ブギーポップ・ウェイブ―エンブリオ共鳴―


2-11

 ―――彼が居ない。

「え?」
 てっきり布団の中で眠っていると思っていた彼が消えたことにピンと来ず、間の抜けた声が出た。
「ええっ?」
 喪失感と混乱。
 あたふたと部屋を見渡してみる。布団すらない。
 まるで彼の存在自体が幻で、ここ数日のことが夢だったのかと思わせるほどに、ここに彼が寝ていた形跡がなくなっていた。
 どういうことだろう。
 今日は霧間さんの家には誰も居ない。(通いつめて、昨日留守の霧間家の玄関前で織機さんが帰宅するまで待っていたことから、合鍵を貰っていたのだ)
 誰も説明してくれる人は居ない。
 静寂が僕を攻め立てるように焦らせる。
 ぐるぐると意味も無く、独楽みたいに回るように部屋を見回した。
 そして、ピタリ、と止まる。
「どうして」
 ここにあるべきではない。
 僕は強くそう思った。
 これは……このスケッチブックは彼と共にあるべきなんだ。





「ったく、何でそーすぐに追い出しちゃうんだよ」
「いいんだよ。元々オレの手に収まるような相手じゃないんだから」
 羽原健太郎と霧間凪の二人がエレベーターで霧間家のある階を目指していると、凪が昨夜天色優が霧間家を出て行ったことを話していた。
 溜め息をつきながら健太郎が訊く。
「それにしたって、まともな尋問もしてないんだろ?」
「下手に足突っ込むと取り返しがつかないことってのはあるんだよ」
「・・・・・・」
 納得のいかない顔をする健太郎。それに横目に見ながらやれやれといった表情の凪。
 そこでエレベーターが止まった。到着したのだ。
 彼女としては天色優を留めて、無闇に彼が訊き出すことは危険度が高いと判断したのだ。
 凪は天色優が特殊な人間であり、統和機構と関係があるかもしれないということはわかっている。
 しかし特殊な人間が合成人間と呼称され、天色優の名前がユージンであるということまでは知らない。
 ユージンが持つ統和機構の情報は欲しい、と健太郎は思っていた。
「なあ、凪。その天色さんに渡したのは十万かそこらなのか?」
「ああ。それぐらいあれば、海影が言ってた大金を回収して使えるようにするまではなんとかなるだろうから。一応連絡先を教えといたから、お金がなくなったら言ってくるだろ」
 健太郎は最初の肯定以外、凪の言葉を聞いていなかった。
(となると、いきなりそう遠くに行くことはできないな。探せば、まだ見つけられるかもしれない)
 彼がそう考えた所で、霧間家の玄関ドアまで着いた。
「―――ん?」
「どした?」
「いや、鍵が開いてる。綺はまだだから・・・・・・」
「ああ、峰下君か? 昨日綺ちゃんが合鍵渡したって」
 やや警戒しながらドアを開ける凪。
「・・・・・・靴は無いな。並べて置いた靴が少し乱れてるってことは慌てて出て行って、鍵をかけるの忘れたかな?」
 凪は呟いて注意をしつつ、中に入った。それに健太郎も続く。
 家の中を見た感じは異常は無かった。ただ天色優の病室に使っていた部屋に置いてあったはずのスケッチブックが、ダイニングのテーブル上に移動していた。
「鍵の閉め忘れで間違いなさそうだな」
 ほっとした、という表情で健太郎が言った。ああ、と凪が頷く。
「無用心だなぁ・・・・・・。一言注意しとけよ? 凪」
「そうだな・・・・・・」
 いつもなら峰下翔吾は凪たちが帰ってくるまで待っている。
 留守であろうと綺が帰ってくるまでずっと玄関前で待っていたぐらいだ。
 その彼が帰りを待たずに慌てて出て行っている。
(急用を思い出した、っていうのも充分あり得るけど・・・・・・)
 もしかしたら、天色優の姿が無いのに動転して飛び出したのかもしれない。
 スケッチブックを見つけて、慌ててそのまま持っていこうとしたのに気づいて置きに戻り、そして飛び出した、とか。
「凪ー、なんか食うもんないか?」
「無いよ」
 早くもくつろぎ始めた健太郎を切って捨てる。
(翔吾は携帯を持ってないから連絡のつけようがないな。まあ落ち着いたら向こうから連絡してくるだろ)
 連絡が無ければ学校で会えるし、と結論付けた。
 リビングでは、ノートパソコンでかちゃかちゃと作業をしながら健太郎がだれていた。
「腹減ったなぁ・・・・・・綺ちゃん早く帰って来ねぇかなぁ」
「・・・・・・そういえばケーキが冷蔵庫にあったかも」
「なにっ! それを早く言ってくれ」
 パタン、とノートパソコンを閉じると健太郎は一直線に冷蔵庫に向かった。
「・・・・・・はぁ」
 凪は疲れたように溜め息を吐いた。
 健太郎が持ってきたノートパソコンは、携帯用通信端末が繋がれていた。
 閉じられ、ディスプレイの見えなくなったノートパソコンは、静かに作業を続けていた。






(さて・・・・・・)
 ずっと歩きづめだった天色優は、立ち止まって思索し始めた。
 もうすでにそこは霧間家のあるマンションからは遠く離れている場所だ。
 彼は念のため、自分が目撃されたとき霧間凪にまで調査が行かないように、半日かけて移動したのだった。
 住宅地を抜け、さらに街をいくつも越えた。
 ここから交通機関を使い人目に触れたとしても、霧間凪との関連には結びつかないだろう。
 交通機関を利用した場合、他人の目に曝されないことは不可能だ。
 一般人に見られるのは別に構わない。しかし、一般人の中には本の少しだが、確実に統和機構や反統和機構組織の人間が混じっている。
 いくら人目を気にした所で、それらの人間の眼に留まるのは避けられない。
 避けようのないものを避けることよりも、素早い行動を取るほうを選ぶべきだ。
(どうする・・・・・・?)
 一つの案として、統和機構にコンタクトを取ることが挙げられる。
 直接の連絡ではなくていい。端末からの情報搾取ができればいいのだ。
 しかしこれは不可。生存がわかれば、必ず調べられる。
 いくら統和機構の情報網が魅力的だからといって、これは食虫植物と同じだ。
 もしかしたら、裏切り行為はばれていないかもしれない。待機任務中の事故という風に処理もできる。
 しょせんは仮定の話ではあるが、もしそうであっても、次の任務を当てられると活動に差し支えてしまう。
(誰かに、情報端末を利用させて間接的に・・・・・・、そのあと処理をすれば・・・・・・)
 考えて、やはり打ち消す。
 今、統和機構に近づくのは危険すぎる。
 かといって他にツテがあるかというとそうでもない。
(僕はなんだかんだいっても、統和機構が無いと何もできないんだな)
 自嘲気味に笑う。
 第二案。反統和機構組織に接触する。
 裏切り者の合成人間が行う最もポピュラーな選択肢だ。
 『ダイヤモンズ』に身を寄せたパールという先例もある。
「・・・・・・」
 だがしかし、そうやって組織に入り込めば安全というわけでもない。
 現に彼自身、裏切った合成人間を組織ごと殲滅した経験があるのだ。
 また、入った組織に裏切られるということもあり得る。
 パールは、組織に入り込みおそらく幹部クラスまでのし上がっているであろう、数少ない成功例なのだ。
(警戒されて接触することすらできないかもな・・・・・・)
 暗殺任務をしてきたユージンに、何らかの恨みを持っている者もいるだろう。
 頭を切り替えて、自分に出来ることを探すことにする。
 残った手段は、独力による調査。これは不可能なわけではない。時間がかかるだけだ。
(落ち着け)
 ただ時間が惜しい。長い冬眠期間が彼を焦らせている。
 深呼吸。長く深く息を吐いて、意味も無く活性化しそうになる身体を静める。・・・・・・よし。
(生存が確認された二人と、未確認の二人。どっちを先に調べる?)
 可能なことから、そう考える。
「・・・・・・」
 しばらく考えていた彼だったが、決断をするとすぐに歩き出した。





 街を歩いている人影があった。
 背の低い、身体にフィットした紫色の服を着た男だ。
 彼を知るものは畏怖を込めてこう呼ぶ。
 ―――『最強』フォルテッシモ。
『おい・・・・・・』
「なんだよ?」
 他に誰も居ないのに声がして、フォルテッシモはめんどくさそうに答えた。
『何してるんだもうかれこれ十日も過ぎてるぞ。いくらお前が最強だからといって、任務終了の報告もせずにうろついてたんじゃ、やばいんじゃないのか』
「“任務遂行中”だから問題無い。まだ俺は敵対組織の殲滅のため構成員を探査しているんだ。つまり、今俺がいくら街を徘徊しようが後ろめたいことは何も無い」
 声が彼の胸元にあるペンダントからしているように、それに向かって話すフォルテッシモ。
『・・・・・・そーですかい』
 エジプト十字架のペンダントは呆れたように、諦めたように言った。
「・・・・・・ふん」
 それっきり黙ってしまったペンダントを一瞥すると、人ごみのほうに目を向けた。
(どこにいる・・・・・・どこにいるんだ? 俺の退屈を紛らわせてくれる奴は・・・・・・)
 その眼は、暗く燻った炎を燈していた。

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