校長のためのコンピュータ入門(その6)

悪戦苦闘顛末記その後

「テレビ電話」成功!

 前回の「顛末記」の目標だったインターネット「テレビ電話」はようやく完成した。
 問題は2つあった。デジタルビデオカメラ(CCDカメラ)をプリンタのポート(接続端子)につなぐことによる問題。テレビ電話のソフトをインストールするときの設定の問題である。
 出来てしまってから、原因を振り返るのは簡単だが、今回は苦労した。しかも機械の問題と、ソフトの問題の両方を解決しなくてはならなかった。
 動かない原因についていろいろな仮説を立てて、問題点を絞っていく。デジタルビデオカメラのメーカに問い合わせても的確な解決策は得られなかった。プリンタのメーカーに問い合わせて、機械の問題は解決した。ソフトウエアーの問題は、そのソフトが非常に高性能のコンピュータで、なおかつ光ファイバーのような高速の通信につなぐように初期設定されているためだった。
 約三週間、不眠不休、骨身を削ってようやく完成にこぎつけた。
 「CUーSeeMe(シーユー・シーミー)」というソフトと、マイクロソフト社の「ネット・ミーティング(略称「NM」)の二つのソフトで「テレビ電話」をやってみた。
 「シーユー・シーミー」では参加者の集まる「会議室」にアクセスすると、そこに参加してきた複数の人々のリアルタイムのビデオ映像が現れる。その人たちと文字や音声で話が出来る。「ネット・ミーティング」では相手のビデオ映像は一人、一対一の会話が出来るというわけだ。 
 この間に、この二つのソフトでいろんな人たちに出会った。全国の日本人はもちろんだ。アメリカ、カナダ、チリやアルゼンチン、オーストラリアやニュージーランド、フィリピン、中国、台湾や韓国、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、スエーデン・・・・、と数え切れない。五大陸の全部の国を網羅している。
 アメリカとカナダに在住している日本人の方と親しくなった。日本語が通じたからだ。残念ながら私の語学力では英語を使う皆さんとの十分なコミニュケーションはとれない。
 私の英語では、
「こんにちは」
「どちらにお住まいですか」
「お仕事中ですか」
「お仕事は何ですか」
「今そちらは何時ですか」
「寒いですか」
「お幾つですか」
 などといった程度だ。とても環境問題についての討論なんかはまだ出来ない。(英語を必死で勉強するぞ!)
 文字通り、地球上の人々と国境を越えて、お互いに顔を合わせてリアルタイムで話が出来ることを体感した。下手な英語では、ひどく神経が疲れるが、感嘆!苦労した甲斐があった。原理的にはすばらしい。

インターネットの可能性

 実は、私の「テレビ電話」は快適には使えていない。接続する時間帯によっては恐ろしく遅くなるし、止まってしまうこともしばしばだからだ。主な原因は回線の問題だ。動画像や、音声のやりとりは実に膨大な情報量になる。光ファイバーによる通信回線か衛星通信回線に個人のコンピュータがつながることで、はじめてテレビ電話を快適に使える環境が整う。
 しかしインターネットの利用の可能性は概ね整ってきたように思う。ここでインターネットでは何が出来るかをちょっと変わった視点で整理してみよう。
【リアルタイムでできること】
・動画像、音声、画像、文字による情報の直接のやりとり。
・「データーの共有」といって、表計算ソフトなどをお互いに同じものを見ながら検討を加えたり修正できること。
・画像や文書、ソフトなどのデーターファイルを相互に確認しながら交換すること。 
【リアルタイムである必要がなくできること】
・情報の発信と収集。「ホームページ」を開設したり、観たりすることが出来ること。
・メールの交換。文字だけでなく動画像、音声、画像、ソフトなどのデーターなど、コンピュータで扱うことの出来るすべてのファイルをメールでやりとりすることが出来ること。

学校では自由な利用環境を

 インターネットの教育利用というのは、これらのインターネットの持つ可能性を、学校・教育で、どのように使いこなすかということにほかならない。
 私がインターネットを始めたのは、その教育利用の可能性を探るのが目的だった。初めはホームページとメールによる情報の発信や収集が教育利用に画期的な役割を果たすものだと思った。このことはとりあえず、教育利用の中心になるだろう。でも、今は少し考えが変わってきた。むしろ、インターネットの教育利用のおもしろさは、テレビ電話に象徴されるようなリアルタイムでの情報のやり取りにあるような気がしてきた。
 インターネットの教育利用についてすでに様々な実践や研究が行われ、書籍も数多く出版されている。これからの教育や学校のあり方を変えるものであることは間違いない。
 しかし、この議論で最も大切なことは、建前のお仕着せでなく、子供や教師が全く自由な感覚でインターネットを使うことが出来る環境を作ることだ。その中でこそ、生き生きとした、新しい教育が創造される。