てんぐやま−いぎょうあんでん−
第六回エントリー作品  天狗山−異形闇伝−
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 麓にひっそりと佇む粗末な小屋。今にも崩れそうなほど危うい。
 その前に立ち、佐吉〔さきち〕は天狗山〔てんぐやま〕を見上げた。
 
『お山に入っちゃなんねえ。天狗様の罰〔ばち〕が当たる』
 
 婆〔ばば〕さは繰り返し忠告して、死んだ。
 けれど天狗様がどんな姿をしているのか、どんな障りがあるのかは教えてくれなかった。おそらく婆さも知らなかったのだろう。
 婆さは、こうも言った。
 
『お山は異形の物の棲家。お山におれば天狗様は万能なのじゃ。決して何者も敵わん』
 
 ならば佐吉は天狗様になりたいと思った。
 異形であれば天狗でなくとも良い。とにかく人でなければ良いのだ。そうすれば、今目の前にある悲しみも、苦しみも、佐吉とは縁遠いものになるのではないか。
 佐吉は鍬〔くわ〕を取り、畑の片隅を掘った。明けの声が聞こえ、陽が昇り、霧が立ち消えても一心不乱に掘り続けた。
 干からびた芋しか育たぬ痩せた土地。
 婆さはここで永遠に眠る。生前にはなかった、安らいだ闇の中で。やがて婆さも畑の肥やしとなる。同じくここで眠る母〔かか〕さのように。
 どんなに佐吉が頼んでも、婆さも母さも村の墓地には埋葬してもらえなかった。
 佐吉はもう一度、山を仰いだ。
 暗鬱な山影で何者かが蠢いた気がする。遣り切れない心が見せた幻か、或いは弱気の迷いか。
 誰もいない。誰も助けてくれない。これからは独りで生きていかなくてはならないのだ。この、天狗山の麓で。
 
 母さは奇妙な死に方をした。
 訳もなくそこら中を走り回り、火が点いたかの如く叫んでいたかと見れば、突然、黙り込んで全身を震わせる。最後には、人とは思えぬ凄まじい形相で、泡を吹いて事切れた。
 小耳に挟んだ村人たちは、母さが狂い死んだと気味悪がった。それだけではない。佐吉の家は狐憑きだと忌み嫌った。
 狐憑き――
 そもそもは婆さに原因がある。
 かつて婆さは神託を受け、神のお告げを村人に伝える役目をしたという。一度ならず幾度も。佐吉が生まれるずっと以前の話だ。
 ほとんどは作物やら家畜やら天候についての託宣だったが、時折、流行り病や人死になどの不吉なものもあったとか。
 婆さの託宣は恐ろしいほど的中した――特に不吉な方が。初めは有り難がっていた村人たちも、余りに無造作な死の予言に震え上がり、目をそばめて避けるようになった。
 都合の良い時だけ婆さを拝みにくる連中を、虫が良すぎると咎めることはできないだろう。迷信深い村人には、自分たちと同じでない者――普通の感覚では理解できない者は奇異な存在でしかないのだ。いたずらに怖れるのも無理からぬ。佐吉が彼らの立場ならば同じ態度をとったかも知れない。
 母さの病が彼らの怖れに拍車をかけた。
 村中が、婆さにも母さにも狐が憑いていると噂する。あまつさえ、集落で起こる得体の知れない出来事は、全て《人を化かす狐の仕業》だと決めつけ、狐を呼んだのは婆さに違いないと口さがなく罵った。
 そして佐吉の家は狐憑きの烙印を押された挙句、一切の罪を被せられ、村から叩き出された。
 以来、天狗山の麓に住み着いた佐吉たちを訪ねた者はいない。狐の憑いた家など百害あって一利なし。関わりあっては狐をうつされると信じられていたから。
 元より、村に入ることも通り抜けることも、村ぐるみの執拗な嫌がらせによって阻止された。うっかり足を踏み入れたが最後、半殺しの目に合わされ、村はずれまで追い立てられてしまう。
 それでも――。
 せめて、婆さが倒れた時ぐらいは医者に診てもらいたかった。
 佐吉は死に物狂いで村に飛び込んだが、医者の家に辿り着く寸前で、屈強な大人たちに取り囲まれた。子供であっても容赦はない。足腰が立たなくなるまで打ち据えられ、ようよう這い戻った小屋では、婆さが苦しげに血を吐いていた。
 最早、この村にしがみついていては生きられない。婆さを連れて何処か遠くの土地へ行かなければ、安穏な暮らしは、ない。
 思い詰めた佐吉は、咳き込む婆さを抱えてお山を越えようとした。
 だのに、婆さは天狗山に入ることを頑として拒んだ。侵してはならぬ領域に踏み込めば必ず手酷いしっぺ返しが来る、と。年寄りの命など天狗様にくれてやるが、佐吉だけは――と泣いて頼んだ。
 そこまで激しく拒絶されては、無理強いはできまい。一月余りの間、血塗れで苦しみ続ける婆さを、佐吉は黙って見ているしかなかった。
「お山の異形たちは決して人里には下りてこん。境を越えても詮無いからじゃ。里はあれらの場所ではねえ。それと同じ、お山は人にとっては禁忌の異界じゃ。天狗様の場所を人ごときが穢してはならん。良いな、佐吉。何があってもお山に入っちゃなんねえぞ」
 枯れ木のような手が佐吉を弱々しく掴む。そして――床に滑り落ちた。
 幾重にも積み上げられた戒めが遺言となり、佐吉に重く伸し掛かる。
 婆さは誰も恨んだり憎んだりしなかった。
 ただ畏れていた、天狗山を。
 だけど佐吉はやっと十二になったばかり。世間の理不尽さや不確かな畏れをすんなり受け入れられるほど、心も身体も満足に育っていなかった。
 
 婆さを葬り終えた佐吉が真っ先に考えたのは、この土地から一刻も早く逃げ出すことだった。もちろん天狗山を越えて。
 最後の言いつけを守れないのは無性に心苦しい。されど、このままでは遠からず佐吉も死ぬ。どのみち、あの世へ逝くのが早くなるかどうかの違いだろう。
 何よりも試してみたかった。離れた土地でなら人として生きていけるのかを。少しでも可能性があるのならば、望みが尽きぬ限り懸命に挑んでみたかった。諦めて死を甘受するのはその後でも遅くない。
 佐吉は長い間、小屋の中を眺めていた。土間しかない寒酸な蓬屋。地を穿った囲炉裏〔いろり〕と、板と藁敷きの上に布団を据えただけの寝床。婆さと過ごした日々が胸の内を去来する。ここでの侘しい暮らしで、いつしか笑うことを忘れた。
 もともと貧困に喘いでいたのだから持ち出す物もなかった。行く手を拓くための刃物があれば事足りる。佐吉は一つ溜息を吐くと、婆さと母さの遺髪を慎重に懐へ納め、鉈〔なた〕を手に飛び出した。
 道はない。有るか無きかの獣道のみ。小屋の前から続く林の中を、枝葉を払いつつ天狗山を目指す。樹木は侵入者を拒むかの如く、年のわりに成長の乏しい貧弱な身体を襲った。手足に無数の傷がつく。お山と里の境目は何処にあるのかわからない。
 だが――。
 天狗山と人里の境界は確かに存在したのだ。
 目に見える印は何一つない。本能で悟ったとしか言いようがない。踏み込んだ瞬間、大気が険しさを纏い、憎悪に似た猛々しい気配が押し寄せてくるのを感じた。佐吉の全身が総毛立つ。足が動かなくなる。
 そこから先は一歩たりとも進めなかった。
 村を通り抜けるか天狗山を越えるかしか、この土地から逃れる術はない。それは重々承知の上だが、今感じた、身体の芯を貫くほどの恐怖に耐え切れる自信がなかった――引き下がるしかないのか。
 佐吉は肩を落とし、来た道を戻り始めた。
 婆さの話は本当だった。
 ここは天狗様の山。
 人は越えてはならぬ山。
 佐吉に残されたのは、否応なく、痩せた畑を耕しながら孤独と飢えに喘ぐ日々だけだ。おそらく長くは苦しまずに済むだろう――その点だけが救いと言える。いっそのこと、天狗様の罰が当たってこの刹那に死ねれば良いのに、とさえ思った。
「早く……」
 全身から力が抜け、佐吉は膝をつく。
「早く婆さと母さのとこへ、行きてえ……一人ぼっちは嫌だ……」
 頬を滴る熱い雫。婆さの臨終の床では枯れていたものが、漸〔ようや〕く溢れ出してきた。行き場のない狂おしい感情が冷たい土に染み込んでいく。
 と、その時――
 佐吉の背後で音がした。何やら軽い小振りの物が蠢いている音だ。明らかに不自然な葉擦れは、風などでは有り得ない。
「誰だ!」
 鋭く振り返る視線の先には、初めて目にする毛むくじゃらの生き物。木の根の隙間に蹲り、どうやら佐吉の様子を窺っているらしい。動いているからこそ生き物だと判別できるものの、じっとしているとただの毛玉にしか見えない。
 佐吉は息を呑み、尻で後退りする。顔や手足は何処にあるのやら、毛の塊は、佐吉が下がった分だけ近づいてきた。
「寄るでねえ!」
 咄嗟に手元の石を投げつける。毛むくじゃらは弾かれたように木立の陰に隠れた。
 が、すぐに、そろりそろりと姿を現し、またしても懲りずに近づこうとする。佐吉は再び石を手にするが、不意に気勢が削がれて、やめた。
 何しろ相手は握り拳くらいの小さな毛玉なのだ。その気になれば簡単に踏み潰せそう。しかも佐吉が敵意を向ければ、怯えているかに見える震え方をする。何だか弱い者いじめをしているみたいで、少々ばつが悪い。
 今度は石の代わりに、側に落ちていた木の実を投げる。
 すると、毛むくじゃらは素早く飛びつき、コリコリと小気味よい音を立てて食んだ。一瞬、毛の隙間から口と思しき穴が覗く。そこに並んだ鋭い牙を佐吉は見逃さなかった。
「お、おめえ何もんだ? お山の異形か?」
 どちらが上か下か右か左か定かでない毛玉は、しかし在り在りと体を傾げて見せた――まったく佐吉にはそう見えたのだ。この奇妙な生き物に人語が解せるとは到底考えられないが、あたかも質問の答えを探す仕草と取れるのが滑稽だった。その有様には愛敬があり、我知らず佐吉の警戒心は緩む。
 試しにもう一つ木の実を投げてみた。先ほどと同じ小気味よい音が響く。
「おめえ、腹減ってたのか……」
 呟いたとたん、毛の塊が驚くべき速さで転〔まろ〕び寄ってきた。避ける隙もあらばこそ、差し出したなりの佐吉の指に勢い良く食らいつく。
 ――食いちぎられる!
 垣間見えた禍々しい牙が脳裏を過ぎる。次の瞬間、佐吉の指から夥〔おびただ〕しい血が迸り……
 思わず閉じてしまった目を恐る恐る開くと、毛むくじゃらはまだ佐吉の指にぶら下がっていた。けれど少しも痛くはない。牙を立てた素振りがあるにも拘らず。
「……お、おめえの牙、見かけ倒しか?」
 言うまでもなく、佐吉の指はしっかりと本体にくっついたままだ。血など一滴も出ていない。
 毛むくじゃらには表情があった。佐吉の指を咥えっぱなしで、笑うかの如く、にぃ、と口を歪めたのだ。そればかりか小刻みに弾んで毛を震わせている。怯える様とは見るからに違う。佐吉は直感で、この異形が喜んでいるのだと悟った。
「もう良かろ。離してけれ」
 佐吉が乞うと、毛玉はぽとりと枯葉の上に落ちた。が、落ちるが早く、跳躍一つで膝の上に乗っかっていた。余程佐吉が気に入ったのか、毛を振り立てて膝で弾んでいる。
「お山に帰〔けえ〕れ。父〔とと〕さも母さも心配するぞ」
 遅蒔きにも納得できてきた。毛むくじゃらは紛れもなく人語を解していると。だからこそ、弾むのをやめて体を傾げる仕草が、この異形の境遇を物語っていると思えた。
「おめえも……一人ぼっちなのか?」
 毛むくじゃらが佐吉の掌に擦り寄る。柔らかい毛の感触と、日暮れかけた秋の空気に染みる温もりが、俄かに涙を誘う。
「おいらも、一人ぼっちだ……」
 ぽつり――雫が毛の塊を滑った。
 毛むくじゃらが、精一杯、身を摺り寄せてくる。婆さが倒れて以来、忘れていた生き物の暖かさが、佐吉の胸を満たした。
 何でも良い。
 共に生きてくれる誰かが欲しい。
 佐吉は毛むくじゃらを懐に包み、ゆるゆると撫でながら立ち上がった。
「おいらの家に来るか? 腹一杯食わしてやれねえけども」
 返事の代わりに、指に食らいついてくる。
「おいらは佐吉。おめえは?」
 毛玉が体を捻る。言葉が理解できたからといって話せるとは限らないし、そもそも名前などないのかも知れない。
「おめえは今日からトキだ。婆さがいなくなったで、その名前、おめえにやる」
 トキ――と情けを篭めて呼ぶ。毛むくじゃらは佐吉の懐でいっそう弾んだ。
 
 トキが来てから、佐吉はひもじさとは縁遠くなった。
 冬間近の畑に、ろくな収穫は望めない。これまでは婆さの工夫で何とか乗り切れたが、さすがに佐吉一人では途方に暮れるしかなかった。村で盗みを働くわけにも行かず、施しを受けられるはずもない。安易にトキを連れ帰ったものの、満足に食べさせてやれないのが口惜しかった。
 佐吉の気持ちに感づいたのか、或る日、トキは小鳥を咥えてきた。己の体躯と寸分変わらぬ大きさの獲物を、独力で捕らえてきたのだ。自分の分を減らしてまで食べ物を与える佐吉を、トキなりに気遣ったのだろう。
 どうやって捕らえたかを問うと、小屋の脇にある木を伝って器用に屋根に上った。ちょうど雀が舞い下りて、細っこい足が屋根に着くか着かないかのうちに、哀れな小鳥はトキの口に挟み込まれた。
 並みの動物でないと示すようにトキは身軽で俊敏だ。おまけに驚くほど知恵が回る。見かけ倒しの牙は、食うことと獲ることにのみ役立つものらしい。
 トキの頑張りに励まされ、佐吉も食料を調達するために林を探し回ろうと決めた。畑が当てにならないのなら自然の幸に頼れば良い。冬が来る前に、食べられる物を採れるだけ採って貯蔵しておくに限る。
 当然、トキもくっついて来た。お蔭でトキがどれだけ重宝な存在かを、佐吉はまざまざと知らされたのだが。
 トキは異様なほど林に精通していた。何処にどんな実りがあるかを的確に見極めている。食べられる物、食べてはいけない物、薬になる物、毒の物――その他、茸や木の実や草の根に至るまで幅広い知識を持っていた。その上、採取の合間に、持てる能力を駆使して小鳥や小動物を狩る。佐吉はと言えば、ただただ唖然とするばかり。
 佐吉が独りで入ると敵意むき出しの林も、トキが一緒にいるだけで、不思議なくらいに穏やかだった。けれども、偶に枝葉が悪戯心で佐吉の手足を引っかける。その都度、トキは薬草を咥えて即座に駆けつけてきた。使い方も良く心得ていて――トキの方法は噛み砕いて柔らかくしてから傷に塗る―― 一所懸命に手当てをしてくれるのだ。
「トキ。おめえはおいらには勿体ねえ相棒だなあ」
 心底そう感じつつ、トキの頭と思しきところを優しく撫でる。トキは薬汁だらけの口で、佐吉の指にしゃぶりついた。
 言葉を持たないトキの、唯一の愛情表現。言葉を差し挟む隙がないからこそ、通じ合える心があった。
 トキがいれば生きていける。
 トキがいるから生きていく意味がある。
 婆さが死んだと同時にひしゃげた佐吉の心は、今はトキによって癒され、支えられていた。何があっても共にいたい。どちらかが先に、あの世に取られるような出来事さえなければ……。
「トキ。日が暮れてきたで、そろそろ帰ろ」
 トキは佐吉の腕を這い登り、懐にするんと納まった。
 
 この冬は、昨年までと違って、さほど食うには困らない。ほんの暫く、林を徘徊する日々を続けただけで、二人には充分すぎるくらいの食べ物が手に入った。利口で甲斐甲斐しいトキのお蔭だ。
 そして、婆さが佐吉に授けてくれた知恵のお蔭でもある。肉は干したり燻したりすれば長く持つ。木の実はそのままでも、潰して粉にしても良い。草の根や薬草は乾燥させ、果実は軒に吊るしておく。薪などは有り余るほどあるので、春が来るまで火の周りは全く心配いらない。
 冬越えの仕度は着々と整っていた。
 充分すぎるにも拘らず、獲れるうちは獲っておこうと佐吉は考えた。それが災いしたに相違ない。
「もうあんまり獲物はいねえな。そろそろ冬篭りに潜っちまったか。なぁ、トキよ」
 木々の狭間で佐吉はトキに呼びかけた。トキは諦め切れずに、そこいら中をしつこく嗅ぎ回っているらしい。茂みの片隅でガサガサ音はするものの、一向に戻ってくる気配がない。
「トキ。もう諦めれ。もう食うには困らねえんだし……」
 自分が欲張ったせいでトキは無理をしている――佐吉は申し訳なさに戸惑いつつ、音のする方へと近づいていった。
「トキ――」
 茂みから顔を覗かせたのは、丸っこい毛むくじゃらではなかった。ヌメヌメとした長いもの――禍々しい色合いからも、毒を持つ蛇だと一目で察せられた。胴回りは佐吉の腕よりも太い。
 鎌首を擡〔もた〕げ、蛇が佐吉を威嚇した。有ろう事か、脅すだけでは飽き足らずに真っ向から襲い掛かってきた。手にした鉈を振り上げるが、佐吉よりも相手の方が、遥かに動きが速い。
 目が眩む。
 武器を振り下ろしても手応えがない。
 必死に逃げ場を求めるうちに大木の根に蹴躓いた。佐吉の眼前に毒の牙が迫る。
 ところが――。
 硬直する佐吉を尻目に、突然、毒蛇は吹っ飛んだ。激しく身を捩らせて、何かに抗おうとしている。その首根っこに食らいついているのは、紛れもなく、トキだった。
「トキ! 危ねえ!」
 佐吉は再び鉈を振り上げる。忌々しくのたうつ胴体目がけて、力の限り、一気に振り下ろした。
 蛇の尾がびちびちと跳ね回る。辺りの朽ち葉が赤黒く彩られていく。佐吉はまっしぐらにトキを抱え、一目散に走り出した。
 林を抜けるまでは生きた心地もしなかった。小屋に飛び込んでからも、手負いの大蛇が追いかけてくるのではないかと、呼吸も侭ならなかった。暫しの間、木々の枝葉が風に揺られる騒めきのみが響く。地を這う怪しい物音も、鬼気迫る兆しもない。そこで、佐吉は漸く息を吐き、抱えていたトキに初めて目を遣った。
 トキが血で染まっている――!
 戦慄が佐吉の背筋を過ぎったが、何処にも手酷い傷は見当たらない。俄かに安堵する佐吉に向かって、トキは、にぃ、と口を歪めて見せた。
「トキっ――トキよぉ!」
 佐吉は愕然とした。綺麗に並んでいたトキの牙が、ぼろぼろに砕け散っている。蛇の血ばかりか、トキは己の血でも染まっていた。佐吉を助けたい一心で、我が身を捨ててまで敵に立ち向かっていたのだ。
「トキっ……おいらのせいで!」
 トキは『違う』と言う代わりに、体を左右に振る。佐吉の気を静めようと掌に擦り寄った。血染めの毛玉に暖かい雨が降り注ぐ。
「トキぃ……済まねえ、おいらが……おいらが欲をかいたばっかりにぃ――」
 号泣する佐吉の指を咥え、トキはまたもや体を振った。次いで土間の片隅まで転んでいくと、徐に薬草を引き摺り出した。佐吉が怪我をした際に、トキが良く使う血止めの草――それを食んで、ゆっくりと咀嚼する。
「なんで――」
 佐吉は、乱暴に腕で涙を拭った。
「トキよぉ、なんでだ。おめえはお山の異形でねえか。なのに、なんであんな蛇ごときに、おめえが――」
 思わず口を噤む。
 元はと言えば、佐吉が欲を出さなければ、トキは恐ろしい目に合わずに済んだ。分相応に留まっていれば何事もなかったのだ。
 これまでずっと、食うに困る佐吉を助け、孤独に喘ぐ佐吉を慰め、傷だらけの佐吉を癒したのは、他ならぬ、トキだった。トキから与えられたものは幾万とあるのに、佐吉はトキに助けられてばかりではないか。
 不意に婆さの言葉が蘇る。
 ――お山の異形たちは決して人里には下りてこん……
 ――境を越えても詮無いからじゃ……
 何故『詮無い』のか、ようやっと理解できた気がする。天狗山の異形は、己の領域を離れたところでは、思う様に生きられないのかも知れない。
 佐吉は改めて自分の不甲斐なさを恨んだ。己の領域にいるはずの佐吉が、トキを守ってやることができなかったのだから。
 小さな体を傾げ、トキが佐吉の顔色を窺っている。その口は、もごもごと未だに動いていた。
「許してけれ、トキ。おいらは愚かもんだ。――おいら、多くは望まねえ。トキがいればそれでいい。だから、里にいる限り、おいらがトキを守ってやる。命懸けで、おいらがトキを守ってやるからな!」
 佐吉がトキを掻き抱く。込み上げる想いが雫となって、佐吉の頬を濡らし続けた。トキは大人しく抱かれている。
 やがて、トキは口に残る薬草を飲み込み、体に触れた佐吉の指にしゃぶりついた。佐吉がいつまでも泣き続けるので、痛々しい口を開いて涙の滴りを受け止める。佐吉がトキのいじらしさに微笑むと、嬉しそうに毛を振り立てて体を揺すった。
 
 トキの牙は傷ついたままではなかった。幾日も経たないうちに、元通り見事に生え揃った。こういうところも在り来たりな獣でない証と言える。負い目を感じていた佐吉は、トキの回復に胸を撫で下ろした。
 が、喜んでばかりもいられぬ事態に気づいた。牙が揃い始めた辺りから、トキは尋常でない速さで成長していたのだ。
 最初は、佐吉の拳大しかなかったトキが、日増しにむくむくと膨らんでいく。食べる量はさほどでもないのに、膨らむ量には目を見張る。朝ぼらけに霜柱が立つ頃になると、佐吉の丈を頭一つ分、優に越えていた。
 図体がでかくなってもトキは変わらない。身軽で俊敏で甲斐甲斐しくて、そして無邪気だった。トキは有りったけの愛情を、惜しげもなく佐吉にぶつけてくる。トキにできる、たった一つの方法で。
 ところが、体躯に比例して口も大きく育っていたため、指で済んでいたものが腕まですっぽり含んでしまう。おまけに些〔いささ〕か物足りないのか、所構わず佐吉の身体にむしゃぶりつくようになった。手足は言うに及ばず、頭やら肩やら尻やら、トキにしゃぶられていないところがなくなるくらい。佐吉はくすぐったさに身を捩り、偶に逃げたり窘めたりするが、トキは一向に動じなかった。
 ふと、佐吉は不安に駆られる。
 トキが天狗山の異形であることはほぼ間違いない。それなのに、このまま人里で暮らし続けても良いものなのか。
 また佐吉は村人たちの目も気にしていた。狐憑きとして追われた後も、時々様子を窺いに来たと思しき人影を目撃したから。
 村にも入れず、村からも出さず、彼らは佐吉と婆さを常に監視していた。村で悪さをしても他所で狐をばら撒かれても困るという理由で。お山の麓に閉じ込めるため、狐憑きの悪行を阻止するため、彼らは遠巻きに佐吉の家を見張っていた。
 万が一、トキが誰かの目に触れたら、彼らは十中八九、見逃したりはしないだろう。佐吉の経験から考えて、どんな恐ろしい仕打ちをするつもりかと、身震いせずにはいられない。
 雪がちらつき始めると滅多に小屋からは出なくなったが、墓参りや薪割りなどで、必要があれば外へ行く。トキは何をするにしても佐吉の側を離れない。その、ほんの僅かな油断を、佐吉は怖れていた。
「なぁ、トキよ。おめえはお山に棲んでいたんだろ?」
 囲炉裏に薪をくべながら佐吉は問う。相変わらずトキは体を傾げるのみ。
「父さと母さも一緒だったのか?」
 佐吉の問いに、トキは体を摺り寄せて応じた。己の話をするよりも、佐吉の身の上話を聞かせろ、と言いたいのだ。
「おいらの母さは死んだ。一昨日お供えしたでねえか。あの土饅頭が母さで、隣のが婆さだ。父さは村から逃げた。母さの病がおっかなかったんだな、きっと……」
 心なしか、トキが少しばかり萎んで見えた。佐吉の境遇に同情したのだろうか。
「おいらの事より、おめえの事だ。おいら、おめえが案じられてならねえんだ。このまま里で暮らすのは、おめえに良くないのでねえかと思って」
 トキは俄かに跳ね上がり、じりじりと後退りしていく。
「なぁ、トキよ。共に暮らしてえのは山々だけども、危なくなったらお山に帰れ。おいらのためを思ってくれたって、おめえが無理して困っちまったら、おいら、ちっとも嬉しくねえからな」
 トキが佐吉に突進してきた。佐吉の眼前まで来ると、『嫌だ』と言う風に体を激しく左右に振り、擦り寄るのでなく伸し掛かる。図体の割に羽並みに軽いため、押し潰されたりはしないが。むしろ冷え込む夜には暖かくて心地良かった。
「トキ! トキよぉ、おいらが悪かった、落ち着いてけれ。おめえを厄介払いしとうて言ったんでねえ。おいらだって、トキと離れて生きるなんぞ考えられねえんだから」
 ようよう落ち着きを取り戻したトキは、それでも膨らんだり萎んだりを繰り返している。腹を立てているにしろ拗ねているにしろ、とにかく、佐吉の側を離れる気など毛頭ない、という意思表示だ。
「トキ。おめえ――あったけえなあ」
 為すがまま、トキに伸し掛かられていた佐吉が囁いた。ふわりと暖かいトキの体は、囲炉裏の火よりも暖を取るのに最適だ。
「おめえが、も少し早く家に来てたらなあ……婆さにも、あったけえ思いをさせてやれたに違えねえのに……」
 雪が降る夜はいつも、一組しかない擦り切れた布団で、佐吉と婆さは抱き合って眠った。自分の背が冷えるのも構わず、婆さは佐吉を布団でしっかり包み込んでくれたものだ。
 もし、あの頃からトキがいれば、婆さは悪い病を患ったりはしなかっただろうか。
 佐吉は何もしてやれなかった。婆さにも、母さにも。婆さが助かるなら母さが元に戻るのなら、どんなことでもしようと誓ったはずなのに。不甲斐ない己の姿が蘇る度に、咽ぶ気持ちが行き場を求めて、佐吉の胸に谺〔こだま〕する。
「もう……あんな辛えのは嫌だ……。トキ、おめえだけは、何処にも行かねえでけれ」
 トキの身を案じる反面、今となっては離れて暮らせそうにもないと、佐吉は腹を括った。トキは何もかも見抜いたように、佐吉の上に被さっている。そうしているだけで暖かい。身体ばかりでなく――何よりも、心が。
 佐吉は頭を振り、無理やり不安を叩き出した。
 破滅など考えたくない。トキがいる限り、この心休まる日々は続くのだ。誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと暮らしていさえすれば、きっと、いつまでもトキと一緒にいられるだろう。
 そう――信じたかった。
 いつの間にか、トキは佐吉に被さったままで寝息を立てていた。
「おめえがいれば、布団もいらねえな」
 柔らかい毛並みを撫でつつ、ぽつりと独りごちる。程なく、トキの温もりに包まれて、佐吉は穏やかな夢を見ていた。
 
 破滅の刻〔とき〕は、あっけなく訪れる。
 薪が乏しくなり、小屋の前で佐吉が鉈を振るっていると、唐突に、村長〔むらおさ〕が群衆を率いて現れた。慌ててトキの前に立ちはだかったが、元より隠しようもない。
「佐吉。やはり化け物を飼〔こ〕うておったか」
 村人たちが幅を占め、それとなく逃げ道を塞いだ。
「うぬにも狐が憑いておるのか、佐吉よ。違うと言うなら証を見せるがええ。その化け物を引き渡せば、うぬだけは見逃してやろうでねえか」
 腰の曲がった長が、杖で地面を荒々しく衝き、佐吉を睨めつける。
「おいらには狐なんぞ憑いてねえ。それにトキは化け物でねえから渡すもんか」
 佐吉は精一杯、虚勢を張った。腕に覚えのある集団に囲まれて、正直、心の底は凍てついていたのだが。
「ほっほ、渡さんと言うたか。ならば、村で悪さをして回るのは、うぬとその化け物ということになるかのう」
「おいらたちは何もしてねえ! 村になんぞ金輪際、入っちゃいねえ!!」
「嘘つくでねえ! ここんとこ毎晩、鶏やら牛やらが襲われておるのじゃ。昨夜も牛が二頭やられたで。そんな悪さをするのは狐憑きのもんに決まっておる!」
「それはおいらたちでねえ! 狼か山犬に違えねえよ! おいらたちは村のもんには手を出しちゃいねえ、林のもんしか獲らねえんだ。嘘でねえ! 信じてけれ!」
 縋る瞳で佐吉は訴える。しかし、辺りの群衆からは無情な声が上がった。
「狐の小童め! 往生際良く尻尾を出さねえか!」
 何故――。
 何故、誰も佐吉の言葉を信じないのだろうか。母さが病に見舞われた時も、婆さが血を吐いて倒れた時も、誰も佐吉の話に耳を傾けようとはしなかった。
 婆さは頻〔しき〕りに謝っていた。佐吉が謂われない迫害を受けるのも、この婆が至らぬせいだ――と。
 ――そうではねえ。
 ――婆さのせいじゃねえよ。
 彼らには何一つ見えていない。婆さが見透かしたもの、佐吉が与えられたものは、彼らには一切無縁でしかない。心の眼が曇り切っているからだ。
 彼らは、理解の範疇を超える者を、無知蒙昧に怖れるだけ。そして、自分たちに災いが及ぶ前に悉〔ことごと〕く排除する。保身のためなら何だってする輩に、自らの考えを曲げる寛容さはない。端っから、何を訴えても無駄なのだ。
 佐吉は漸く思い知った。
 どんなに時間が経ったところで、決して受け入れられやしない。狐が憑いていようが憑いていまいが、それは体〔てい〕の良い言いがかりでしかなかった。
「佐吉よ。早ぅ化け物を渡すがええ。そんな化け物はこの村に――いいや、この世におらんでええのじゃ!」
 長が杖で合図する。と、逃げ道を塞ぐ集団を縫って、斧や鎌などの得物を手にした若い衆が進み出た。
「化け物め! 覚悟せい!」
 彼らの一人が鎌を振り立ててトキに襲い掛かる。佐吉の心臓が飛び出すかと思うほど、激しく脈打った。
「トキに手を出すでねえ!」
 若者の手が、トキに掛かるか掛からないかの一瞬、佐吉は無我夢中で鉈を振り下ろしていた。
「ひぃいいいぃぃ!!」
 血飛沫を上げ、肩を切り裂かれた若者が、見守る群衆の真っ只中に転げ込んだ。驚愕の叫びと恐怖の悲鳴が交錯する。やがて驚愕と恐怖が綯〔な〕い交ぜになり、怒りを加味して一つの形を取り始めた。激怒と憎悪から湧き起こる感情。すなわち――殺意。
「佐吉! 何をする! 村のもんを手に掛けるなんぞ気触れのすることじゃ!」
 長に恫喝されるまでもなく、佐吉の心は震撼としていた。
 村人を傷つけてしまった。おそらくは、ここにいる連中のほとんどが、一度は頭を撫でてくれたことのある人だ――佐吉が狐憑きとして追われる前には優しかった人たち。それなのに、傷つけた。命を奪わなかったにしても、己の咄嗟の行動に、震え上がらずにはいられない。
「この狐め、とうとう正体を現しおったわ。皆の衆、容赦はせんでええ。小童狐と化け物を血祭りに上げるのじゃ!」
 刹那、佐吉の狼狽が氷結した。
 次いで理不尽な輩への嫌悪が込み上げ、更に押さえ込まれていた恨みつらみが頭を擡げ始めた。辺りに漂う生臭さが、佐吉の理性を徐々に麻痺させていく。
 ――おいらたちは何もしてねえ。
 ――トキは何も悪さをしちゃいねえのに。
 ――先に手を出したのはそっちでねえか!
 佐吉は闇雲に鉈を振り回した。村人たちを攪乱〔かくらん〕して、トキの逃げ道を作るために。
「トキ、おめえはお山に逃げろ! お山に帰ればおめえだけは助かる。おいらに構わず逃げてけれ!」
 トキは聞き入れなかった。毛を左右に振り立て、佐吉の着物を咥えて林に引き摺り込もうとする。
 しかし多勢に無勢、佐吉が鉈を振り回すだけでは、なかなか逃げ道は開けない。二人の周りに、後から後から殺気立った群衆が押し寄せてくる。
 いきなりトキが佐吉の前に躍り出た。群衆に向かって大きく口を開ける。綺麗に並んだ鋭い牙を噛み合わせ、がちがちと鳴らせて手近な者に迫った。目の当たりにした連中が騒ぎ立てると、皆、蜘蛛の子を散らせたように逃げ惑う。
「トキっ! 行くぞ!」
 混乱が下火になる前に、佐吉はトキの体を掴んで林の中へ飛び込んだ。
「こっちだ! 小童狐と化け物が林ん中へ逃げたぞ!」
 一拍二拍遅れて追っ手が踏み込む。
 林に不慣れな連中は、木々の枝振りに邪魔をされ、思う通りに前へ進めないでいる。佐吉はトキがいれば活路に困らない。僅かな時間稼ぎにしかならなくても、佐吉たちには圧倒的に有利だ。
 不意に婆さの忠告が脳裏を駆けた。続いて、最初に天狗山に感じた総毛立つ恐怖に囚われた。お山と里の境が近づいている。天狗様の怒りは今度も佐吉を拒むだろうか――されど、もう遅い。最早、佐吉もトキも止まるわけには行かないのだから。
 遂に――
 佐吉は人里の境界を、越えた。
 奇妙なほど、微々たる違和感もなかった。あの猛々しい気配が嘘みたいに消えている。それは、佐吉が追い込まれて切羽詰った心持ちでいたからか、天狗山の異形であるトキが側にいたからか。どちらでも良い。少なくとも、お山は佐吉を拒まなかった。
 だが、憎悪に滾り、殺気を漲らせた村人たちも、いとも簡単に境を越えた。
 天狗山に入れば逃げ果せる――佐吉の考えは甘かった。天狗山は彼らの畏怖の対象。本来なら決して踏み込むはずがない聖なる地。尋常な場合ならば。
 彼らは極限の憎悪に支配されている。佐吉とトキを始末するため我を忘れている。目に見えぬお山の恐怖など、今の彼らには問題ではなかったのだ。
 何処へ逃げれば良いのだろう。
 何処まで逃げれば救われるのか。
 佐吉もトキも、目的地が定かでないまま必死に足だけを動かしていた。行く手に道がある限り走る。ただひたすらに走る。走る――何も感じられず、何も考えられずに。
 それも長くは続かなかった。
 急に樹木が途切れ、足場の土壌が岩盤に変化する。ごつごつとした岩肌が伸びる先には、遥か天まで翔る断崖が聳え立っていた。
「行き止まりだ!」
 来た方向からは、追っ手の足音と騒めきが迫りくる。引き返す余地はない。
 佐吉は崖を見上げた。ほぼ直角にそそり立つ絶壁は、佐吉には、到底よじ登れそうにもない。だけどもトキなら大丈夫だ。身軽なトキなら、崖を登って誰の手も届かぬ場所まで逃げられるに違いない。
「トキ。おめえは崖を登って逃げろ。おいらは別の道がないか探すで、先に行っててけれ」
 トキは全身で拒否の意を示す。佐吉の着物を咥えて崖の下まで引っ張っていき、何とか跳ね登ろうと試みる。気持ちは有り難いが、佐吉の重みがあっては、逃げられるものも逃げられない。
 佐吉が止めようと声を上げる前に、群衆が目を血走らせて押し寄せてきた。
「小童狐め! ようよう追い詰めたぞ!」
 彼らは肩で息をしながら、じりじりと包囲を狭めていく。手にした刃物を隙なく構え、鬼すら恐れる形相でにじり寄ってくる。佐吉は鉈を握る手に力を込め、左手を広げてトキを庇う。トキが体を小刻みに震わせながら佐吉の背中に寄り添った。
 出し抜けに傍らの茂みが騒ついた。身を潜ませていた若者が飛び出して、トキに襲い掛かる。トキは瞬時に身を翻したものの、やや間に合わず、刃先が体を掠めた。淡い色の毛並みに、鮮やかな色が滲む。
「トキ!」
 トキは、牙を見せて若者を威嚇した後、佐吉に泣きつく仕草で擦り寄ってきた。
 ――トキは怖くて震えていただけでねえか。
 ――なんで、おいらたちを放っておいてくれねえんだよ。
 心の中で黒々とした感情が渦を巻く。
 こんな事態を望んでいたわけではなかった。トキと二人で静かに暮らせればそれで良かった。他に何も求めてはいなかったのに。
「許せねえ!」
 佐吉は、トキを傷つけた若者目がけ、憎しみを篭めて鉈を振り下ろした。
「ぎゃあぁああぁぁ!!」
 胸の悪い臭気が辺りに浸透する。情けない声を上げ、のた打ち回る若者を、佐吉は無感動な瞳で眺めていた。
 群衆の一部が、慌てて怪我人を佐吉から遠ざける。別の若者が斧を振り立て、仲間の仇とばかりに斬り掛かってきた。
 佐吉は反射的に、手で身を庇った。
「この狐憑きの気触れめが!」
 佐吉の左腕が宙を飛ぶ。
 血煙が――山の霊気を濁らせた。
 佐吉は急激に眩暈がして、力なく膝をついた。が、すぐに立ち上がると、トキに背中を押しつける。傷ついた貧弱な身体で、それでも尚、トキの盾になろうとして。
「トキ……逃げろ……おめえなら、あの崖を登れる。あいつらだって、あんな高え崖の上までは、追ってこれねえよ……だから、おめえだけでも……逃げてけれ……」
 途切れ途切れの佐吉の声に、トキは激しく体を左右に振った。柔らかい毛並みが血ではないもので濡れている。トキの内から溢れる想いが佐吉にも伝わってきた。
 佐吉が、トキと離れては生きられないように、トキも、佐吉と共にいなければ生きられない。互いがいなければ生きていく意味がない。
「トキ、案ずるでねえ……おいらの心は、おめえから離れたり、しねえから……」
 トキが佐吉を励まして、何度も体を摺り寄せる。ともすれば失いそうになる意識を、佐吉はトキの感触でようやっと保ち続けた。
「……トキ……おめえは、おいらの、たった一人の家族だ……大事な相棒だ……どんなになっても、おいらがおめえを……守ってやるからな……」
 足元が己の血で濡れていく。構わず、佐吉は肩越しにトキを振り返り、ゆっくりと微笑んだ。
「だから……案ずるで、ねえ……な、トキ?」
 トキが喜びで体を弾ませる。佐吉を信頼し切っている。その一途な姿が、萎えかけた佐吉の活力を呼び覚ました。
 何としてもトキだけは逃がすのだ。佐吉が命懸けで足止めすれば、トキが崖を登り切るくらいの時間は稼げるだろう。
 佐吉は、残された腕で霞む目を擦り、力を篭めて鉈を握り直す。トキを背後に庇い、間合いを取る群衆を正面に置いて、決死の覚悟でトキに呼びかけた。
「トキ。おめえだけは、おいらの命を懸けても守ってやる。あいつらにはこれ以上絶対に手を出させねえ! 危ねえから、ちょっとの間、おめえは崖の上で待ってろ。後ですぐに追っかけるで、おいらの心を連れて先に行ってろ。だから、トキ――」
 ――早く逃げてけれ!
 最後の願いを叫ぶ閑はなかった。
 突如、佐吉の左半分の視界が消えた。身体がぐらりと揺れ、世界が横倒しになる。岩肌が夥しい朱に染まった。
 呆然と前方を眺め遣ると、村人たちが横倒しのままで、「化け物が――!」、「化け物め――!」と慄きながら口々に喚いている。わなわなと得物を取り落とす者、腰が抜けて座り込む者、皆、恐々と凝視していた。佐吉の背後にいるモノを。
 ――トキ……。
 佐吉は懸命に向きを変え、トキを仰いだ。
 トキが更に血で染まっている。
 もごもごと口を動かしている。
 嬉しそうに、弾みながら。
 ――なんでだ、トキ……?
 ――おめえの牙は、見かけ倒しのはずでねえか……。
 声にならない問いかけに、トキが体を傾げて不思議そうに佐吉を窺っている。
 佐吉は鉈を置き、トキに向かって右手を伸ばした。それに気づいたトキが、いっそう毛を振り立てて弾み始めた。喜びを伝えるために佐吉の一部にむしゃぶりついている。言葉を持たないトキの、唯一の愛情表現。
 ――ああ、そうか……。
 ――お山、だからか……。
 ここは天狗山。
 異形たちの棲家。
 境を越えなければ良いのだ。
 村人たちは、既に戦意を喪失していた。恐れ慄き、慌てふためき、錯乱状態に陥っていた。だが、落ち着きを取り戻すか度を越えて錯乱するか、どちらにしろ、やがて数を尽くしてトキに襲い掛かるのは目に見えている。
 ――あぁ……これで、いい、んだ……。
 ――でないと、おいらには……。
 片腕を失った時点で、決してトキを守ることなどできないと、悲しいくらい、佐吉には良くわかっていた。
 なれど、何があってもトキの命だけは守りたかった。気心の知れた相棒、たった一人の家族――絶望のどん底から佐吉を救ってくれた大切なトキを、誰にも傷つけさせたくはない。
 誰にも。
 人間ごときに――
 徐々に赤く移ろう半分の視界の中で、トキがもごもごと蠢いている。と、佐吉の眼差しを捉え、にぃ、と口を歪めて見せた。トキを求めて空〔くう〕を彷徨う手が、地に滑る。佐吉はトキに倣い、弱々しく口元を緩ませた。
 ――トキ……待ってろ……。
 ――もう、すぐ、だから……。
 記憶の彼方で婆さの声が呟いた。
 
『お山は異形の物の棲家。お山におれば天狗様は万能なのじゃ。決して何者も敵わん』
 
 そう。
 人でなくなれば――
 トキを守ってやれるのだ……
−完−
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