ブギーポップ・ウェイブ―エンブリオ共鳴―


2-10

 深夜。
 霧間家の玄関ドアが音を立てずに開き、天色優が姿を現した。
 外を確認するようにゆっくりと出て行くと、後ろ手にドアを閉める。
 かちゃり、と常人には聞き取れない大きさの音が鳴った。
 そして、それっきり―――無音。
 しかし天色優は、静寂を保ったまま階段を降り、どんどん移動していく。
 大した時間もかからず、彼はマンションを出た。そして振り返る。
「・・・・・・」
 一度だけ霧間家のほうを見上げ、すぐまた歩を進めだした。
 僅かな光を頼りに、彼は歩いていく。

 

 

 天色優は目が覚めてから1時間経つと、起き上がった。
(もうちょっと回復したいのが本音だが・・・・・・)
 しかし、そうのんびりはしていられない。
 ゆっくり休養を取っても問題は無いが、気持ちとして黙って寝ていることができないのだ。
 屈伸をして、やや硬くなった身体をほぐす。人並の活動には不都合無さそうだ。
 そうやって自分の体を見下ろすと、パジャマだと言うことに気づく。
 引き裂かれ、焼かれ、さらに数ヶ月もの間、野ざらしである。着替えさせるのは当然である。
 外に出れるような服を手に入れないと。まず霧間凪に交渉してみるか。
 そんなことを考えながら、リビングへと足を運んだ。

 

「もう起きれるのか」
 リビングで紅茶を飲んでくつろいでいた霧間凪は、天色優の姿が見えると声をかけた。
「ええ。まだ本調子ではないですが」
「ふむ」
 と呟いて、またカップを傾ける。そして思いついたように言った。
「ああ、そうそう。アンタが着てた服、さすがに酷い有様だったから処分したから」
「何か、着る物はありませんか?」
「用意してるよ。ちょっと待っててくれ」
 凪は買い物袋を持ってくると、中から新品の服を出して、渡した。
「・・・・・・」
「どうした?」
「あっさり、してますね」
「ああ。一応身元というか、人物像は知れてるんでね。特に警戒もしないさ」
 もっと警戒していると思っていたのだが、不思議と緊張した様子などが凪に無い。
「海影君に、聞いたんですか?」
「事件の時に少しだけな。連絡を取った訳じゃない」
「それじゃあ、なぜ」
「下手に警戒して、敵対してると思われたくないからな。あんたの戦闘能力はわかってるつもりだ。オレも『被投与体』とはやりあったんだ。事件時に発生した被投与体は最低でも数十。そのほとんどを片付けた相手とやり合おうなんざ、分が悪すぎる。それに―――」
 優は驚いた。霧間凪は普通の人間である。普通の人間が被投与体と戦うとどうなるか。結果は火を見るより明らかで、人間のリミットが壊れた被投与体に普通の人間が勝てるはずが無い。
 その不可能と思われることを為したというのだ、彼女は。
 そんな優の驚きに気づいているのか気づかないのか、凪は話を続ける。
「―――友達の友達、だからな。これも何かの縁だ」
 肩をすくめて、そう締めくくった。
 凪は綺に鍋を温めてくるよう頼んで、綺は快諾し、台所へと消えた。
「もう寝ないんだったら、着替えていいよ」
 そう言われたので、優は遠慮なく寝ていた部屋に戻って、そこで着替えた。
 着替え終わった途端、空腹を感じた。
 合成人間ゆえ、空腹だからといって困ることはそう無い。
 ただ、ほんの少し安心した、からだろう。
(敵対組織に捕まったわけじゃないからな)
 そう考えた。そしてそれを打ち消す。

 ―――友達の友達、だからな。

 

 温められたスープ(織機綺が作っておいたのだろう)で軽い食事を取ると、綺はそれの後片付けに再び台所に引っ込んでいった。
「一応、訊いておきたい」
 凪がそう切り出してきた。
「アンタは、例の組織とはもう繋がりはないんだな?」
「・・・・・・ない。だが、僕のことを知っている奴はいるだろう」
「ふむ・・・・・・。とりあえず、裏切り者扱いであろうアンタをここで匿うのは簡単だ」
 綺もいるけどね、と小さく付け加える。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 しばらくの沈黙。
「あなたは、統和機構を知っている・・・・・・?」
「さあね。知ってるうちに入らないんじゃねーかな。それよりそっちこそ迂闊にその名前を出すとやばいんじゃないかい?」
「・・・・・・」
 優は、凪が“どの位置”に立っているのかを測りかねた。
(彼女は個人で統和機構と立ち向かっているのだろうか。いや、統和機構は彼女をチェックしているものの敵対行動を取ったという記録は無い。
 ―――じゃあ、彼女は何をしているのだろう?)
 黙っていると、今度は財布を渡してきた。
 小銭が入っているのか、硬貨が音をたてた。
 何気なく開けて中を見ると、使い勝手がよさそうに各種紙幣が揃えられている。
「・・・・・・」
 それなりの大金だった。
 彼女の財産を考えれば確かにはした金なのだろうが、おそらくこれは。
 凪は優がここに留まろうとはしないことに勘付いている。
 その、支度金、というのだろうか。当面の活動費という。
「いいんですか?」
「ああ」
 短い問答の後、優は小さく礼をして財布を納めた。

 

 

「・・・・・・」
 天色優が出ていくのを見届けると、霧間凪は彼の病室代わりに使っていた部屋を掃除しに家に戻った。
 布団のシーツを剥ぎながら、“ある物”に気づいた。
「おや? ・・・・・・てっきり持っていくと思っていたのに」
 辻希美のスケッチブックが、そこには置かれていた。


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