイフで自殺を図ったんだ」





 
 

 







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