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 開口一番、ミオに言われた。


「ば〜か」


「・・・・・・・めんもくない」


 油蝉の合唱が耳に障る七月の下旬。

 僕は病院で夏休みを迎えた。

 空調のおかげで病室は快適だけど、屋外を照らし出すのは燦々たる陽光(惨々たる、でも可)。外に出れば三分で汗みどろのはずだ。

 見舞いに来てくれた従妹は、ポーチからハンドタオルを出して額を拭った。


「暑くなる前にって朝イチで来たけど、ムダだったなあ。服ベタベタ」


「今日も暑いみたいだね。わざわざありがと」


「ふん、おばかさんの顔を拝んどきたくてねえ。また、だって?」


「ああ、また」


 ベッドの上で苦笑すると、ミオは肩をすくめた。


「お前は学習能力なさすぎなんだよ」


「そうだね・・・・」


 やっぱり、笑うしかない。ミオの言うとおりだ。


「ちっと失礼」


 ミオは寝台近くの丸椅子に手を伸ばし、ドア近くまで引っ張った。


「個室のわりにちゃちい椅子じゃん。ケチな病院」


「個室っても、松竹梅の梅だから・・・・・ありがと」


 最後の「ありがと」は、ミオの心遣いに対してだ。

 ミオは椅子に座ると、健康的な太股を晒して脚を組んだ。ヘソ出しのノースリーブにショートパンツと、今日も露出度の高いファッションだ。


「その格好、陽に焼けない?」


「UVコートしてるもん・・・・汗で流れたぽいけど。ここで塗りなおすネ」


「おーい。僕の病名知ってて、そんなコトする?」


「見なきゃいーじゃん」


「はいはい・・・・」


 うん。いつも通りのミオだ。変に気を使われるよりいいけど。


「伯母さんは?」


 ミオが病室内を見回す。


「ミオのが先だったよ。母さんは入院の支度で時間かかるって」


「なる、殺風景なわけだ」


 ミオはポーチからチョコクッキーを取り出すと、僕に向けた。


「食う?」


「無理だって・・・」


「だと思った」


 躊躇なくパッケージを破ると、クッキーを口に放り込むミオ。

 食餌制限されてる患者の前で、いい神経してる。


「せっかく夏休みだってーのに、運の悪い奴」


「んー、逆に試験の後でよかったかも。テスト中に入院なんてしたら、成績がシャレになんない」


「けっ、マジメ君め。だから胃に穴なんて開けんだよ」


「あはは。そうだね」




 救急車で病院に担ぎ込まれたのは昨日の昼だ。

 応急処置やらレントゲン撮影やらされたみたいだけど、僕は覚えてない。

 目が覚めたら、夜の病室で横になってた。




 「心因性潰瘍」 並びに 「胃穿孔」。




 そう診断されたそうだ。

 簡単に言うとストレスで胃に穴が開いたってこと。いかにもな病名だ。数日来の胸の疼きも、これで納得がいく(病名を告げられて「あ、やっぱり」なんて言ったものだから、母さんに睨まれてしまった)。

 外部からの刺激を避けるため、六人部屋じゃなく個室で、しばらく療養しないといけないらしい。




「いきなり電話かかってきて「裕が血を吐いて病院に担ぎ込まれた!」だもんなー。ビビッタぜ、マジ」


「あー・・・心配かけて、ごめん」


「いいって。謝るのは後でいいからさ、早く治せ」


「・・・わかった」


 そういえば昨日の夜、母さんにも同じこと言われたなあ。


 朝食を食べてないんだろう。いいペースでクッキーを齧るミオと、ぽつぽつ話をする。

 この所ずっと気を張って会話していたから、気の置けない話をするのがちょっと嬉しい。

 ミオがチョコクッキーを食べ終わった頃、ドアをノックされた。


「あ、伯母さんかな」


「たぶんね・・・どうぞ」


 力の抜けた僕の声は届かなかったらしく、ドアが開かない。

 仕方なくミオが立ち上がり、ドアを引いた。


「伯母さん、遅か・・・・・・・・・・・・・・・・アンタか」


「従妹殿か、ごきげんよう」


 ドアの向こうにいたのは、予想に反して母さんじゃなく小柄な女の子だった。彼女がドアをくぐると、胸に抱えた花束がふわりと揺れた。


「やあ、ユウ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こんにちは、あきらさん」


「昨日より顔色が良くなっているね。良かった」

 

 あきらさんが僕の顔を観察して、柔らかな笑みを浮かべた。今日の彼女は、軽快そうなライムグリーンのシャツとパンツ姿だ。


「花を持ってきた。花瓶を貸してもらうよ」


「はい。そこまでー」


 ベッドに近づこうとしたあきらさんを、ミオが遮った。手のひらを突き出して、あきらさんの前を塞ぐ。


「ミオ・・・・さん?」


 手のひらからミオに視線を移して、おきらさんが首を傾げた。


「裕に寄るな、触るなってこと。OK?」


「・・・・・・・・・・どういう事かな」


 あきらさんが表情を硬くする。


「ユウの病名、聞いたんだろ? カイチョーさん」


「聞いた。神経性胃炎とか。それから、私はもう生徒会長ではない」


「んじゃ、あきらちゃん。病名知ってるなら、近付いちゃペケってわかんだろ」


「胃炎は感染症ではないはずだが・・・・?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 苛立ち気味な先輩からミオは目を外し、こっちを向いた。


「裕。お前、まさか−」


「言ってない」


 聞かれるより先に僕は答えを返した。途端にミオの視線が険しくなる。


「このバカ! そんなんだからっ」


「やめたまえ。ユウの体に障る」


「ーっ!!」


 ミオは僕とあきらさんを交互に睨みつけた。あきらさんはストレートに視線を返し、僕は目を閉じて受け流す。

 また胸のあたりが熱くなってきた。


「それでミオさん、ユウに近づいていけない理由とは何なのだ。花瓶に花を活けることもできないのか」


「今はね。伯母さんが来たら、やってもらお」


「それは一体どういう」


「二人とも−」


 我ながら頼りない声だと思ったけど、ありがたい事に二人は話を中断してくれた。


「悪いけど、もう少し静かに・・・・・ね」


「・・・・・・わーったよ」


「失礼した、ユウ」


 素直に応じてくれた女の子たちに、僕は左手を上げて感謝した。ちなみに右手は点滴で動かせない。

 胸の熱さを追い出すために、何度も深く呼吸する。喉が笛のように鳴った。


「怒ったアタシも悪いけどさあ、ユウだってヒドいんじゃねーの? フツーさ、カノジョにそんな大事なこと隠すか?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「隠す・・・・?」


「だからストレスばっか溜めこんで、ぶっ倒れんだよ」


 ミオが口をへの字に結んだ。横目で先輩を見る。


「ま、あんだけ引っついて気付かなかった奴もアレだけど?」


 明らかな揶揄に、あきらさんが眉間に皺を寄せた。


「何の話をしているんだ?」


「いいんだ、ミオ・・・・・・あきらさんは悪くない」


 彼女に何も知らせなかったのは僕だ。

 最初は知らせる時期を見計らっていて、後半は知らせる必要がなくなった。

 知らなかったのは彼女の責任じゃない。


「あきらさん、気にしないで。ミオもそれくらいにして」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・ふん」


「ユウ、君は何を・・・・・」


 僕は答えなかった。胸の疼きがぶりかえそうとしている。痛み止めが切れたか、また出血したのか・・・・どちらにしろ、見てもらう必要がありそうだ。

 手探りで毛布に隠れたナースコールを見つけ、ボタンを押した。


「ごめん、二人とも・・・・・・ちょっと、気分が」


「・・・・・・・・・・・・・外にいる」


「・・・・・・・・・・・・・・・・」


 あきらさんは僕の顔を見つめたまま、サイドテーブルに花束を置いた。

 少しだけ衣擦れと足音がして、二人の気配が消える。

 同時に僕は、腹に溜め込んだものを押し出すように、長い溜め息を吐いた。


 ナースステーションに、ちゃんと情報が伝わってるといいんだけど・・・


「失礼します。仁科さん、どうしましたか」


 しばらくして、男性の看護士が病室に入ってきた。僕は安堵して体の力を抜いた。












 内科の先生の指示で弱めの痛み止めを貰い、看護士さんに清拭(体を拭くこと)してもらうと、さっきより気分が良くなった。

 タイミング良く、着替えを持った母さんが来てくれたので、寝汗で湿った室内着を替える。


「母さん、外にミオいなかった?」


「あら、ミオちゃん来てたの。廊下にはいなかったけど」


「そっか」


 けっこう時間経ってるしなあ。帰っちゃったか。


「裕ちゃん、このお花は?」


「あ、それ? さっき、あきらさんが持って来てくれた」


「あきらさん・・・・あ、昨日の子ね。来てくれたの?」


「うん。ミオと廊下で待ってると思ったけど」


 いないという事は、一緒に帰ったんだろうな。あきらさんも忙しい人だし。


 母さんは花束を手に取って、幾つかの種類で彩られたそれをじっと観察した。


「裕ちゃん、本当にお友達なの?」


「しつこいね。ただの友達だってば・・・・」


「ほんとに?」


「ホントに」


「困った子ねえ・・・このお花でわかりなさい」


 わかるかー。


「この花束、見た目は地味だけど気持ちが篭ってるわ。これはアカンサス、生命力を象徴する花。この桃色のはサイネリアで、花言葉は「元気」よ。病人向けにわざわざ集めたのね。季節遅れだから、手に入れるの大変だったんじゃないかしら」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「で、裕ちゃん。ホントにただのお友達?」


「・・・・・・・・・・・・知らないよ」


 そっぽを向くと、母さんはやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。

 あきらさん・・・・昨日は面会時間ギリギリまで病院にいてくれたらしい。さらに帰り際まで手を握って離さなかったそうだ。演技とはいえご苦労なことだ。おかげでまた一人、誤解する人が増えてしまった。

 僕的には、あきらさんに手を握られてる間に目覚めなくて良かったと思う。もし起きてたら・・・・想像したくないけど、きっと大惨事だったろう。

 てゆーか、僕の体を知ってるなら止めさせてよ、母さん。



「あの女の子って、惣右衛門のお嬢さんなんでしょ? 礼儀正しくて、感じのいい子じゃない」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあ」


 外面はね。


「あんな子に好かれてるのにストレスで倒れちゃうんだから、裕ちゃんも難儀な体質ねえ」


 大きなお世話です。


 母さんの勘違い(というか、普通は母さんみたいな見方になるんだろうけど)を聞き流しながら、どうやってマイルドに修正しようか考えていると、控えめにドアを叩かれた。


「はい。どうぞ」


 声の弱った僕の替わりに、母さんが入室を促す。わずかに間をあけて、白いスチールのドアがそっと開いた。


「・・・・・失礼します」


「あら、惣右衛門さん。昨日はお世話さまでした」


「あ・・・・・おばさま・・・・・・こんにちは」


 あきらさんは僕の母親を見て一瞬目を見開いたけど、すぐに会釈した。


「あれ、ミオは帰っちゃいました?」


「うん、約束があると言っていた」


「そうですか」


「残念。ミオちゃん、帰っちゃったの・・・・そんな事より惣右衛門さん、大丈夫? お顔の色が良くないわ」


 話の途中で、母さんが目敏くあきらさんの異常に気がついた。たしかに、さっきより血色が悪くなってる。心なし表情も優れないようだ。


「いえ・・・・問題ありません」


「ダメダメ。ウチの子もそう言ってて、いきなり倒れたんだから。看護士さん、呼んだほうがいいかしら」


「大丈夫です」


 あきらさんは頑なに首を振った。


「それより・・・・・少しだけ御子息とお話をさせていただきたいのですが」


 ドア近くに立ったまま、表情をなくした顔で僕を見つめる先輩。

 母さんはそんな彼女に何かを感じたらしく、すっと腰を上げた。


「ちょっとお茶を飲んでくるわ。裕ちゃん、何かあったらすぐにナースコールするのよ」


「わかった」


「お気遣い痛み入ります。おばさま」


「気にしないで」


 頭を垂らしたあきらさんに気遣わしげな視線を投げて、母さんは出て行った。

 油圧式のドアがゆっくりと閉まる。軽い金属音を立てて部屋が閉ざされると、彼女は顔を上げた。


「ユウ・・・・・・」


 ぽつりと僕の名を呼んで、沈痛な表情のまま立ちつくす。

 その様子ですぐに悟った。

 あきらさんは事情を知ったんだ。たぶんミオから。

 どの道あそこまで聞かれてしまえば、説明しないわけにはいかなかったけれど・・・

 ただ、余計な仕事を押し付けた形になってしまったミオに、申し訳なく思う。後で電話しよう。



「あいつから聞きました?」


「うん」


「そうですか」


 単なる事実の確認なのに、なぜか溜め息が漏れた。


「ユウ、君は・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「何故、話してくれなかったんだ」


 予想通りの言葉だった。

 本当なら訊かれることもなく、当然答えるはずがなかった質問。

 けれど、知ってしまった以上は避けられない疑問。


 なぜ教えなかったのか。


「それは−」


 目を閉じた。



 どう答えるか・・・・・



 今までの僕だったら、当たり障りのない嘘でテキトーに誤魔化そうとしただろう。

 だけど、心と体がもう限界だ。とっくにメーターは振り切ってたけど、オーバードライブを超えて血を吐く所まで来てしまった。

 これ以上の嘘は、僕が耐えられない。



 言おう。



 いま本音を出さなければ、これからも彼女との関係が続く。その恐ろしさが背中を押した。


 たった一日ベッドで寝ていただけなのにすっかり重くなった体を、ぎこちない動きで起こす。あきらさんに正面から視線をぶつけた。



「・・・・らさん」


 うあ〜。せっかく気合を入れたのに、喉が渇いてたせいではっきり名前を呼べなかった。

 僕ってとことん、カッコつけるのが似合わない。


「えっと、あきらさんに体の事を知らせなかったのは、その必要がなかったからです」


「・・・・!」


 彼女がピクリとした。


「必要なかった・・・・?」


「そうです」


「必要ないわけないじゃないか。私たちは−」


「お友達、ですよね」


「その通りだ。何か問題点があるなら、お互いに知らせておくべきだろう? 特に君のような体質の場合、隠すことは良くないと思う」


 その口でよく言いますね。


「残念ですけど・・・・説得力ないです。あきらさんだって隠してたじゃないですか」


 そしてあの偶然がなかったら、彼女はきっと隠し通していただろう。


「・・・・・・・ユウ?」


 あきらさんはきょとんとしていた。さすがに演技じゃないと思うけど、わかりはしない。それに演技かどうかなんて、もうどうでもいい。

 いちど振ってしまった賽は戻せない。口から出た言葉は消せない。すでに最後の一線を踏み超えてしまったんだ。


 胸に手を当てる。よし、まだ大丈夫だ。まだ行ける。

 ただし血を吐くようなマネはするな。気持ちを抑えろ、仁科裕。


「いったい何の話をしてるんだ。私にはさっぱり」


「誰かさんが、嫌いな男と結婚しないために後輩を当て馬にした、という話です」


 彼女の喉が「ひぅっ」とおかしな音をたてた。そのまま石の像にでもなったように固化する。


「副会長さんの発案で偽の恋人を仕立て上げ、周囲に見せびらかせて、相手から婚約解消に持ち込ませる・・・・でしたね。見事に成功したようで」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「偽装期間は夏休みまでと聞いたので、それくらいならガマンできるかなって思ったんです。結局こんな事になって、御迷惑をおかけしちゃいましけど」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「・・・と、僕の体についてお知らせしなかった理由は、そんなトコです」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・あきらさん?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 血の気が引く、なんて使い古された言い回しだけど、それを目の前で見られるとは思わなかった。元より血色の悪かった顔が、みるみる蒼白になっていた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・から・・・・・・・・」


「え?」


 搾りだされたような声は、僕に届かなかった。

 皿のように見開かれた、彼女の瞳。それは焦点が飛んでて、僕を見ているようで見ていない。


「いつ・・・・から・・・・・知って・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 答えなかった。そんなの、どうでもいいことだ。


「それより、あきらさん大丈夫ですか。看護士さん、呼びますか」


 反応なし。

 これはいよいよナースコールかな、と思ったら、あきらさんが口を開いた。思ったよりしっかりした口調で。


「ユウ・・・・何故だ・・・・・」


「はい?」


「君は、知っていた・・・・・・」


「・・・・・・・・・」


「知っていたのに・・・・・・・何故・・・・・・・・」


「なぜって」


 そんなの決まってる。


 僕は感情をそのまま顔に乗せた。


「あきらさんを嫌いになれなかったから、ですよ」


「 ! ! 」


 細い、彼女の肩が大きく震えた。蒼白だった顔が、瞬間沸騰したように赤熱する。

 そして動いた。

 飛びつくようにドアノブを握り、体を傾けてドアを押し(引きドアだからゼッタイ開かない)、次に反対へ体を傾けて扉を引く。

 ドアが壁に衝突して立てる騒音をBGMに、あきらさんは部屋を飛び出していった。





「・・・・・・・・・・・・・・・・・何だかなあ・・・・・・・・・・・・・」





 壁がコンクリートでよかった。ボードとかだったら壊れてたよ、きっと。

 ゆっくりと戻るドアに溜め息を吐く。


 静寂を取り戻した部屋で、体をベッドに横たえた。


 言うべき事は言った。

 僕は楔を打ち込んだ。二人の間に、決して抜けない楔を。

 彼女も理解したはずだ。




 終わった・・・・・・・・・・


 声を出さずに呟き、目を閉じる。




 この先どうなるか、わからない。向こうの対応も予想できない。

 だけど一つだけハッキリしてる。

 僕達は、二度と元に戻れない。

 終わったんだ。全部。



 あまり時間が立たずに、またドアが開いた。


「ちょっと裕ちゃん、すごい音がしたけど何かあったの?」


 母さんの声だ。僕は「別に」とだけ答えた。


「惣右衛門さんは?」


「帰った」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう」


 ベッドのすぐ近くで溜め息が聞こえた。

 母さんも思うことがあるんだろうけど・・・相手をする気になれなかった。

 いずれ訊かれるとしても、今は余韻を味わいたかった。




 終わった。




 終わったんだ。




 複雑な感情のスープが心の海をたゆたう。



 それは嬉しさと、


 寂しさと、


 喜びと、


 悲しみと、


 爽快感と、


 自責の念。





 いつの間にか、さっきまで胸を押さえていた熱さが消えていた。台風一過の朝みたいに、すっきりした感じ。

 目を閉じたまま、胸の裡に吹く風を味わう。

 沈み込むような感覚が全身を覆った。体の求めに素直に従い、寝台に体を預ける。

 不意に睡魔が訪れた。

 まだ午前の早い時間だというのに・・・・



 まあ、いいか。

 今は夏休み。そして僕は病人だ。

 朝から寝ても問題ないよね。



 今回は悪夢を見ないだろう。

 根拠のない安心感があった。理由も何もないけど。

 でも大丈夫、きっと。

 僕は睡魔に身を委ねる。



 もう一度だけ呟いて。









「やっと、終わった」





















 ずんずんずんずんずんずん。



 ガチャッ!


 どすんっ。


 バシン!



「おかえり」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「根岸さん。車を出して下さい」



「かしこまりました」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



「窮鼠に噛まれた、か」



「うるさい!!!」





























 それから一週間−



 退院まで、あきらさんが病室を訪れることはなかった。









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