朝。
校門をくぐると、彼女が駆けてきた。
「おはようございます。あきらさん」
「おはよう、ユウ。まだ顔色が良くないが、大丈夫なんだろうね?」
あきらさんが、いかにも待ちかねた様子で僕の顔を覗き込む。
軽くお辞儀して答えた。
「はい。ご心配をおかけしました」
顔を上げると、心配そうに眉をひそめるあきらさんと目が合う。
「本当に心配したんだぞ。お見舞いを謝絶された時は、そんなに重いのかと胸が苦しくなったほどだ」
「すみません。伝染(うつ)してしまってはいけないと、母も僕も考えたので」
「それは君の母上から聞いた。ともかく治ってよかった」
「はい」
「しかしくれぐれも自重して欲しい。風邪は治りかけが肝要だからな」
「わかりました。気をつけます」
僕の風邪は意外と重く、学校に復帰するまで三日もかかった。
その長い時間を使って、僕はあきらさんへの対処法と打開策を考えた。
顔を合わせた途端にブチ切れてケンカ別れする下策から、用意周到に罠を張って下克上を狙う高級戦略まで、何通りもシミュレーションしてみた。
どれも上手くいきそうにない。机上の空論ばかりだ。
思い余ってインターネットで「他人を上手に騙す方法」なんてWebサイトまで調べてみた。
そうしたら、トップページにいきなり書いてありましたよ。
” 自分より賢い相手を騙そうとするな ”
・・・・・・・・ダメじゃん。
相手は惣右衛門あきら・・・・我が校随一の才媛で、全校を容易に手玉に取る強敵だ。そのうえバックに惣右衛門一族が控えてる。
どこを取っても、彼女のほうが一枚上手。僕に彼女を上回る部分があるとしたら、せいぜい身長と体重くらいだ。
どうすればいいのか。
どうするべきなのか。
七転八倒しながら悶々とした三日間。
出した結論は、「現状維持」だった。
屋上で聞いた話が本当なら、彼女の遊びは夏休みで終わる。本格的な受験勉強が始まるからだ。
それなら勝ち目のない戦いをするより、幕引きを待ったほうがいい。下手な手を打って学校中を敵に回したり、惣右衛門家に睨まれるのもゴメンだ。
社会的評価も信用も、あきらさんのが遥かに上。流言が広まって不利になるのは圧倒的にこっちだもん。キレイに終われば余計な波風は立たないはず。
要するに、首をすくめて我慢してれば、嵐は過ぎ去るだろうって事。
・・・・・そこ、ヘタレとか言うな。こっちだって必死なんだから。
「何か変わった事、ありませんでした?」
「特にないが、私は体重が減った」
「それは−」
「君のせいだ。ユウが気になって食事が喉を通らなかった」
「・・・・・・すみませんでした」
「悪いと思うなら、栄養補給に付き合ってもらうよ。放課後に”エラ・カムラト”へ行く」
「謹んでお供します」
あきらさんと肩を並べて昇降口へ。
彼女がどんなに心配していたかを聞かされながら、僕は心の中で感嘆の声を上げていた。
この人、天才だ!
最高の俳優は役の人格と一体化すると言うけど、その実例を目の当たりにするとは思わなかった。
今のあきらさんは「カレシを心配する女の子」そのもの。これは演技だと言ったところで、誰も信じないだろう。事情を知ってる僕ですら雰囲気に呑まれかけた。
副会長の言う通り、恐ろしいヒトだ・・・
分かれ道に至っても体調管理の重要性を諄々と説き続けるあきらさんに、僕は風邪じゃない寒気を覚えた。
教室ではマサと数人の同級生に具合を聞かれただけで、僕は日常に復帰した。
風邪なんて誰でもかかるし、下手に騒がれても困る。放っといてくれるのが一番だ。僕は目立たないのが好きなんだから。
それにしても、今朝はいつも通りに振舞えただろうか?
多少ぎこちない点があっても風邪で誤魔化せそうだけど、疑わせずに済むならそのほうがいい。
あきらさんと「お友達」になってから、約一ヶ月。
神経と心臓に悪い一ヶ月だった。
そして更に夏休みまで、試験を挟んで約一ヶ月。
もっと酷い一ヶ月になるだろう。
きっとそうなる。
・・・・・でも。
何としても絶対に、僕は馬鹿を貫かねばならない。
できるできないじゃなく、やらなきゃだ。
僕は決めたんだから。
3時限が終わると同時にメールが飛んできた。送信者は言うまでもない。
今日の昼食は君の教室で食べよう、と書いてある。僕の体調を気遣ってのことだろう。
有難くて涙が出るね。
いつも通り簡潔に返信して、胸ポケットにケータイを収める。
「三日ぶりのラブコールか。楽しみだろ?」
「まあね」
振り向いたマサに僕は笑顔を返した。
・・・・僕は強くなる。
強くなるんだ。
だから逃げない。
僕は逃げないぞ。
地獄が始まった。
「あきらさん、この店の名前ってどういう意味ですか?」
「”エラ・カムラト”か? 以前、店の者に聞いたらスウェーデン語で仲間と言っていたな」
「・・・・・ここ、フレンチ・デザートの店ですよね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「まあいいじゃないか。美味しければ」
「そうですけど、五個は食べすぎでは・・・・」
「栄養補給と言っただろう。さあ、ユウも食べなさい。ここのミルフィーユは絶品だよ」
「見てるだけでお腹いっぱいです」
あきらさんは学校でもあからさまだけど、外ではさらに奔放だ。何か理由を見つけては駆り出され、縦横無尽に連れ回される。
そうして小さな手に引かれて街を歩いてると、どっちが年上かわからない。大金の遊園地へ行った時は、服装がもろに少女趣味だったせいで、完全に子ども扱いされた。ピエロのお兄さんに飴玉を貰って、喜ぶどころか「私は子供じゃないっ!」とハリセンの一撃を食らわすところだった。てゆーか、どこから出したんだ、ハリセン。
「まったく無礼な輩だ・・・」
「そうですね」
「この私が小学生にでも見えたというのか。内面から滲み出る大人の魅力に気付かないとは目の悪い」
「そうですね」
「それとも家の者の見立てでは、私のスタイルに合わないのか・・・」
「そうですね」
「ユウ、私の話を聞いているか・・・・・?」
「聞いてます。ちゃんと聞いてますからハリセンは止めて下さい」
休日は何度か映画館に行った。
日頃の振る舞いから、サスペンスかシリアス物が彼女の好みかと思ったら、意外や意外。惣右衛門のお嬢様はベタベタの恋愛映画がお気に入りだった。「時を超えた愛」を謳う某ムービーは一日で三回も見たほどだ。あきらさんは目をキラキラさせて見入っていたけど、僕は眠らないように必死だった(寝ると怒るんだもん)。
ちなみに彼女は映画館で、いつもさりげなく通路側の席を確保していた。暗がりで変な事をされそうになっても、すぐ逃げられるってわけ。
ある日の屋上。
「今度は僕の勝ちですよ」
「ふむ、それは困ったな・・・・」
「レイズ50です」
「50か。強気じゃないか」
「あはは。ドロップするなら今ですよ」
「ふむ・・・まあいい、手持ちはあるしな。チェックだ」
「後悔しますよ? ダイヤ・エースのフルハウス!」
「スペードのストレートフラッシュ」
「えーっ!?」
「ふふ。残念だったね、ユウ」
「酷いですよ! あんな素振りしといてーっ」
「ポーカーは確率と読みと駆け引きのゲームだよ。負け犬の遠吠えはよろしくないな」
「うううううう」
「お前ら、何してるんだ」
「おや、副会長か。大したことじゃない。泰山茶荘の芝麻球(チーマーカオ)を賭けて、少しね」
「うううううううううううううう」
「おい、仁科。お前は知らないのか。会長はラスベガスのプロにも勝った腕前だぞ」
「ひーっ!?」
「こらこら。副会長、バラしちゃ駄目じゃないか」
「あきらさん、ズルい! この勝負なしです!」
「なに!? ユウこそ途中で降りるなんてズルいじゃないか!」
「ガキの喧嘩かよ・・・・・」
試験一週間前。
「ユウ、期末試験の勉強はしているのか?」
「えっとー・・・ぼちぼちです」
「君は理数系が苦手だったな。数学は大丈夫か?」
「んー・・・・たぶん」
「化学はどうだ? 二年は反応式で減点が増えるというぞ」
「まあ・・・・・できる、かな?と」
「全くもって安心できない返答だな。よし、私が見てあげよう。放課後、図書館に来るように」
「えー」
「あ・り・が・た・い・だ・ろ・う?」←ハリセンを出しながら
「是非ともご教授願います」
「よろしい」
あきらさんの教え方は、要所の指摘と反復に尽きる。つまり、テストに出るところだけピックアップして繰り返しで頭に叩き込むわけ。
これが本当に勉強になるか知らないけど、テスト対策として一番要領がいいと言える。
とはいえ、あきらさんの授業が全部プラスになるかと聞かれると、もちろんそうじゃなくて。
「あの、あきらさん」
「何だい? ユウ」
「こっちを見られてると、集中できないんですが・・・」
「気にしないでくれ」
「無理です」
「いいかい、ユウ? これは個人授業のささやかな報酬だよ。君は教科書を見て知識を得る。私は君を見てモチベーションを得る。二人ともハッピーになる。悪い事は何もない」
「でも、それだとあきらさんの勉強が進まないんじゃ」
「私は惣右衛門あきらだぞ。そういうセリフは私のノートを見て言って欲しい」
↑
びっしりと書き込まれたノートを見せる。
「・・・・おみそれしました」
「ふふふ」
試験三日前。
「ユウ、君は最近、痩せたんじゃないか? 顔色も良くない」
「そうですね・・・・遅くまで勉強してるせいか、眠いです」
痩せるに決まってる。顔色だって悪くもなる。命を削って「お馬鹿さん」を演じてるんだから。
・・・・・いや、馬鹿は本性だけど「知ってる事を知られないフリ」が難しいの。すごく。
「勉強は大事だが、体を壊して試験を受けられなくなったら元も子もないぞ。それと睡眠不足は食欲も減退させる。ちゃんと食事を摂っているかい?」
「そういえば、食欲があまり・・・」
胸がキリキリするような毎日を過ごしてたら、食欲なんて沸くはずがない。
「そうだろう。しかし栄養は大事だ。消化の良いものを選んで、きちんと三食を食べるように」
「わかりました」
「君に何かあったら、私も困る。体を大切にしてほしい」
それは困るでしょう。お気に入りのオモチャが壊れたら。
本音が見えても、顔には出せない。言いたくても言えない。
そして僕は微笑を浮かべて言うのだ。
「ご心配ありがとうございます。あきらさん」
ああ、胸が痛い・・・・
一学期の期末試験。
僕は過去最高の成績を獲得した。
あきらさんは(表向き)とても喜んでくれた。
当の彼女は当たり前のように学年トップ。これで通算八回目だって。
僕の点数については、あちこちからやっかみの声が聞こえた。けど、全部無視。
みんな知らないんだ。こっちが多大な代償を払っている事を。
テスト返却の日。試験のお礼にと、珍しく僕からあきらさんを誘った。
場所は前に入ったことのある”パティスリー・ONODERA”というケーキ屋。
ところが好物のフロマージュ・クリュを前にして、あきらさんの様子がおかしい。
何か言いたそうに僕を見て、目が合うと視線を落とす。
「あきらさん、食欲ないですか?」
「い、いや。そんなことはない」
「・・・・・・もしかして、誘ったのご迷惑でしたか」
「まさか。ケーキは美味しいし、私は楽しんでいるよ」
そう言いながら、ケーキの減り方は遅々として進まない。
彼女の様子から想像できた。
いよいよ、その時が来た、と。
もうすぐ夏休み。
あきらさんは別れ方を考えているはずだ。
もしかしたら気のない素振りを見せるのも、彼女の計算かもしれない。
ケーキを奢ってもらったのにつまらなそうにしていれば・・・・普通は減点評価だよね。
そうやって少しずつ心象を悪くしておけば、いきなり別れ話を持ち出すよりダメージが少ないだろう。
別れた後も「ヨリを戻したい」なんて言い寄られることはない。
そう考えると、あきらさんの不可思議な言動も納得できる。
ていうか、この人はホントにすごい。常に先を読み、機転がきき、演技力もバツグン。
僕が何も知らなければ、きっと微塵も疑いを抱かずに最後まで付き合わされたはずだ。
人間的な好き嫌いは別として、敬意を表さずにはいられない。
妙な所で感心しながら、僕はその微妙な雰囲気を味わっていた。
「なるほど。これが上手く行ってないカップルの空気なのか」なんて思いながら。
あきらさんのおかしな雰囲気(または、おかしな雰囲気作り)は数日のあいだ続いた。
そして僕たちは、終業式の日を迎える。