真紅!






「−っ!?」



 脳裏を埋め尽くしたイメージが、僕を安息から放り出した。

 肩がごきりと折れんばかりに強張り、目を見開く。


 赤!


 現実でも赤!


 ぼやけた視界を占めたのは、黒ずんだ赤。

 起き抜けの嗅覚を占めたのは、生臭さ。

 鉄の臭い。

 ・・・・・血臭


「っ!」


 反射的に鼻を覆うと、湿った感触が手に当たる。


 ぴちゃり。


 粘着質の水分がぬるりと掌を滑る。つんとした刺激が鼻腔を通り抜ける。


「うへ・・・・・」


 ぺったりと手に付着した赤を見て、溜め息が漏れた。

 こりゃひどい。

 僕の人生で一、二を争う、サイテーの目覚めだ。

 枕からシーツまで染めたダークレッドに、鼻から下を覆う水分と異臭。それらが不快感の理由を明らかにしていた。


「とりあえず−」


 母さんに謝らなくちゃ。


 鼻血に染まった布団を見下ろして、首を垂らす僕。

 喜ぶべき一学期最後の日は、惨憺たる朝から始まった。

















 「休め」という親を振り切って、家を出た。

 心配してくれるのは感謝すべきだろうけど、たかが鼻血で学校を休めるもんか。

 まあ確かに、今朝のはびっくりする出血量だったけど?

 でも鼻血くらいで終業式をサボってらんないよ。特に今日は。

 今日だけは絶対に休めない。

 手を胸に当てる。最近クセになった手振りだ。試験の少し前から胸中に疼きが住み着いて、無意識に手をやるようになった。

 いつもの熱い滞留が、今日は心なし軽く思える。

 ちゃんと体もわかってるんだ。今まで負ってきた荷が、少しだけ減ることを。

 そうとも。今日で終わりだ。


「やっと終わる・・・・」


「何が」


「ひゃっ!?」


 肩口から投げかけられた声に、思わずつんのめった。

 数歩たたらを踏んで振り向くと、見慣れた友達の顔。


「なんだ、マサかあ。驚かさないでよ」


「んなつもりはねーよ。俺としちゃ、裕がいきなり話しだしたのが怖かったぜ」


 長身のマサが仏頂面で言う。


「お前さあ・・・・小坊じゃねーんだから夏休みくらいで浮かれんな」


「え、いや、別に、浮かれてなんかないよ?」


「ウソつけ」


「いやいや、マジだって」


 夏休みだからって浮かれるわけないじゃん。もっと別の理由だよ。


 今日に限ってゆっくりペースで歩くマサに合わせて、無意味な問答を続ける。

 コンビニの前を通りかかった時、クラスメートの女の子が店から出てきた。

 その子は僕らに気がつくと、人懐こい笑顔で挨拶する。


「はよ〜、片岡ちゃん、仁科ちゃん」


「おはよ、ネコさん」


「うぃっす」


 ”ネコ”はもちろんあだ名だ。本名は大熊 音子(おおくま おとこ)さん。

 最初に「オオクマネコ」ってゆーあだ名が付いて、短縮形のネコになったわけ。

 ネコさんはレジ袋から銀色のアルミパックを取り出すと、キャップを捻った。「コンニャクビタミン」と書かれたゼリー状栄養補給ドリンクを咥える。

 マサがネコさんを見下ろして、鼻を鳴らした。ま、マサの身長だと大抵の人は見下ろされるんだけどね。


「ネコ、また朝飯抜きか? 健康に悪いぞ」


「ダイエット中なの。海に行くまで、あと3キロ落とさないといけないのよぅ」


「間食やめりゃいいのに」


「余計なお世話〜」


「あはは。マサは朝食第一主義者だからね」


 コンニャクゼリーを吸いながら歩くネコさんを道連れに、僕らは学校へ歩き出した。


「そういや、裕も朝飯食ってきたか?」


「食べたよ。少しだけど」


 このところ食が細くなって、朝はお粥くらいしか食べられない。それでも一応、何か口にいれるようにしてる。


「仁科ちゃん、痩せたじゃない」


「え、そうかな」


「そうだよな。コイツ痩せた」


「どーやってダイエットしたのよ?」


「んー・・・特にダイエットなんてしてないけど」


 ただ本心とかけ離れた演技をして、虚偽に塗り固められたコミュニケーションと過剰なスキンシップに耐えてるだけです。


「えーっ、それウソだよ。そんな簡単に痩せれるなら、アタシだって痩せてるはずだもん」


「お前は間食しなきゃいーの」


「うっさいわねー。あたしからお菓子を取ったら何も残んないのよ? 片岡ちゃんはアタシに消えろと言うつもり?」


「ネコさん、大袈裟」


「大袈裟じゃないよー。クレープとドーナツと鯛焼きと甘太郎とあんみつとショコラとフルーツパイとジェラートとパフェと(以下略)は乙女の主要栄養素なのよっ」


「小学校から家庭科と栄養学を学び直してこい。つか、そんな乙女生物はいねえ」


「きーっ! コイツ、なんかムカツク!」


(仲がいいなあ〜)


 じゃれ合う二人を見ていたら、自然と笑みが浮かんだ。


「裕、なんだよ。ニヤニヤして」


「え、僕?」


「仁科ちゃん、おもろい顔〜」


「おもろいって何さ・・・」


 苦笑しながら二人を見た感想をストレートに伝えると、なぜか生温かい目付きをされた。


「仲がいいのはお前と会長だろ」


「そーそー。学校イチのバカップル〜」


「そんなことないって」


「そんなことあるよ〜。バカップル」


「ああ。バカップル以外の何ものでもない」


「バカップル言うな」


 うーん、あきらさんの演技力って、ホントすごいなあ。みんな、すっかり信じ込んでるよ。


「んで、会長さんにベタ惚れの仁科ちゃんとしては、夏休み中はどうすんの? デートしまくりなんでしょ?」


「しないよ」


「えーっ!?」


「それはウソだろ」


「ウソなんて言わない。あきらさん、受験生じゃん」


 それに、今日で終わりだし。


「あー、そっか。仁科ちゃんも辛くなるねえ」


「あはは」


 同情に空笑いで答えた。


 残念でした。

 辛かったのは今日まで。


「まあ・・・・・ガンバレ」


「ありがと」


 応援してくれるマサに、僕は正反対の意味を含めて応じた。

 彼らの認める「バカップル」が今日にも別れると言ったら、どんな顔をするだろう?

 腹の底からわき上がる感情を押し殺すため、僕は俯いた。





 今日で終わり。




 今日で終わり。




 今日で終わり。






 今日で終わりだ!




















 今日の終業式は、今までで一番長く感じた。

 僕の学校では、一学期の終業式と同時に生徒会の引継ぎ式も行う。

 事務の引継ぎ自体は投票直後から行っているから、今日は儀式だけだ。

 壇上のあきらさんは、いつものように余裕のオーラを放っていて、ぎこちなさの残る新生徒会長の男子と好対照を成していた。

 今までと違ったのは彼女の目線。

 期末試験までは、あきらさんは壇上に上がるたびに、一瞬でも必ず僕に視線を送って来た。

 今回は、それがない。

 些細な点とはいえ、僕には十分な予告効果があった。

 盛大な拍手を浴びながら、先代生徒会が講堂から退出する。

 アルカイック・スマイルを浮かべて歩み去るあきらさんは、最後まで僕を見ることがなかった。








 終業式が終わったら、皆も完全に夏休み気分だ。

 成績表を受け取る時間ももどかしそうに、じりじりと終礼を待っている。

 そして僕も待っている。

 成績表でも、ありがたくない担任の講話でもなく、ただ一つの知らせだけを。

 だから放課後、バイブレーターがメールの着信を知らせた時、思わず「来たっ」と呟いてしまった。

 焦る気持ちを抑え、液晶を覗く。






" 話がある。屋上へ来て欲しい  あきら "






(・・・・・・・よし)


 ケータイを握る手に、力がこもる。


 いよいよだ。


「どうした、裕」


「ん? ああ、ただのメールだよ」


「どうせ会長さんからだろ」


「まあね」


 半目でこっちを見るマサに、できる限りの仮面をかたち作って表情を覆う。


「んじゃ、先に帰るぜ。がんばりな」


「・・・・・・ありがと」


 期待には全く添えないけどね。がんばって道化を演じきってみせるよ。


「ネコ、休みだからって間食すると太るぜ」


「ムキーッ! わかってるわよ、このウドの大木!」


 マサが帰り際ネコさんにちょっかいを出して、また騒ぎ始めた。楽しそうな二人を眺めて、僕は少しだけ羨ましくなった。


 あの人も。


 あれが演技でなかったらどれだけ−


「・・・・・・・・・なんてね」


 そんなわけ、ない。

 前提条件が変わらない以上、どうしようもない。

 僕は真紅と共にある。

 真紅が染み付いている。

 それはどうしても外せない硬い枷。

 それは死ぬまで引きずっていくしかない重い錨。

 相手が誰でも、本気でも嘘でも、結果は同じ。

 それが呪いだから。

 僕の行き着く先は、ただ一つ−



「ふう・・・」



 中身の入ってない鞄を取り上げた。

 別れ話を長引かせるつもりはない。

 ここまで頑張ったのだから、最後まで馬鹿で通すだけ。

 怪しまれない程度に粘り、駄々をこね、嘆くフリをして、身を引くんだ。

 それで相手は満足し、僕も安心できる。

 一件落着だ。





 ・・・・・・・・・・・・・・・・・よし。






 行くぞ。




















 終業式を終えた学校に、用のある生徒は少ない。

 屋上に用のある生徒は、さらに少ない。

 開け放しの扉をくぐると、案の定、そこには彼女しかいなかった。

 幾筋かの白雲たなびく青空の下、広い屋上の真ん中。

 いつものように背筋を伸ばして、彼女は立っていた。

 こっちを見つめる人形のような顔。

 感情を削ぎ落とした、能面の表情。

 彼女の様子からこれから起こるイベントを想像し、胸が熱くなる。

 心臓の鼓動が強まる。

 落ち着くために、わざとゆっくり歩いた。

 あきらさんまであと3メートル。

 彼女が口を開いた。


「やあ、ユウ」


 はいはい。そこで話せというわけですね、お嬢様は?


 いつもより遠い場所で立ち止まり、彼女に頭を下げる。


「お待たせしました。あきらさん」


「いや、大丈夫。そんなに待ってない」


「はい・・・・あの、生徒会のお勤め、お疲れさまでした」


「ありがとう。肩の荷が下りて、ほっとしているよ」


 感情のこもらない儀礼的な会話が、風のない宙を滑った。

 僕はあらかじめ用意していた顔・・・・「僕はなんにも知りません」といういつもの呆け面・・・・で、あきらさんが動くのを待つ。

 彼女は見るからに落ち着かない。俯きがちに防水シートの貼られた床を見下ろし、顔を上げてはフェンスの向こうに広がる水田を眺め、また僕の背後を見るともなく見る。意図的に僕と目を合わせないように。

 

「あきらさん・・・・?」


 呼びかけると、彼女はわずかに肩を震わせた。

 ゆっくりと顔を僕に向け・・・・視線が交わった瞬間、瞳を閉じる。

 再び俯いて深呼吸する彼女に、僕は内心で拍手を送りたい気持ちだった。


 なんて自然な演技だろう・・・・・非の打ち所がない。


「あの・・・・お話って、何でしょうか」


 小首を傾げて問いかける。セリフが大根役者な棒読みなのは勘弁してもらおう。誰もがあきらさんみたいになれるワケないんだから。


「ああ。それはね」


 もう一度、溜め息を吐くあきらさん。僕に聞こえないような小声で何かを呟く。

 次の声色は、彼女らしからぬ弱々しいものだった。


「・・・・ユウ」


「はい?」


「実は・・・話というのは、私たちのこれからについてなんだ」


「・・・・・はあ」


 来た来た。


「知っての通り、生徒会長を退任した私は受験対策に本腰を入れなければならない」


「ええ。わかります」


 ちらりと僕を見たあきらさんに、頷いてみせる。彼女は慌てたように視線を外した。


「それで・・・・・・その」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 僕は胸の熱さを抑えるように、深く静かに息を整えた。


「ユウ」


「はい」


「どうか・・・・怒らないで聞いて欲しいのだが」


「?」


「私は・・・・私たちが過ごす時間を、少し減らしたいんだ」


















は い ?












 話の意図をつかめず、思考が停止してしまった。

 あきらさんは僕の反応を見てどう受け取ったのか、少し焦ったように言葉を重ねる。


「私としても心苦しいのだが、夏休みからは予備校や家庭教師に大きな時間を割くことになる。今までのように、週に何度も遊びに出ることは難しくなるはずだ」


「はあ・・・・・・・」


 わかった。ここまでは理解できた。受験勉強で忙しくなるのは、三年生なら当然だもの。


「しかし、私にとってユウと過ごす時間はかけがえのないものだ。将来のためとはいえ、君のいない生活を続けるなんて想像できないし、耐えられない。
 ユウは私の安らぎであり、心の潤いだから。君を失っては、私はどうにかなってしまうだろう」


「・・・・・・・・・・・・はあ」


 それはつまり、アレですか?

 勉強で溜まった鬱憤を僕というオモチャで解消しないと、心のバランスが崩れるというわけですか。


「こちらの都合ばかりで申し訳ないが、どうか身勝手を聞き入れて欲しい。私も、君が・・・・その、他の女の子に目を向けないよう、時間を作る努力をする」




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」




 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっと−




「ユウ・・・・」




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」






 会う時間を減らしたい?






 ”別れる”じゃなくて?






 別れるんじゃなかったの???






「お・・・・怒った、かい・・・?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・あきらさん


「う、うん」


 事ここに至って、あきらさんも、僕の様子が正常じゃない事に気付いたようだ。彼女らしくない、すこし気弱げな眼差しでこちらを見つめている。

 そして僕はと言えば、みっともないくらい頭が真っ白だった。

 今までカッコつけて考えてた作戦とか決めセリフなど、どこかへ丸ごと吹き飛んでしまった。




 胸が熱い。




 別れるんじゃなかったの? 




 胸が熱い。




 別れるんじゃなかったの? 




 胸が熱い。




 別れるんじゃなかったの? 




 胸が熱いよ。




「別れ話、じゃ、ないんです、か・・・・?」



「違う!!」


「っ!?」


 思わず直立不動になってしまうほど激しい答え。


「いま言ったばかりじゃないか!

 ユウのいない生活なんて耐えられない!

 私には君が必要なんだ!

 どうしてそんな事を言うんだ!?

 ユウは友達じゃないか!

 別れるなんて冗談じゃない!」


「冗談・・・・じゃ・・・・ない・・・・?」


「そうだよ! だからっ! そんな事は言わないでくれ!」






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ−









 目の前が真っ暗になった。













「私はいま、人生最高と言えるほどの遊びをしているんだ」







まだか







「お前のせいだ!」






まだ続くのか






「ユウは面白いぞ。あはははははは!」






空言と虚礼に身を固める日々が






「お前のせいで死んだ!」






誇りをなげうって玩具と化す時間が






「アレは最高のオモチャだよ!」






心を押しつぶして偽りの笑顔を振りまく愚行が






「ぜってえ許さねえ!」






続くのか






「ふふふふ。今日はどんな手で遊ぼうか」






「この人殺しがあああああああああ!!!」






これが−













呪 い だ



 















 僕のせいで





 僕が負った





 決して消えない





 決して逃がれられない





 決して終わらない





 呪いだ





 胸の熱さが喉を駆け上がった。











「 あ゛ 」



「・・・・・・・・ユウ?」



「 あ゛   あ゛    あ゛ 



「ユウ・・・・君は・・・・・・っ!?」



「 あ゛      あ゛   あ゛        あ゛

あ゛  あ゛      あ゛      あ゛

あ゛        あ゛   あ゛ あ゛       」













「 あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ !!!!!





















 真紅!










 真紅の映像!





 真紅の臭気!





 虚実を埋め尽くす・・・・!





「ユウ!? 血がっ、血がっ!」





 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい





 熱い!





 胸が!

 




 喉が!





 口が!





 熱い!





「勝次、来てくれ! ユウが! ユウが死んじゃう!?





 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい





「保健の先生を呼んでこい! それと救急車!」





「ユウ! 答えて! ユウ!?」





 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい









「ユウ−−−−−−ッ!!」



















「ごめ・・さい・・・・・・・まお・・・・・・・・・」