いちばんちかくてとおいのは
第七回エントリー作品  一番近くて遠いのは
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 下から風が吹き上げてきて、夏彦〔なつひこ〕は闇に目を凝らした。
 足元を掬うほどの黒。夜に浮かぶのはフェンスの鈍い緑だけ。落下防止の役目を持つ網の壁は、思ったより登りやすく、乗り越えやすかった。貧弱な体型だから尚更だ。
 屋上の縁〔へり〕に佇んで、遠くを透かし見る。星の瞬きを真似た窓灯り、信号灯、街路灯がチラチラする。
 遠い、遠い、遥か彼方。
 夏彦だけを置き去りにした世界。
 あの窓の何処にも、彼が安らげる場所はない。子供らしい夢や希望が、彼の何処にもないように。
 息を呑む。
 風が迫る。
 心は竦む。
 失うものなどないはずなのに。待っている懐かしい笑顔が脳裏に焼きついているのに。
 何故――
 何故、足が動かない。
 決意は極めて固いのに、逡巡する心と身体。硬直した手と足が、金網とコンクリートに貼り付いて離れない。
 離れない。何故。
 闇が手招きするのに。どうしても。
 もどかしさを吐き出そうと身構えたとたん、
「いい加減に飛び下りたら? ……目障りだから」
 背中で冷ややかな声がした。
 首だけで振り向く。フェンス越しの至近距離に少女の顔が見えた。夏彦の目線より少し下に、射るほどの強い瞳があった。
「な……何だよ、おまえ……」
「いいから飛び下りなさいよ。そのつもりでそこにいるんでしょ」
 驚くでも慌てるでもなく、少女は冷然と立ち尽くしている。ふと、口元を薄く笑いの形に結ぶと、
「怖いんだ、飛び下りるの」
「ちが――」
「違わない。あんた怖いんだ。ここから飛び下りたら、あんたなんか、すぐにみんなに忘れられると思って……」
「そんなこと――」
「ないって言い切れる? ちっとも怖くないって言い切れる? 自分で決めたくせに、そんな風にビビって動けなくなってるじゃない。……あんた、怖いんでしょ。ここから飛び下りることより、みんなから忘れられることの方が」
 咄嗟〔とっさ〕に言葉が出ない。
「別におかしくないよ、怖くたって……飛び下りたらもう、あんたはこの世界から消えるしかないんだから……」
 呟く少女の瞼が微かに揺れた。そして、
「……自分がもうすぐ消えるのを誰にも知ってもらえないなんて、寂しいよね」
 伏せられた長い睫が、彼女の白い頬に翳りを落としている。不意をつく胸の痛みが、夏彦の喉を更に詰まらせた。想いは形となって漏れず、胸の辺りで渦を巻く。
 この子は何者だろう。
 どうして、よりによってこんな時に。
「オレ、別に寂しくなんか……」
 やっとのことで搾り出した声は、やけに掠れて聞こえた。
「うそ」
「うそじゃない! だいたい何だよ、おまえ。何のためにここにいるんだよ?」
 夏彦は、思い切って身体全体で振り返った。動けば踏み外すほどの狭い足場ではないが、無意識のうちに両手でフェンスにしがみ付いていた。
 目の前の顔は、瞳は冷たい光を放ったままで、口元はゆっくりと緩む。からかうような、あるいは得意げな笑みが浮かんだ。
「あたしね、勘がいいんだよ」
 唐突な答えに首を捻る間もなく、
「だからね、感じたの。それでここに来た。あんたが何かを伝えたいんだって、感じたから」
「オレ、何も伝えたくなんかないけど」
「気づいてないだけよ。……あんたが」
 どんな根拠があって断言するのか。少女の自信満々な態度が、俄かな反撥と焦燥を掻き立てた。夏彦は苛立ち紛れに吐き捨てる。
「どうでもいいよ、そんなの。それより、おまえ面白がってるだけだろ。突っ立ってないでさっさと帰れよ! ……オレはどうせ一人なんだ……最期まで一人でいたいんだから……」
「ふうん」
「忘れられるのがコワイとか、サビシイとか、そんなの関係ないってば! もうほっといてくれよ!」
 夏彦が怒鳴りつけても少女は動じなかった。相変わらずの至近距離で、視線すら逸らさない。澄んだガラス玉の、冬空の清冷な星を思わせる瞳が、キラリと瞬いた。
「でもね、口に出してみると、けっこう気持ちって吹っ切れるもんじゃない? あたしがいてもいなくても気にしないで、言ってみれば? あんたがここにいる理由」
 言い返そうとした夏彦を、星の瞳がすかさず牽制〔けんせい〕する。
「そうすれば体が軽くなるよ、きっと。……重荷を外に出した分、気持ちが軽くなる。体も軽くなる、動けるようになる。そしたら、あんたの望みが叶うでしょ?」
 フェンスの向こう側で、しがみ付いて感覚の薄くなった夏彦の手に、何かが触れた。氷よりも氷めいた指先。金網を挟んで合わされた少女の手が、戸惑いを瞬時に凍らせた。
 夏彦は低く唸る。
「おまえになんか、わかるもんか……」
 その呟きは少女の耳に届いたのか、答えはない。
「親に置き去りにされた気持ちなんて、おまえにはわかんないだろ!」
 やはり返事はない。
 それでも良かった。夏彦は、たぶん、自分を追い詰めたかっただけだから。
「信じてたのに……。本当の親じゃなくたって、大事にしてくれたから……父さんも、母さんも……」
 母は、実の母親の姉だった。実母がアル中で死ぬとすぐに引き取って育ててくれた。決して裕福な家庭ではなかったのに、父も喜んで同意した。夏彦が引き取られたのは物心ついて久しい頃。事情は理解していた。
 一人っ子だった彼に姉と弟ができた。
 姉は八つ離れた中学生だったが、全く学校へ行っていなかった。重い病のため入院していて、ほとんど寝たきりだった。やたらと読書が好きで、病室から出られないくせに物知りで、気分の良い日は弟たちにいろんな話を聞かせてくれた。
 病気で苦しんでいたはずの姉は、何故か、いつも花が咲いたみたいに笑っていた。少なくとも、夏彦の前で歪んだ表情を見せたことはない。最期まで、一度も。
 弟は、口から意味のある単語が出ないほど、まだ幼かった。夏彦を「あー」と呼ぶ。他の誰をも同じように呼んだが、夏彦に対してはニュアンスが違った。滅多〔めった〕に泣かないくせに良く笑う子で、寂しい時はもちろん、悲しい時も楽しい時も、いつでも夏彦に纏〔まと〕わりついていた。
 歳が近いのと、始終面倒を見ていたからか、弟が可愛くて堪らなかった。とにかく一日中べったりで、弟が苛められると相手に跳びかかった。喧嘩して怪我をしても弟のためなら平気だった。初めて「にいちゃ」と呼ばれた日は、心が弾んで眠れなかった。
 たった二年だったけれど、姉も弟も愛しい家族だった。実母の記憶が痛みと直結する夏彦には、父も母も姉も弟も、一番身近で大切な、かけがえのない家族だった。
 両親が稀にしか家にいなかったのは、残念だけど、諦めがついた。姉の治療費と入院費を賄うために、父も母も朝から晩まで働き詰めだったのだ。少なからず借金もあったらしい。
 夏彦は彼らの助けになれない。弟の世話の他に、簡単な家事くらいしかできなかった。せめて少しでも負担を減らせるなら、できることは全部やろう――と密かに誓った。身に余る恩を返せるならば、と。
 夏彦の切実な想いを、両親は真っ向から抱き留めてくれた。それは、ほんの僅かに共有する時間、父と母と触れ合う最中〔さなか〕に、ひしひしと伝わってきた。労いと感謝と憐憫と、全部ひっくるめて溢れる愛情――夏彦が憧れていた家族の絆を、彼らは限りなく、与えてくれた。
 その絆が一方的に断ち切られるまで、夏彦は真摯〔しんし〕に信じていた。本当の家族とは、こういう温かいものなのだと――。
「でも……全部錯覚だった。……他人はやっぱり他人で、最後の最後には『本当の家族』から捨てられるんだ……だからオレだけ、置き去りにされた」
 押し黙る少女の頭上を通り越し、夏彦は、辺りを埋める闇に目を向けていた。滲んで浮かぶのは、花のような姉、良く笑う弟、惜しみない愛情を注いでくれた両親。決して歪まない彼らの笑顔。
 それは幻だ。
 笑顔の裏に隠されたものこそ真実だった。
 絆が断ち切られた日の出来事を、夏彦は生涯忘れられない。
 あの日学校から帰ると、病院にいるはずの姉がリビングにいて、「お帰り」と夏彦を迎えた。「退院したの?」と聞いたら、ただ静かに微笑んでいた。珍しく両親が揃っていて、何だか夢みたいな御馳走がテーブルに並んでいた。
 ――ああ、お祝いなんだ。
 微塵〔みじん〕も疑わなかった。
 姉が元気になって戻ってきた。両親がいつにも況して明るいことと、弟がはしゃいで跳び回る様子で、家族五人の新しい生活が始まるのだと早合点した。夏彦は弟と一緒になって跳び回った。
 何度も乾杯した、生まれて初めての賑やかな夕食。会話も、食卓も、テーブルを囲むみんなの表情も、華やいで眩しかった。夢のような晩餐は、やがて本物の夢の国へ溶け込んでいった。
 意識が白くぼやける寸前まで、夏彦は懸命に考えていた。病み上がりの姉の手助けをし、弟の面倒を見て、父と母には精一杯の親孝行をしよう。これからもっと、みんなの役に立つ努力をしよう……。
 だが、決意が実行される日は来なかった。
 朝陽の中、目覚めたのは夏彦だけで、寝具にきちんと横たわった四人の家族は、どんなに揺さぶっても目を覚まさなかった。一人一人名前を呼び、執拗に揺り動かし、頬に触れた指がひやりとした瞬間、ようやく悟った。
 彼らは永遠に目覚めない。みんなして遠いところへ旅立ったのだ。
 そして――
 夏彦だけが置き去りにされた。
 きっと本当の家族ではなかったから――。
 負の思考に囚われた刹那、夏彦の世界が崩壊した。信じていたもの全てが幻と化し、色や音が混沌となり、感覚や感情や何もかもが麻痺していく気がした。まるで――まるで、深海に沈みつつある壊れた船のような……。
 大勢の人が入り乱れ、通り過ぎる渦中で、夏彦はひたすら呆けていた。耳から断片的に無機質な音が流れ込んでくる。心が拒絶して意味は掴めない。
 ――借金が膨らんで……が原因か……。
 ――娘が……で、もうダメだったとか……。
 ――養子には……は飲ませなかったらしい……。
 心が暗闇に侵され、灯りのありかがわからない。意味不明な音の乱舞は夏彦に光明を点してはくれない。声が出ない、動けない。彼の外側の世界は忙しく回っていくのに。
 実感のないまま、全てが終わる。親しんだ人たちはいなくなり、住み慣れた家も追われ、夏彦に関わる出来事が遂に収束する。しかし、夏彦の中では新たに何も始まらない。崩壊した世界には何も生まれないのだ。
 それは夏彦が八つの冬。
 ちょうど二年前の――。
「せめて……」
 フェンスを強く握り締める。金網が微かに軋んだ。
「せめて、弟だけでも残してくれれば……」
 自分は強くなれただろうか? 弟を守るためなら、もしかして。
 だが、自問の答えは結局マイナスへと走る。生きている手応えが稀薄な空間で、夏彦の心は余りにも磨耗しすぎて……。
「あんた、生き残って良かった、って思えないんだ」
「思えるもんか! オレは家族に捨てられたんだぞ。……こんな何もないところに取り残されて……生きてる意味なんて、ない」
「そうかな。生きてる今にこそ意味があるんじゃない」
 闇に据えた視線を少女に戻す。彼女はまだ、金網越しに掌を重ねていた。夏彦は、両手はそのままで、いきなりフェンスに体当たりをすると、
「生きてる今だって? ふざけんな! ――おまえ、わかってないよ……一家心中の生き残りがどんな目で見られるか」
 噛み付かんばかりの勢いで叫んだ。
「アイツらにとって、オレなんて、興味本位のさらし者なんだぞ!」
 身じろぎもせず、平然と少女は夏彦を見つめている。肩で息をしながら急にトーンを落とし、夏彦は、
「あるいは……アイツらの、自己満足の対象かもな……」
 と、俯いて吐き出した。
「アイツらって?」
 口にするのも疎ましい。生き残った夏彦の経緯を知る者、この味気ない世間で夏彦の周りにいる全ての者は、接するのも不快な疎ましい存在だ。
 群がる連中は皆、親切の仮面を被る偽善者だ。柔らかい口調と優しい態度で、通り一遍な決まり文句を、情感たっぷりに投げつける。仮面の裏に潜むのは醜い本性でしかない。嘲りと憐れみと好奇心に塗れ、己の優越感を満たすために率先して関わろうとする。
 そう。
 同情は優越感の裏返しにすぎない。
 優位に立つ自覚がある者ほど、他人に情けをかけたがる。己がいかに善人かをひけらかす手立てとして。
「同情なんていらない。アイツらの道具になるのはまっぴらだ」
 同情ならまだしも、あからさまに嫌悪や軽蔑を向ける者もいる。彼らもやはり、自己を満足させたくて標的にするのだ。夏彦を心底理解しようとする者など、誰一人いない。理解してもらおうとも思わないが。
 あの日以来、夏彦は尋常な感覚を失っている。外側の世界はまるっきり混沌として、何が起こっても深層まで届かない。同情だろうが嫌悪だろうが目の前を素通りしていくだけだ。しかし実感はなくとも、夏彦の中に燻る偏見が彼らを全否定する。夏彦の方が、彼らを理解しようとしていないから。
 運命を狂わせた日に深海へ沈んだ心は、今でもまだ、遥かな海底で眠っている。魂を伴う身体はここにあるのに。けれど、心が分離した身体など魂があっても生ける屍だ。元の夏彦を取り戻すためには、この身体も沈めなければならない。深い、深い、奈落の底へ。闇の底の、もっと深くへ……
 落とさなければ。
 早く、早く。
 みんなが待っているから――。
「あんた、間違ってる」
 鋭い一言が夏彦の思索を断ち切った。ひやりとした手が彼を捕らえて離さない。たったそれだけで、実行寸前だった夏彦の動きは封じられた。金縛りにでもあったかのように。
「なんでそのまま受け取らないのよ」
「な――」
「あんたのことを、本気で心配してる人間だって必ずいるのに」
「いるもんか!」
「いるよ。きっとどこかに」
 薄れていた焦燥感が一気に濃度を増す。もどかしさに身を捩りながら、夏彦は呻いた。
「そんなのどうでもいいって言っただろ。オレはもう、みんなのところへ行くんだ。おまえには関係ないし、どうせ、おまえにはオレのことなんてわかんないんだから」
「わかるよ。あんたに未来があるってことくらい」
「未来? そんなもん、いらない。オレはみんなのところへ行きたいだけなんだ」
「せっかく生きてるのに。せっかく生かしてもらったのに」
「生かしてって……違うよ、オレは家族に捨てられたんだってば! だからこれから恨み言を言いにこっちから行ってやるんだ」
「それでここから飛び下りるの? なんの努力もしないで」
「努力なんか知るか。二年も待ったんだぞ。みんなと暮らした時間と同じだけ待って、オレの中では何も変わんないから、あっちへ行くんだ、行きたいんだ!」
「行ってからじゃ遅いって」
「うるさい! もう黙れよ。……やっぱり言った通りだろ。おまえになんか、オレの気持ちがわかるもんか」
 とたんに少女の顔つきが険しくなった。
「だったら――」
 下から睨む格好で、怨みを秘めた眼差しが絡みついてくる。
「だったら、あんたにはわかるの? 親に殺されかけた気持ちが……」
 陰鬱な声が、夏彦の胸を突き刺した。
「実の親に殺されかけた子供の気持ちが、あんたにはわかるって言うの!」
 予期しなかった心の叫びが、夏彦の体中を駆け巡る。触れ合う指先だけが妙にリアルで、それ以外は茫洋とし、得体の知れない浮遊感に支配された。
「あたしの父親はね、強盗に入って、弾みで人を殺した犯罪者よ」
 少女は無理に笑おうと口を歪める。それはとても笑みにはならず、代わりに眉が歪んだ。
「あたしは父親が何をやったか、ちゃんと知ってた。イヤだったけど親子三人で逃げ回ってた。でもね、悪いことはやっぱり神様が赦さないんだよ。父親は指名手配されて、追い詰められて……あたしたちには、もう、逃げるところがなくなったの」
 リアルな感触が強くなった。ふと見ると、少女の指先が、夏彦の手の甲に食い込んでいる。
「追い詰められて、あいつらはどうしたと思う? ……あたしが足手まといだって思ったのよ。足手まといだから、殺そうとしたの。あたしの首を絞めて」
「……そんな……うそだろ?」
「ほんとだよ。あいつらはハッキリ言った。おまえがいるから逃げ切れない。だから、死ねって――」
 突然、少女の首がガクリと垂れた。と同時に、風が巻いて彼女の前髪を乱す。髪の隙間から覗いた目は夏彦を捕らえていた。夜空よりも暗い、吸い込まれそうな漆黒。見つめているだけで背筋が寒くなる。
「だからね、こっちから先に殺してやったのよ。あいつらを――」
 と、出し抜けに顔を上げ、良く通る声で、
「最初にあたしの首を絞めたのは母親。次に父親が絞めたの。苦しくて、苦しくて……頭がボーっとなって、目がかすんで……でも、すぐに真っ暗になった。……それからどのくらい経ったかわかんないけど、気がついたら、あいつらが血まみれになってた。あたしの隣に母親がいて、血のついた包丁が転がってた……あたしが殺ったんだよ。たぶん」
 少女は一息に言い放つと、今度は本当に笑った。くつくつと肩を震わせ、笑っているはずなのに泣き出しそうな面持ちで。
「まさか、そんな……親を殺すなんて……」
「だって……あたしは死にたくなかったのよ。でもボヤボヤしてると殺される。逃げることもできない……だったら、殺るしかないじゃない!」
「だけど……」
「親だからって何でも許されるの? 子供に何したって、親だから許されるって言うの? ――そんなの冗談じゃない! 子供は親の付属品じゃないんだよ、親とは別に生きてるんだよ。子供にだって、生きる道を選ぶ権利がある! 命を主張する権利があるはずだわ! ……ねえ、そうでしょ?」
 軋む音と共に目の前の金網が揺れた。華奢な少女の身体が、フェンスごと夏彦に寄りかかっていた。密に重なる掌から、凍てついた心の綾が流れ込む。
 掛ける言葉は見つからない。夏彦にはこれほどの過酷な経験がないからだ。
 実母との思い出は暴力に彩られていたが、一つだけ、強烈に残る記憶がある。アルコールが切れると凶暴になる母親は、満たされると人が変わった。そんな時、蹲〔うずくま〕る夏彦を抱き締めて、母は泣いた。「ごめんね、ごめんね……」と繰り返し呟きながら。
 母の温もり、涙の意味を、夏彦は幼いながらも朧〔おぼろ〕げに感じていた。それゆえに母親を憎めない。振り返っても、今まで一度も恨みを抱いたことはない。
 だのに。
 彼女は……。
 信じたくない、信じられない。間近にいる少女が親を殺したなんて。
 何よりも、両親を憎まざるを得なかった彼女の心境を考えると、酷くやるせなかった。
 だけど真相はおそらく他にある。誤解してしまったのだ、何かを。彼女の両親が短絡的に娘を殺めようとするなんて、夏彦はどうしても信じたくなかった。
 せめて、絶望に鎖された心に少しでも光を点してやりたい――その一心で、少女の手を握り返した。
「おまえ、たぶん勘違いしてるよ。おまえの父さんも母さんも、おまえが思うような鬼みたいなヤツじゃないよ、そうだろ?」
「なら、なんであたしを邪魔にするの? なんで殺そうとするのよ!」
「たぶん……どうしようもない事情があったんだよ……たぶん……」
 懸命に考えを巡らせる。
 どうしようもない事情……犯罪者の父……指名手配……そして……
 一家心中――
 夏彦が捨てられずにいたキーワードに辿り着く。すると、断片的なピースから一つの絵が浮かび上がった。
 少女の両親は、先を見越して世間の目を怖れたのではないか。自分たちが罪に問われる結末よりも、先ず、娘の置かれる状況を憂えたのに違いない。
 父親は罪の意識に苛まれ、母親と共に懺悔の眠りにつこうとした。しかし娘は――? 一人残して行けば、殺人犯の娘として、悪意と好奇に凝り固まった世間の目に晒される。置き去りにされた娘は、生涯、消えない傷を抱えて苦しまなければならないのだ。
 それくらいなら、いっその事……。
 彼女の両親が思い詰めたとしても無理はない。世間の目の醜悪さを、夏彦は痛感している。
「おまえの親、ほんとに逃げるためにおまえを殺そうとしたのか?」
「そうよ。そうに決まってる!」
「違うよ、たぶん……。なぁ、もう一度良く考えてみろよ、その時のこと。おまえの父さんと母さんが何て言ってたのか、どんな顔してたのか」
 少女の瞳が揺らいだ。探る眼差しを寄せてくる。戸惑う視線が、夏彦の口元をうろうろしていたかと思うと、やがて胸の辺りまでゆるゆると下りていった。
「……母さん、泣いてた……あたしの首を絞めながら……ごめんね、すぐに逝くから……って」
 か細い声が震えている。再びゆっくりと視線が上がると、目尻に光が滲んだ。
「父さん、悲しそうな顔してた……おまえがいるから逃げ切れない、でも置いて行けない……だから、一緒に死んでくれ……ごめんな、父さんたちと一緒に逝こう……って、そう言ってたんだ、父さん」
「そうだろ? おまえを殺して逃げようとしたんじゃないだろ? 自分たちのために殺そうとしたんじゃないんだ、殺したくて殺そうとしたんじゃないんだよ、きっと!」
「殺したかったんじゃ……ない?」
「そうだよ。おまえを守りたかったんだ。おまえ一人残して、殺人犯の娘、って後ろ指さされるのが辛かったんだ。それで一緒に連れてこうとしたんだよ」
「でも……あたし、父さんと母さんを殺した!」
「だから違うって! おまえが気づいた時には、もう死んだと思って追っかけてった後だったんだ。だって、おまえの母さんの側に包丁が転がってたんだろ? おまえが包丁を持ってたわけじゃない」
「そう……そうだ。母さんはあたしの両手を握って……父さんは、あたしの肩を抱えてた……二人とも、あたしの側にいて……」
「やっぱりそうだよ、おまえと一緒に逝こうとしたんだ。一人だけ残して行けないくらい、おまえのことが大事だったんだよ」
「ほんとに……?」
 光が、彼女の頬を伝い、闇に消えた。
「ああ。……でも……生き残っちゃったけどな、おまえ」
 夏彦の声に誘われ、流星を思わせる光がまた、夜に滑って消えた。
 滾々〔こんこん〕と湧き出す沈黙が二人を包む。漆黒の瞳は光を浮かべるのをやめ、夏彦の姿を映していた。奈落へ引き込まれそうな暗さは薄れ、代わりに冬空の星が宿る。その星が、静かに穏やかに、瞬き始めた。
「あたし、邪魔にされたんじゃなかったんだね」
「ああ」
「あたしのこと、大事だったんだね……父さんも、母さんも」
「そうに決まってる」
 すると、少女の唇が見る見る綻んだ。翳りを一気に消し去る笑みが花開く。何処か儚げで、無性に寂しげで、けれど毅然と咲く花に負けない可憐な笑顔だった。
 誰かに似ている。
 花のような……姉の笑顔。
 何かを諦め、何かを悟り、停滞する時間〔とき〕にたゆたいながらも、ひたむきに咲かせた姉の笑顔――あの、覚悟を決めたような最期の笑顔に重なって見えた。
 突如、夏彦の脳裏で過去が閃いた。
 ――姉さんが……選んだんだ。
 姉は気づいていたに違いない、長く生きられないことを。それから、両親が経済的にどれほど追い詰められていたかを。
 家族の行く末を選んだのは姉、決めたのは両親。弟は、夏彦と同じ逆境を背負うには、余りにも幼すぎたために、連れて行かれたのだろうか。
 ならば夏彦も連れて行って欲しかった。家族として認めてくれたのなら、手を離さずに繋いでいて欲しかった。何処までも――。
「オレ、おまえがうらやましいよ。おまえの父さんと母さんは、おまえと一緒に逝こうとしたんだもんな」
「あんた……まだ、わかってないのね」
「え?」
「あんたの家族はね、あんたに命を託したんだよ」
「命?」
「そう。自分たちの分も精一杯生きてもらいたくて、あんたを連れて行かなかったのよ。あたしはそう思う」
 それが真実だろうか。
 両親の真意はそこにあるのだろうか。
 疑うことは容易いけれど、それが真実だと信じる道も夏彦には残されている。共に暮らした二年の日々で、彼らはいつも、未来の夢を飽きずに描いていた。その中に、確かに夏彦も含まれていたのだ。
「命……」
 夏彦は目を閉じる。家族の姿を捜し求めて。暗闇にぼんやりと浮かぶ彼らの姿は、懐かしい仕草で手を振っていた。みんなで夏彦を励ますように。
「あんたの生きる道だから、選ぶのはあんた自身だけど……どうする? まだ、そっちにいるの?」
 ――ああ、そうだった。
 すっかり忘れていた目的を思い出し、夏彦は瞼を上げた。あれほど固く決意したわりには意外と簡単に萎えている。ふと、あるかなしかの違和感を覚え、辺りを見回した。
「ねえ。もう気が済んだんじゃない? ……こっちに戻ってくれば?」
 少女に促され、すんなりと金網に手を掛けた。高さが上がる毎に様子が変わる。フェンスの天辺で違和感の正体に思い至り、夏彦は夜空を仰ぐ。
 頭上には、満月が煌々と輝いていた。
 仄暗さに覆われた月日が嘘のように、徐々に光が蘇る。耳から入る不確かな音が清澄さを取り戻した。
 変化が夏彦に齎したものは、それだけではなかった。
 困惑したままフェンスを越え、少女の隣に飛び下りる。屋上の内側に佇んで、遠くを透かし見た。星の瞬きを真似るのは、窓灯り、信号灯、街路灯――そして、今まで見えていなかった車のライト、派手なネオン。闇のあちこちに夜通し消えない街の灯りが蠢いていた。
 崩壊したはずの世界が新たに生まれつつあった。しかも、失っていた感覚まで生まれ変わったと気づく。外側の世界がこれまでにないほど、夏彦には、とても新鮮に――とても美しく感じられた。
「なぁ、おまえ、名前は?」
「……冬美〔ふゆみ〕
「オレが夏彦だから、正反対だ」
 夏彦が笑う。
 冬美も笑う。
 改めて、彼は隣に立つ少女に向かい、
「また、会える?」
 と、問いかけた。
 冬美は夏彦を凝視するだけで、口を開かなかった。
「オレ、冬美と話してると元の自分に戻れそうな気がするんだ。もう一度、外の世界を信じる努力ができるんじゃないかって……」
「……」
「だから、おまえとまた会いたいんだ」
 何気なく夏彦は腕を伸ばす。冬美がふらりと後退りした。
「……ごめんね、夏彦……たぶん、もう、会えない」
「なんで?」
 予想外の答えに身体が強張る。コンクリートの床に夏彦の足が縫い止められた。
「あたし、もっと早くあんたに会いたかった……もっと早く会えてたら良かったのに」
 さっき開いた花が急激に萎れ、すぐに見る影もなく首〔こうべ〕を垂れてしまった。涙混じりの声が途切れ途切れに流れる。
「……あたし、夏彦に会えたから、よけいに思うんだよ、きっと。……もっと……もっと、生きていたかった、って」
 決定的な言葉が夏彦の耳を直撃した瞬間、冬美の姿が朧な光を纏い始めた。
「何て……何て言った? 今――」
「あたしね、たぶんもうすぐ消える。そしたら夏彦には二度と会えない……あたし、このまま消えるのが怖かった。だから、ここに来た、夏彦のところへ来たの……伝えたいことがあるから」
「いやだ……そんな……」
「あたしを呼んだのは夏彦だよ。心の中で叫んでた、『伝えたい』って……。あたしも誰かに伝えたかった、知って欲しかった……だから、あんたに呼ばれたんだよ、あたし」
 何かを吹っ切った表情で、萎れた花が再び力を取り戻した。夏彦を見つめる冬美の微笑みは、諦めと覚悟に彩られ、朧な光に揺らいでいた。
 夏彦は、頭で己の身体を叱咤しながら、縫い止められた足を必死で動かす――半歩……また半歩。とうとう彼の腕が冬美を捕らえた。
 刹那。光が輝きを増した。伸ばした腕は空〔くう〕を切り、思いがけない手応えに滑る。慌てて彼女の肩を掴もうとしても、あやふやな感覚だけが掌に残った。
「行くな! ――おまえまでオレを置いてくなよ!」
「夏彦、聞いてよ」
 既に目映いばかりの光の中で、冬美は夏彦に向かって両手を差し出した。夏彦も彼女に倣う。フェンス越しに合わせた指先とは違う、ほんのりと温かい感触に、やけに胸が痛んだ。
「お願いがあるの、夏彦。あたし、あんたには生きていて欲しい。……だって言ったでしょ。あんたの家族は、あんたに命を託したんだって」
 夏彦は黙って頷いた。懸命に涙を堪えて。
「あんたはね、家族みんなの命を背負ってるんだよ。……だから、ついでにもう一つ背負って欲しい、あたしの分も。重荷かも知れないけど」
「そんなこと、ない!」
「忘れないで、夏彦。託された命のこと、みんなのこと。それから、あたしのことも……あたしがこの世界に生きてたことを、あんただけは忘れないでいて……夏彦」
「忘れない。絶対忘れないよ!」
 ふっ、と燃え尽きる笑顔が咲き、
「ありがと……」
 ただ一言を最後に、冬美は、辺りに満ちた月の光に溶け込んでいった。
 残されたのは温もりと感触。
 そして、確かに彼女が生きていた記憶。
「忘れない……忘れるもんか、絶対」
 月に照らされた掌を見つめ、夏彦は呟いた。それから顔を上げ、金網を透かして、闇が手招く奈落の底を眇〔すが〕める。
 夜の彼方に朝が潜む。青味を帯びた地平線が僅かに白むのを眺め、重い溜息を一つ落とすと、彼は決然とフェンスに背を向けた。
 夏彦の目線の先、蒼白い月明かりに滲むのは、屋上の片隅に設けられた、地上へ下りる階段の扉。
−Fin−
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