ひろくんのだいぼうけん
第五回エントリー作品  ヒロくんの大冒険
うおのめ文学賞タイトルロゴ
 バス停で辺りを見回すヒロくん。
 今日は大冒険〔だいぼうけん〕をする日なんだ。
 
『ちょっと待て。いきなり人を気安く呼ぶな。だいだいオレは高校生だぜ、子供扱〔あつか〕いすんなよ』
 
 ……まぁ、それは置いといて。
 大冒険だよ、大冒険。なんたって今日、ヒロくんは初めて一人でバスに乗るんだから。
 
『あのな〜。まるでオレがバカみたいな言い方するなって。いつもは電車通学だからバスなんか知るかよ。乗る必要がないから乗らないだけであって、一人でバスに乗れないガキとはいっしょにして欲しくないぜ。最後に乗った記憶〔きおく〕が幼稚園〔ようちえん〕のころだった、ってだけの話だろ』
 
 やっぱり一人でバスに乗るのは初めてなんじゃないか。でも別に恥〔は〕ずかしいことじゃないよ。だれにだって何にだって《初めて》は必ずあるんだ。
 
『……』
 
 ヒロくんが黙〔だま〕り込〔こ〕んだ。都合が悪くなるといつもそうなんだから。
 目の前にはバスを待つ人たちの行列。先頭はサラリーマン風のおじさんで、その次はデート中(?)のお兄さんとお姉さん、買い物帰りのおばさんたちが両手いっぱいに袋〔ふくろ〕をさげている。それから、杖〔つえ〕をついたおじいさんと二人のおばあさんたちが一つしかないベンチに腰〔こし〕かけていて、一番端〔はじ〕っこに、大きな四角い荷物を持った小さなおばあちゃんがちんまり納まっていた。あぶれたヒロくんは立ったままバスを待っている。
 エンジンの音がして振〔ふ〕り返ると、思ったより早くバスがやって来た。ベンチのおじいさんが杖でよいしょと立ち上がり、並んでいた人たちは少し間を詰〔つ〕めた。みんながそわそわしている。
 ヒロくんは一つため息をついて、小さなおばあちゃんの後ろで腕組〔うでぐ〕みをした。お昼前でお腹が空いてきたし、慣れないバスになんか乗りたくなかったし、第一、今日言いつけられた用事があんまり気に入らなかったせいで、ヒロくんはとっても不機嫌〔ふきげん〕だった。
 と、風に乗って後ろから、ひらひら何かが泳いできた。あ、桜の花びらだ。前に立っていたおばあちゃんの肩〔かた〕で一休みする。
 それを見たとたん、ヒロくんは何だか胸がもやもやした。良くかまないで慌〔あわ〕ててゴハンを飲み込んだ気分。胸のつっかえを取ろうと咳払〔せきばら〕いをする代わりに、こわい顔でうつむいて足元の小石をけっ飛ばした。
 石が転がって行った地面には、いろんな人に踏〔ふ〕まれて薄汚〔うすよご〕れた花びらがたくさんへばりついている。胸がつっかえたのは、きっとこの花びらのせいなんだよ。でも、ヒロくんはまだ気づかない。
 もやもや気分のまま顔を戻〔もど〕すと、ちょうど小さなおばあちゃんが乗り込むところ。けれど、荷物が重くて大変なのか、着物のせいで足が上がらないのか、なかなかタラップに乗っかれないみたい。一生懸命〔いっしょうけんめい〕手すりをつかんで勢いをつけても、おばあちゃんの体は持ち上がらないんだ。あんなに小さい体なのに。
 ヒロくんのイライラはピークに達した。偉〔えら〕そうにポケットに手を突〔つ〕っ込んで足の先をパタパタやったりして。そんなに早く乗りたいなら、おばあちゃんの背中を押〔お〕して手伝ってあげればいいじゃないか。
 だけど、ヒロくんは何もしなかった。
 見かねて手伝ったのは運転手さんだ。片手で荷物を持ち、反対側の手でおばあちゃんを引き上げて、お礼を言うおばあちゃんに愛想のいい笑顔を返している。
 その場の雰囲気〔ふんいき〕はまったく無視で、ヒロくんはさっさと二人の横を通り抜〔ぬ〕けた。すれ違〔ちが〕う時におばあちゃんをにらんだ目がつり上って、ちっともカッコ良くない。
 おばあちゃんは、何もしないどころか態度まで悪いヒロくんに、ちらりとも嫌〔いや〕な顔をしなかった。運転手さんから荷物を受け取ると、空いた席を探しながら一番後ろまで歩いて行っちゃったんだ。つまり、バスはけっこう混んでいたってこと。
 突き当たりには四人がけの席がある。やんちゃな子供たちを連れたおばさんが、騒〔さわ〕いでばかりのうるさい男の子にゲンコでたたくふりをしていた。おばさんと子供たちの他に、ぎゅうぎゅう詰〔づ〕めのレジ袋〔ぶくろ〕が三つ、ぎゅうぎゅう詰めで座っている。おばさんもやんちゃたちもレジ袋も、目の前のおばあちゃんには気がつかないようだ。
 席が空くまでの間、おばあちゃんはそこで落ち着くことにしたらしい。ふろしきに包まれた荷物をうんしょとやると、側の座席にくっついている手すりにつかまった。
 バスの中は、身動きできないほどじゃなくても十人ぐらいは立っている人がいた。バス停にいた何人かの人たちも後ろの方にいて、サラリーマンのおじさんがおばあちゃんの様子を見てはらはらしている。何だかこのおばあちゃん、少し危なっかしいもんね。
 そしてヒロくんは――
 バスの真ん中辺りにいる。
 ヒロくんの前にある二人がけの席には、ひざに荷物を山ほど抱〔かか〕えたおばさんたちが座っていた。バス中に響〔ひび〕く声で話したり、急にけたたましく笑ったり。
 顔をしかめながらも、ヒロくんはおばさんたちに注意をしない。『人に迷惑〔めいわく〕をかけてはいけない』と小学校の先生に教わったのに、そんな昔のことなんかどうでもいいと思っている。だから、おばさんたちの声を無理やり耳からたたき出して、ヒロくんは窓の外に目を向けた。何か楽しい話で気を紛〔まぎ〕らわせようと考えたんだ。
 だけど、真っ先に頭に浮〔う〕かんだのは今日の用事だった。
 これから行くところは、おじいちゃんの家。様子を見てくるようにお母さんから頼〔たの〕まれたから。おじいちゃんが苦手なヒロくんはあんまり気が進まなかった。ただ、断るとお母さんがうるさいので家を出てきただけ。
 だからといって、おじいちゃんが嫌〔きら〕いなわけじゃない。そうだよ、あの時までは大好きだった。
 本当は、おじいちゃんの方が……
 ブレーキがかかったため、ヒロくんは足に力を入れた。すると少し離〔はな〕れたところで声がする。
「まあ、すみませんねえ。ありがとうございます」
 と言ったのは小さなおばあちゃんだ。サラリーマンのおじさんに荷物と体を支えてもらっている。普通〔ふつう〕のブレーキでもよろよろしているんだもの、もしかして急ブレーキがかかったら、荷物といっしょに飛んで行っちゃうかも知れない。
 そこは大きな駅前のバス停だった。半分くらいのお客さんが、みるみるうちに降りて行く。サラリーマンのおじさんも、デート中のお兄さんとお姉さんも。
 目の前に座るおばさんの一人も、荷物をガサガサさせて降りて行く。やっと席が空いたと思ったら、窓側に残ったおばさんが素早くひざの買い物袋を置いた。
 あんまりずうずうしくて、ヒロくんは周りに聞こえるように大きな咳払いをした。おばさんはちょっとむくれた顔をしたけど、慌てて袋をひざに戻す。負けないほどのむっつり顔で、ヒロくんはわざと乱暴に座った。
 ふと見ると、周りの座席があっという間に埋〔う〕まっている。でも再びバスが走り出した時、小さなおばあちゃんだけはまだ立っていた。たぶん、乗ってくるお客さんの勢いに押されて空いた席までたどり着けなかったんだろう。
 ヒロくんは気づいていながら知らんぷりをした。見回す限り、自分より年下の人は座っていないのに。立っているのは、緩〔ゆる〕いブレーキでも足元が危ないおばあちゃんなのに。
 いつもそうなんだ。ヒロくんは。
 電車でもどこでも人に席なんか譲〔ゆず〕らない。めんどうなものは全部、見ても見ないふりをする。自分から進んでだれかの手助けをしようなんて考えないんだ。
 だけど、ヒロくんがそうなったのには、ちゃんとした理由がある。
 本当のヒロくんは、おじいさんやおばあさんが困っていれば通り過ぎやしない。立って席を替〔か〕わったり、重い荷物を持ったり、横断歩道をいっしょに渡〔わた〕るのだって嫌いじゃなかった。あの時までは。

 ヒロくんのおばあちゃんが生きていたころ、ヒロくんはおじいちゃんもおばあちゃんも大好きだった。日曜日にはおじいちゃんの家へ遊びに行き、庭の草むしりや台所のそうじを手伝っていた。おじいちゃんが時計の修理をするのを眺〔なが〕め、おばあちゃんが縫〔ぬ〕い物をする針の動きを見るのが楽しかった。
 それに、二人はいつも喜んでくれた。ヒロくんがお手伝いをするのはもちろん、黙ってただ側にいるだけでも。
 中学生になる前に、おばあちゃんはいなくなった。
 病気で寝〔ね〕ている間、ずっと、ヒロくんを枕元〔まくらもと〕に呼んでおばあちゃんが言ったんだ。おばあちゃんの分もおじいちゃんを大事にしてね――って。おじいちゃんは淋〔さび〕しがりやだから、いつも気にかけてあげてね――って。
「だってね、おじいちゃんはヒロくんのことが大好きなのよ」
 最後にそう言うと、おばあちゃんは眠〔ねむ〕るみたいに目を閉じた。ヒロくんにもおじいちゃんにも手の届かないところへ、たった一人で行っちゃたんだ。
 ヒロくんには大切な言葉を、おじいちゃんには小さな鉢植〔はちう〕えの木を残して。
 大好きなおばあちゃんの願いを、ヒロくんが聞けないはずはない。今までと同じ、日曜日にはおじいちゃんの家へ行き、お母さんが作ったお弁当をいっしょに食べて、二人で庭の手入れをした。一つだけ今までと違ったのは、おばあちゃんが側にいないということ。
 おじいちゃんはいつも淋しそうな顔をしていた。でもヒロくんといる間は笑顔を見せてくれた。それで、おばあちゃんの言葉は間違いないと素直に信じられたんだよ。
 だけど――
 あの日。春休みが終わり、新学期が始まった最初の日曜日。やっぱりヒロくんはおじいちゃんの家にいた。
 座敷〔ざしき〕をのぞくとおじいちゃんは昼寝中。とっても気持ち良さそうだったので、ついつい声をかけそびれ、ヒロくんは一人で庭の水まきを始めた。
 ホースで庭中に水をまくと、太陽が反射して草や木がキラキラ光った。まぶしくて目を細めた時、ヒロくんはびっくりする物を発見してしまったんだ。
 それは、おばあちゃんが残してくれた小さな植木。庭の隅〔すみ〕っこに追いやられて、土がカラカラに乾〔かわ〕いていた。前は花が咲〔さ〕いていたはずなのに、はげちょろけで花どころか葉っぱもない。
 ――きっとこの木、枯〔か〕れかけてるんだ。
 ヒロくんは急いで植木に水をやった。枝にも土にもたっぷりと水をかけた。おばあちゃんの木が早く元気になるよう、心をこめて祈〔いの〕りながら。
「やめなさい!」
 突然〔とつぜん〕どなり声がした。振り返れば、いつの間にかおじいちゃんが縁側〔えんがわ〕に立っていた。こわい顔で庭に下りたおじいちゃんは、水道を止めるなり駆〔か〕け寄って、いきなりヒロくんを突き飛ばすと植木の側にしゃがみ込んだ。
「何てことをしてくれたんだ!」
 おじいちゃんはすぐに立ち上がった。そしてヒロくんをにらみつけて叱〔しか〕ったんだ。額のところを不思議なくらいしわしわにして。
「二度とよけいなことはするな!」
 それまでのヒロくんは、こんなにこわいおじいちゃんを見たことがなかった。どうして叱られたのか全然わからないから、頭の中が真っ白になって声も出なかった。
 だって、ヒロくんは何も悪いことをしていないんだもの。
「帰れ! もう来なくていい」
 おじいちゃんはそっぽを向いて、足を踏み鳴らしながら座敷に戻った。それから、ぴしゃり――と、乱暴にふすまを閉めたっきり出てこなかった。
 ヒロくんは悲しくて、悔〔くや〕しくて、涙〔なみだ〕がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
 おじいちゃんが怒〔おこ〕った理由がわからない。《よけいなこと》ってどういうことなんだろう。ヒロくんが何をしたのが気に入らなかったんだろう……。
 考えるうちに、うっかり涙がこぼれた。
 すると、悲しくて、悔しくて、たまらなくなって、ヒロくんは裏木戸から表に駆け出していた。
 車でお母さんが迎〔むか〕えに来るはずだったけれど、ヒロくんはすっかり忘れていた。ただただ走りたかったんだ。そうしなければ、後から後から涙が出てきて止まらなくなりそうだったから。
 ヒロくんはひたすら走り続けた。頭の中でおじいちゃんの声がぐるぐるしていた。
『よけいなことはするな!』
 ――よけいなことなんかしてない!
 今度はおばあちゃんの言葉がぐるぐるした。
『おじいちゃんはヒロくんのことが大好きなのよ』
 ――違う。
 ――おじいちゃんは、本当はぼくのことなんか嫌いなんだ。
 ――おばあちゃんのウソつき。
 一生懸命走ったのに、けっきょく涙は止まらなかった。ヒロくんの足はだんだん遅〔おそ〕くなって、普通に歩くよりももっと遅くなって、ついに動かなくなってしまった。
 桜並木の道。散った花びらがヒロくんの足元で渦〔うず〕を巻いた。地面がピンク色にぼやけて、ヒロくんは手で顔をこすった。
 一面に、いろんな人に踏まれて薄汚れた花びらがへばりついていた。ヒロくんには、ちぎれたかわいそうな花びらが、悲しくて悔しくてちぎれそうになっているヒロくんの心と、同じに思えてしかたがなかった。
 それからだよ。ヒロくんが桜の花を見ても、楽しいとかきれいとか感じられなくなったのは。人に踏まれた花びらを見ても何も感じなかった。たぶん、嫌な思い出を忘れたくて、心が何も感じようとしなくなったんだね。
 家族とどこかに行くこともなくなった。都合のいい友達とは仲良くして、都合が悪くなると仲良くするのをやめた。何よりも、困っている人に出会っても見て見ぬふりをするようになった。もうだれからも、よけいなことはするな――と、言われたくなかったから。
 
 急にブレーキがかかって、ヒロくんは前につんのめった。危うく前の座席に頭をぶつけかけ、はっとして振り返ると、思ったとおり小さなおばあちゃんが吹〔ふ〕っ飛ばされそうになっていた。よろよろの歩き方でヒロくんの側までやって来る。
 ヒロくんはとっさに立ち上がり、おばあちゃんと荷物を抱〔だ〕きとめた。そのままおばあちゃんを座席に押し込めると、
「危なっかしいばあさんだな。座ってろよ」
 と言った。
 言い終えて、急に変だと気づいた。
 たとえ、おばあちゃんが端〔はし〕から端まで歩いて行っても、間違いなく知らん顔をしていたはずのヒロくんが、ちっともためらわずに自分から席を譲っているなんて。
 あまりの驚(おどろ)きに、ヒロくんはおばあちゃんを見下ろした。
「まあ、ありがとうございます。お兄さん、親切ねえ」
 微笑〔ほほえ〕むおばあちゃんの顔を見た瞬間〔しゅんかん〕、ヒロくんは何かを思い出しかけた。
 次のバス停で窓側のおばさんが降りると、おばあちゃんが席を移ってヒロくんに合図をした。もちろん、ヒロくんはお礼の言葉もなしに座る。
「お兄さん、どちらまで行くの?」
 話しかけられても、ヒロくんはむっつりしたまま一言も返さない。
「私はね、お花見に行くんですよ」
 このバスの終点にはお花見で有名な公園がある。どうやらおばあちゃんはそこへ向かっているらしい。でも、小さいから他の花見客に、もみくちゃにされてしまいそうだ。
「こんな時間から場所取りに行っても、空いてるところなんかないぞ」
 おばあちゃんと会話をするつもりはなかったのに、ヒロくんの口は勝手に開いていた。
「あらあら、終点まで行くんじゃないんですよ。一つ手前のバス停にもっと小さな公園があってね、とても見事な桜が一本咲いているの。そこがおじいさんと私だけの、毎年決まった場所なんですよ」
 ヒロくんはおばあちゃんと荷物をジロジロと見比べる。
「そんなデカイ荷物、一人で持って行くのかよ。じいさんはどうしたんだ?」
 おばあちゃんがうつむいた。ヒロくんの失礼な態度に気を悪くしたのかも知れない。けれどすぐに顔を上げると、おばあちゃんは変わらずニッコリしていた。
「ええ。おじいさんなら、いつもの場所で待っていてくれるでしょうねえ」
 何だかおかしな言い方だ。ヒロくんはスッキリしなくて、おばあちゃんの言葉が気になって気になってしようがなくなった。
 そうなると、今度はおばあちゃんが無事に公園にたどり着けるかまで気になった。バスに乗る時、あれだけヒイコラ大変だったんだから、バスから降りる時だってヒイコラするに決まっている。少なくとも荷物を持ってくれる人がいたら、おばあちゃんもずいぶんと楽なんじゃないかな。
 今日はまったく変だ――と首をひねりながら、ヒロくんの口はさっさとおばあちゃんに提案していた。
「途中〔とちゅう〕で行き倒〔だお〕れると寝覚〔ねざ〕めが悪いから、オレが荷物持ちについてってやるよ」
「あらあら。本当に親切なお兄さんねえ」
 嬉〔うれ〕しそうなおばあちゃんの笑顔を見ていると、ヒロくんはまた何かを思い出しかけた。忘れていた、とても大切な何かを。

 目的地の公園は、お花見の公園とは比べ物にならないほどちっぽけで、子供の遊び場というよりは散歩コースの休憩所〔きゅうけいじょ〕みたいだった。
 周りは遊歩道と木ばかり。遊歩道は途中から坂道になり、その先の高台が小さな広場になっていて、どうやらそこが公園の中心らしい。大きな桜の木とベンチが一つきりしかないけれど。
 遠くに目をやれば、お花見の公園がかすんで見えた。バス通りの桜並木も公園の桜も、いっしょくたに白っぽくぼやけていた。高台からだと全部見渡すことができる。
 だけど、どの桜よりも見事なのは、今ヒロくんの前にある桜の木だ。堂々と枝を広げて誇〔ほこ〕らしげに花を咲かせている。桜を見ても何も感じなかったヒロくんでさえ、本当にきれいだと見惚〔みほ〕れてしまうぐらいだもの。
「ちょうどいい時間ねえ。さあ、お弁当にしましょう」
 おばあちゃんはそう言うと、着物の袖〔そで〕に隠〔かく〕していたビニール・シートを広げた。まるで手品みたいだとヒロくんは思う。準備が終わるとおばあちゃんが先に座って、ヒロくんを招いた。
「あら、お名前をまだ聞いていないわねえ」
 自己紹介〔じこしょうかい〕する間も、おばあちゃんは手をお留守にしない。ふろしき包みからはお正月にしか見ないような重箱と水筒〔すいとう〕が出てきた。おばあちゃんがウキウキお重を並べるのを眺めるうちに、ふと、ヒロくんはおかしなことに気づいた。
「おい、ばあさん。じいさんがまだ来てないぞ。待ってなくていいのかよ」
 すると、おばあちゃんは少しも慌てず、
「いいえ、来ていますよ。と言うより、いっしょに来たんですよ」
 ヒロくんにはわけがわからない。近くにおじいさんなんてどこにもいないじゃないか。目を丸くしていると、微笑みながらおばあちゃんが話し出した。
「おじいさんはね、去年の春に亡くなったの。お花見の後、風邪〔かぜ〕をこじらせて……あっけないものでしたねえ」
 ほ、と一息ついて、おばあちゃんは話を続ける。
「でもね、おじいさんはここにいるの。今でも私のここで生きていて、いつも見守っていてくれるんですよ」
 そっと胸に手を当てて、おばあちゃんが小さな声でつぶやいた。
 ヒロくんの胸が急にもやもやした。おばあちゃんの肩に花びらを発見した時とは少し違う。きゅっと締〔し〕めつけられて、息苦しくて、ヒロくんは声が出なくなった。
 その時どんな顔をしていたのか、ヒロくん自身にはわからない。けれど、おばあちゃんはヒロくんの様子に気づき、ちょっと困った笑顔でつけ加えた。
「あらあら、そんな顔をしないでねえ。いなくて助かることもあるんですよ。何しろうちのおじいさんときたら、どうしようもない頑固者〔がんこもの〕で、子供みたいにわがままなところがあったの。けんかをしても自分から謝るなんて、一度もなかったんですからねえ」
 おばあちゃんの明るい口調に、ヒロくんは少しだけ胸が軽くなった。それに、話の中のおじいさんがヒロくんのおじいちゃんに似ている気がして、つい、
「うちのじいちゃんに似てるな」
 と、思ったままを口にした。
「それならきっと、ヒロくんのおじいさんも淋しがりやなのねえ」
 そうだった。忘れていた。
 おばあちゃんが言っていたじゃないか。おじいちゃんは淋しがりやだから、いつも気にかけてあげて――って。
 それなのに、ヒロくんは辛〔つら〕い思い出を早く忘れたくて、おじいちゃんを放ったらかしにした。あの日以来、一度もおじいちゃんに会いに行かなかったんだ。
 自分のことしか頭になくて、おばあちゃんの願い事まで忘れてしまっていた。今日だって、本当はおじいちゃんの家に行くはずだったのに……。
 だんだんしょんぼりするヒロくんを、おばあちゃんが心配そうにのぞき込んでいる。首を傾〔かし〕げているのは、どうしたの、と聞きたいからなのかな。
「本当は今日、じいちゃんの様子を見に行くつもりだったんだ」
「まあ。じゃあ途中で寄って、お花見に誘〔さそ〕って差し上げれば良かったわねえ」
「ダメだよ。じいちゃんはオレのことが嫌いなんだから」
 ヒロくんが投げた言葉を、おばあちゃんは優しく受けとめてくれた。
「どうしてそう思うの? おじいさんがヒロくんに嫌いだと言ったの?」
 忘れたくてもけっきょく忘れられなかった思い出を、ヒロくんはおばあちゃんに打ち明けた。おじいちゃんに叱られた日の出来事〔できごと〕を、不思議なくらい素直な気持ちで。
 おばあちゃんは、一言も聞き逃〔のが〕すまいと目を閉じてヒロくんの話に小さく何度もうなずいている。話し終わってヒロくんがため息をつくと、
「そうねえ。盆栽〔ぼんさい〕は難しくてね、肥料や水をやりすぎると、根が腐〔くさ〕れてしまうものもあるからねえ……」
 おばあちゃんがポツリとつぶやいた。
 最初は何だかわからずに、ヒロくんはあの日の光景を思い返した。おばあちゃんの形見の植木が《盆栽》だということも知らなかった。新しい発見に感心しながらも、ずっと引っかかっていた疑問を思い出した。
「でも、あの木、もう枯れてたぞ」
「じゃあ……治療中〔ちりょうちゅう〕だったのかも知れないわねえ」
 ヒロくんは、ようやく気づいた。おじいちゃんが言った《よけいなこと》に。
 おばあちゃんの形見は、庭の片隅〔かたすみ〕に隠すように置いてあった。おじいちゃんが、ヒロくんに触〔さわ〕らせないのとヒロくんに心配をかけないために、そっと隠しておいたんだ。ヒロくんが見つけられたのは、おじいちゃんも予測できなかった、ほんの偶然〔ぐうぜん〕だったんだろう。
 ヒロくんはおじいちゃんに何も聞かなかった。何も聞かないで勝手に水をやってしまったんだ。まだ助かるかも知れない植木をダメにしたんだから、おじいちゃんが怒るのも無理はないよ。ヒロくんが先に聞いていれば、きっとあんなことにはならなかった。
 おじいちゃんは、決してヒロくんを嫌いになったわけじゃなかったんだ。
 そうだ――ヒロくんはまた思い出した。
 おじいちゃんのことを、だれよりも一番理解していたのはおばあちゃんだった。だから、おばあちゃんの言葉に偽〔いつわ〕りがあるはずなかったんだ。
『おじいちゃんはヒロくんのことが大好きなのよ』
 たぶん、あの後も日曜日の度〔たび〕に、おじいちゃんはヒロくんが来るのを待っていた。お母さんの作ったお弁当をいっしょに食べて、二人で庭の手入れをするのを楽しみにしていたに違いないんだ。
 ヒロくんは大切な言葉を見失って、おじいちゃんの気持ちをこれっぽっちも考えようとしなかった。あんなにおばあちゃんが、おじいちゃんを大事にしてね――と、何度も何度も頼んでいたのに。
「今さら謝りに行ったって、じいちゃんは許してくれないな。オレがおばあちゃんの形見をダメにしたんだから」
「そんなことはありませんよ」
 小さなおばあちゃんが小さな手を伸〔の〕ばして、ヒロくんの胸に当てた。
「たとえ盆栽がだめになっていても、ヒロくんのおばあさんがいなくなったわけじゃありませんよ。ほらね、ここに、今でも生きているんです。ヒロくんの胸にも、おじいさんの胸にも、生きて二人を見守っていてくれるんですよ」
 おばあちゃんが手を離すと、ヒロくんは自分の両手を胸に当てた。とくん、とくん、と心臓の音がする。
「ここに?」
「そう。きっとヒロくんのおじいさんもわかっているはずですよ」
「そうか……そうなんだね」
 ヒロくんがうなずくと、おばあちゃんも応〔こた〕えてうなずいてくれた。
 おばあちゃんの笑顔を見つめるうちに、ヒロくんはやっと気づいたんだ。このおばあちゃんと話をしていると、気持ちがどんどん素直になれるのはどうしてか、いろんな思い出が蘇〔よみがえ〕るのはなぜかって。
 どことなく、ヒロくんのおばあちゃんに似ている気がした。顔とかじゃなくて雰囲気がふんわりしているところが。側にいると、何だか心が温かくなる。
 おじいちゃんにもこの気持ちを分けてあげたい――そう思ったヒロくんは、
「なぁ、ばあちゃん。明日も花見やんないか? オレ、弁当作るの手伝うし、もちろん荷物持ちに家まで迎えに行ってやっから」
 と、提案した。
 まったくヒロくんって唐突〔とうとつ〕なんだから。おばあちゃんが、きょとんとした顔をしているじゃないか。
「それで、明日はもう一人、花見友達連れてきてやるよ。それから、今年だけじゃなくって、来年も再来年も、ずっと」
 きょとんとしていたわりには、突然の申し出に困った様子もなく、
「ヒロくんの大好物〔だいこうぶつ〕はなぁに? 明日こさえてみようかしらねえ」
 と、おばあちゃんはニッコリ笑った。
 その笑顔はまるでヒロくんのおばあちゃんのように、優しくて、温かかった。
 ヒロくんはすっかり思い出した。おばあちゃんのことも、おじいちゃんのことも。それから、家族や友達を大切に思っていたころの、ヒロくん自身の心を。
 これから先、ヒロくんが見つめる桜は、今まで何も感じられずに眺めた地面の花びらよりも、もっとずっときれいで華〔はな〕やかに違いないよ。
 だって、それは今日という日の大冒険の勲章〔くんしょう〕なんだから。
−Fin−
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