おにのめにもなみだ
第四回エントリー作品  鬼の目にも涙
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 赤鬼太郎〔あかおに・たろう〕さんは、今日も金棒片手に出勤する。
 新婚ホヤホヤの奥さんから初々しい仕草で愛妻弁当を渡され、熱い眼差しで見送られた。いつまでも手を振る奥さんに金棒を振って応える。
 天気は良好。風は穏やか。頭の天辺の角アンテナが、今日はポツリとも来ないと感じていた。こりゃあ仕事が捗りそうだと、景気づけに素振りをかます。ウキウキと足取りも弾んだ。
 赤鬼太郎さん、職業=木彫り職人。けっこう芸術的な彼である。朝も早よから、材料調達に山まで出かけるのが日課。作品制作のため、極上の木材を探し求めて。なるほど。職人とは拘り深い。
 このように芸術家肌な太郎さんは、感受性が並外れて鋭い。『喜怒哀楽』のうち『哀』が最も刺激される体質らしいのだ。
 例えば、道端に花が咲いていたとする。それを繁々と見つめ、
「ああ、なんと可憐な花だろう」
 と溜息から始まって、延々と花の一生にまで想いを馳せ、やがて、
「こんなにか弱い花も懸命に生きているのだ」
 と涙する。
 その間、短ければ約三十分、長ければ約三時間。寄り道なくして山まで辿りつけた例なし。もちろん帰り道も然りである。奥さんの熱い眼差しの奥に、一抹の不安があったことは言うまでもない。
 あっ! 太郎さん、また何かを発見してしまった。道端に蹲っているところを見ると、飽きずに花か。それとも雑草か。
 いやいや。太郎さんの両腕で蠢いているのは、年端も行かない小さな子犬だ。真っ白い毛並みをして、つぶらな瞳が心もとなげに見つめてくる。ご主人様を探して、と眼差しで訴えかけていた。
 人の……もとい、鬼の良い太郎さん、哀れな子犬の切実な願いを無視できるわけがない。
「さぞかし心細いだろうになぁ」
 例の如く子犬の一生に想いを馳せているようだ。肩を震わせ涙ふきふき、キョロキョロと辺りの人影を窺う。
 と、近くの茂みが俄かに騒めき、突如小柄な塊が飛び出してきた。人相風体からして里娘。どうやら彼女が子犬のご主人様かも。
 そこで太郎さん、迷わず声をかけた。
「やあ、娘さん。ひょっとしてこの子をお探しではないのかい?」
 娘っ子、腕の中の子犬より先に、太郎さんの頭の天辺に目が引きつけられてしまった。
「ひいいいっ! 鬼だっ! 食われるー!」
 そんな馬鹿な。
 止めるのも聞かず、娘っ子は飛んで逃げ去った。子犬はポンと腕から飛び出し、彼女の後を追ってゆく。残された太郎さん、唖然。
 いつもこんな調子である。外見が少しばかり人間とは違うだけで、鬼族は随分と理不尽な扱いを受けてきた。取って食うどころか危害を加えた覚えは一切なく、親切心からの行動も全て裏目に出る。
 深々と溜息を吐き、太郎さんはトボトボと歩き始めた。本当は仲良くしたいのに、と常々思う平和主義で博愛主義な彼だった。
「何が悪いのかなぁ……肌の色が赤いからか? それともこの角か?」
 しかし猿の尻ほど赤くもない。ちょいと酒をかっ食らった程度の肌色だ。角は明らかに角だが……
 暗鬱な溜息と共に、太郎さんの足取りは重くなった。
 暫く行くと、見慣れたはずの風景が何やら様子が変わっている。おや。古くなった大木が倒れて、行く手を塞いでいた。ここは樵も猟師も通る道だから里の者たちも困るだろう。大騒ぎになる前に、片付けてしまうに限る。
 傍らに金棒と弁当を置き、早速使命に取りかかる。人知れず誰かの役に立つ事が、そこはかとなく嬉しい太郎さん。見返りなど全く念頭にはなく。
 感受性も豊かだが、実は力自慢でもあった。どっこいしょ、と片手で大木を抱え、邪魔にならない道の脇にドスーンと落とす。音を立てて地面が揺れた瞬間、とんでもない事態が湧き起こった。
 ああっ! 大切な愛妻弁当がっ!
 地の揺れに導かれ、すってんころりんと崖下目がけて突進し始めた。傾斜角度約八十五度の地形、ほぼ垂直降下である。そりゃもう物凄い勢いだ。
 躊躇なく、太郎さんは金棒を鷲掴み、自分も垂直降下した。途中出っ張った岩や木を足がかりに、テンポ良く跳ね降りてゆく。山に精通した彼ならではの離れ技だ。かなりの危険度が伴うため、慣れない人は真似をしてはいけません。
 愛妻弁当救出に命懸けの太郎さんは、あっという間に崖下へ到着した。そこは寂れた白砂の浜辺。漁師が干しておいた網の残骸などはあるが、肝心の包みが見当たらない。
 が、突然振り落ちた存在に驚愕し、身動きを封じられた様子の男が目の前に佇んでいた。彼の手に抱えられている物は、忘れもしない、愛する妻の心尽くしの品ではないか。何とか無事だ、助かった。
「ありがとう。あんたが拾ってくれたのか」
 漁師風のその男、腰に魚籠〔びく〕なんぞを携え、釣竿を所持している。あんぐりと口を開けているところを見ると、またもや頭の天辺に無駄な恐れを為しているのか。
 しかし、彼の場合は反応が違った。
「アンタ、鬼? 名前、何てぇの?」
 いきなり気安く話しかけてきたかと思うと、その場にドッカリと座り込む。不意を衝かれた太郎さん、
「はあ……太郎だが……」
 と弱々しく呟いた。
「ああ、そう。俺も太郎〔たろう〕。浦島〔うらしま〕村の漁師やってんだ。ところで……」
 浦島村の太郎とやら、包みに鼻を寄せてヒクヒクさせている。小鼻の動きに合わせて腹の虫がリズムカルに啼いた。
「こ、こ、これ、食い物か? いい匂いだなぁ……」
 腹の虫が一斉に合唱した。
「もう堪らん。いっただっきまーす!」
 叫ぶと同時に、浦島太郎は不躾にも包みを解き始めた。慌てた赤鬼太郎さん、愛妻弁当を取り返そうと手を伸ばす。
「わわわ、返してくれ、それは私の弁当だ。妻の愛情が篭っているのだぞ」
 正統な持ち主としては当然の主張だ。さりげなく余計な一言まで入れて惚気〔のろけ〕るのを忘れないのは、新婚ゆえのご愛嬌。
 ところが太郎、太郎さんの大きな手をピシャリと叩き、横柄に言い放った。ああ、ややこしい。
「こら、手ぇ出すな。これは空から俺の腕に降ってきた物だぞ。神様のお恵みなんだから俺の物だ」
「そんな理不尽な」
「理不尽もへったくれもあるか。ここんとこ漁が不調で獲物無し。飢え死に寸前の俺を神様が不憫に思ってくださったに違いない。アンタの妻の愛情なんざ知るもんか」
 これを聞いた太郎さん、浦島太郎の一生に想いを馳せてしまった。眉をハの字に歪め、うるうると瞳を潤ませる。力強く彼の肩を叩いて、
「そうとは知らず、私は何と心無い事を……」
 と腕で顔を覆った。そのまま何度も肩を叩く。心なしか、太郎が少し地面にめり込んだ。
「瀕死のあんたの役に立つなら、どうかこれで命を繋いでくれ」
 オーバーな。
 太郎はまるで聞き耳持たず、地にめり込んだのも肩がヒリヒリするのも忘れ、とっくの昔に大切な弁当を食い散らかしていた。
「やれやれ。これで何日かは生き延びられるな」
 よっぽど空腹だったのか、弁当包みの竹の皮まで食いつくし、彼は長々と溜息を吐いて腹を撫で擦っている。顔つきでは腹八分目といったところ。
 それを見ていた太郎さん、浜にゴミを捨てないとはなかなかのエコロジストだと感心する。と同時に、不遇な彼の現在の状況を憂えて表情を曇らせた。
「漁師とは大変な生業だなぁ。収穫がないとこんなにまで逼迫するとは」
 浦島太郎が心の中でニヤリとした。やにわに眩暈を起こしたと見せかけ、砂の上にやや身を横たえがちにして、太郎さんを上目で見つめる。
「そう。大変なんだぜ。魚が獲れなきゃオマンマの食い上げ。もう何日もこんな塩梅で、風に吹かれても飛ばされるぐらい痩せ細っちまった。こんな身体で海に出たら、とたんに波に攫われちまうだろうなぁ……困ったなぁ……」
 はらはら見守る太郎さんを一瞥すると、太郎は更に哀れっぽく続けた。
「ああ、今日漁に出ねえと、家で待ってる病気のおっかあもポックリ逝っちまいかねねえよ。どうしよう、困ったなぁ。海に出なくても済むように岩場に網を仕掛けておいたんだが、それすら見に行く気力がねえや……」
 駄目押しに軽く咳までして、彼は熱に浮かされた眼差しで太郎さんを見た。見た。見た。穴が開くくらい執拗に見た。ただ一つの言葉を待ち望んで。
 そうとは思いもしない太郎さん、怠け漁師の姦計に嵌り、仏心が湧き上がる。こうなれば誰にも止められない。己の本分を忘れ、彼は力強く言い切った。
「余りにも気の毒だ。よし! 魚が掛かっているか私が見てきてやろう。もし掛かっていれば網ごと持ってきてやるから安心しなさい」
 ばんざーい!! ――怠け太郎、密かに小躍り。如何にも済まなそうな声音を搾り出すと、
「すまねえ、アンタ良い鬼だ。俺、ここで待ってるから宜しく頼む。この御恩は一生忘れねえよ」
 心にもない言葉が滑り出る。
 良い鬼、の一言が、太郎さんの全身を震わせた。人間から暖かい言葉をかけられるなんて滅多にない出来事だ。一気に意識が天まで駆け上がる。何としても彼の力になろう、と勢い良く歩き出した。言葉の出所の気持ちなど知らない方が幸せなのだ。
「あ。漁場はそこの岩山を回り込んだとこだ。頼むよ。頼りにしてるから」
「ああ、わかった。あんたは具合が悪くなっちゃいけないから、余り動かずに、そこで大人しく待っていてくれ」
 寝そべりつつ尻を掻く太郎を残し、赤鬼太郎さんは颯爽と岩山に向かった。
 けれど。事はすんなりとは運ばなかった。
 岩山を回り込んだ先に小さな人だかりが。子供たちが何やらを叩き回している。近づいて覗き込むと、いたいけな海亀が餌食になっていた。彼らは夢中すぎて背後の存在にまだ気づいていない。
「こら。生き物を虐めちゃいけないぞ!」
 驚いて振り向いた子供たちの視線は、例外なく、太郎さんの頭上に釘付け。
「うわあぁっ! 鬼だっ! 食われるー!」
 またか。
 それよりも海亀が気がかりだ。飛んで逃げ去るガキどもを黙殺し、しゃがみ込んで甲羅に巻きついた網を取り払う。
「大丈夫かい? 怪我はないかい?」
 と、太郎さんは甲羅の穴を窺った。
 恐る恐る首を伸ばし、亀は目をしばたたかせる。微かに「違う」と呟いて、こっそり溜息を洩らした。
 呟きを聞き逃した太郎さんは、いつも持ち歩いている薬袋から傷薬を取り出し、傷だらけの彼に塗ってやったりしている。山道の必需品が思わぬところで役に立った。
「……ありがとう、ございます」
 亀は力なく礼を言う。不慮の計算違いに戸惑い、目まぐるしく考えを巡らせて。
 竜宮城の亀吉〔かめきち〕は乙姫〔おとひめ〕様付きの小姓である。と言うよりは苦情処理係。ワガママお姫様の無理難題に翻弄されてきた。
 先程、わざと子供たちに叩き回されていたのも、姫の難題があったればこそ。何の気紛れか、彼女は浜でフラフラする漁師の若造に岡惚れした。大義名分で彼を招待するために、助けてくれた恩人に仕立てるべく、叩かれながら待ち伏せていたのだ。毎日ここを通るという情報は確かだったはずなのに。
 浦島村の太郎を連れて帰らないと姫のお仕置きが待っている。粘着質な性格だから、きっと一晩中許してはもらえまい。近未来に待つ己の悲惨な姿を思い描き、亀吉は知らず、目から涙を零していた。
「ど、どうした? そんなに痛むのかい?」
 はっ、と我に返り、亀吉は太郎さんを見上げた。
「いいえ。こんな傷など、どうと言う事もありません。それより……」
 こうなりゃ何でも良い、手ぶらよりはマシだ。それに良く見りゃこの鬼、なかなかの男前ではないか。若く逞しく、見るからに善良そう。ケツっぺたの青い怠け者の浦島太郎なんかよりは、格段に乙姫様の好みに合う。彼を側に侍らせておけば、姫もおそらくお仕置きから気が削がれるだろう――という打算のもと、亀吉は太郎さんに視線を貼りつけていた。何と言っても、危ないところを助けてくれた恩人には違いない。
「本当にありがとうございます。ご親切な鬼さん、お名前は何と仰るので?」
 ご親切な、で気を良くした太郎さんは照れ笑いを浮かべ、やけに弾んだ声で名乗る。
「太郎だよ。山向こうの川の側に住んでいるから、良かったら今度遊びにおいで」
 ばんざーい!! ――小姓亀吉大喜び。歓喜の余り、山向こうの云々は聞いちゃいなかった。
 何という偶然か。彼は、浦島村の浜辺から太郎を連れてこい、と言われていたのだ。『浦島村の浜辺』で『太郎』なのだから、むしろ命令通り。乙姫のお仕置きを受ける謂れはない。
 だいたい浦島太郎の顔なんか知らんもーん、と亀吉は腹の中で毒づいた。角無しなのは確実だが、そこは聞いていなかったフリをしよう。
 身を乗り出し縋る眼差しを向ける亀吉に、太郎さんはやんわりと尋ねる。何だか切羽詰った素振りの彼がさっきから気になっていたから。
「おまえさん、何か困った事でもあるのかい? 私に出来る事があれば手助けをするが」
 いきなりドババ――と、滝の涙を流す亀吉に一瞬引きつつも、かなりの困窮具合だと察した太郎さんは、やっぱり亀の一生に想いを馳せてしまった。もらい泣きをして彼の手を握ってはみたが、
「痛い!」
 慌てて離す。
「すみません。余りに優しい御方なので取り乱しました。あなた様は命の恩人。きっと私の主人も快く迎える事でしょう。どうか私と共に竜宮城へいらしてください。せめてもの御礼をさせていただきたいのです」
 懇願の意で、亀吉が太郎さんの膝に手を置いた。
 今度は力任せに握ったりせず、そっと彼の手を取ると、太郎さんは柔らかい口調で諭す。
「おまえさん、いけないよ。そんなに気を遣っちゃ。私は当たり前の事をしただけなんだ。大袈裟に恩を感じる必要はない」
 と、遠回しな言い方で彼の誘いを辞退した。
 遠慮されても困ると亀も必死。お仕置きされるかどうかの瀬戸際だから呑気ではいられない。逃がしてはならぬ、と膝からにじり上がってきた。
「そんな事を仰らずに。このままお帰りいただいたとあっては、何と恩知らずな愚か者、と主人に叱られてしまいます。どうか私の顔を立てると思って竜宮城までついてきてください」
「いやいや。当然の行為で見返りを求めたとあっては鬼の名が廃る。おまえさんの気持ちだけで充分だよ。先程の子供たちがまた来るといけない。早く主殿のもとへ帰りなさい」
「どうか、どうか!」
 自ら顔を振り立てながら、亀吉が胸までにじり上がる。めいっぱい伸ばした首が太郎さんの鼻先にあった。
「竜宮城には滅多な事では行けませんぜ、旦那。この機会を逃したら後悔しますって! 何しろ竜宮御殿は夢の国。美しい乙姫は目も覚めるほど麗しく、夜のお供なら色っぽい御女中からも選り取り緑。珍しい御馳走に愉快な出し物も盛り沢山で、飲めや歌えのドンチャン騒ぎが連日連夜と来りゃ命の洗濯になる事間違いなし! 今回は特別に秘宝のお土産もお付けしましょう。尚、時間不問の送迎付き、飽きたらいつでもお帰りいただけます。もちろん費用は一切当方持ちですから決して損はさせません。どうです? お一つ?」
 誘惑を口元から溢れさせ、亀吉が囁いた。
 しかし、彼は価値観の相違というものに気づいていない。太郎さんはにっこりと笑みを浮かべ、飽くまでも彼の誘いを断った。
「ほう、それは随分楽しそうな所だ。けれど申し訳ないが、私の妻は三国一の美女だから他の女性は皆色褪せるだろうし、妻の手料理に勝る御馳走など私には考えられないよ。誰か他の方を誘ってみてはいかがかなぁ」
 新婚夫、惚気ゼリフ炸裂である。
 亀吉は脱力して、太郎さんの胸からも膝からもずり落ちた。捨て身で駆使した勧誘フレーズが全く効かないなんて。世の中に彼ほど真っ当で世界の狭い者がいるだろうか。何よりも、これほどまでに善良な鬼を騙したとあっては心苦しい……己の境遇と太郎さんを比較し、ジレンマに苦悶した。
「さ。おまえさんの帰りが遅くて主君が心配しているといけない。早く主殿のもとへ帰った方がいいよ。傷を癒す為にも、事情を話してゆっくり休ませてもらいなさい。子供たちに気をつけて」
 太郎さんに引導を渡され、亀吉はすごすごと海へ向かう。途中何度も振り返りながら、やはり初志貫徹しかない、と浦島太郎を引っかける算段を練り直した。また先程の子供たちに叩き回されようか、宝物を与えて叩く演技をしてもらおうか、太郎が発見する前に叩き殺されては元も子もないから。などと考え込むうち、彼の気分はどうにかこうにか立ち直った。
 海に突入し、徐々に沖へ遠ざかる亀吉に、太郎さんは心を篭めて手を振った。彼が無事に主君のもとへ辿り着けるように、傷が早く治るように祈って。
 すると、波間に見え隠れして彼もこちらに手を振っているではないか。名残惜しげに、いつまでも、いつまでも。
 何と義理堅い亀だろうか! 太郎さんは俄かに胸が熱くなり、咽び咽び感動の涙を流した。
 実は亀吉、恩人の目につくところで再び叩き回されるわけには行かないと、早く立ち去ってください、という意味で手を振っていた。亀の心、鬼知らず。太郎さんが気づく由もない。
 仄々とした心の高揚を噛み締めて、首尾よく用事を済ませると急ぎ戻る。予想外に時間を食ったせいか、浜で待つはずの太郎の姿はなかった。
 見渡す視界に仕事中の老人を見つけて尋ねたところ、太郎はとうに帰った、と愛想良く答えてくれた。今にもおっ死にそうな御老体は、どうやら視力に疎いらしく頭の天辺を見ても顔色一つ変えない。
 そこで伝言を頼む。魚は一匹も掛かっていなかったから網はそのままにしておいた、と。
 けれど本当は別の理由があった。やたらと藻が絡みついていて、仕掛けから網を外せなかったのだ。誰が見ても相当な期間放置されていたのは明白。が、太郎さんは漁については全くの素人ゆえ、そういうものだと思ってしまった。餅は餅屋とは限らない。怠け漁師に釣られるような間抜けな魚〔とと〕は、この海にも何処の海にもいやしない。
 それどころか、太郎さんが漁場に出かけた直後、太郎は通りすがりの尻軽女に軽々と誘われ、いとも簡単に釣られていった。奴は漁師のくせに、釣らずに釣られていたのだ。
 心底怠け者の浦島太郎。今日だけは予定通り漁場に赴くべきだった。彼にとっては、宝くじが当たるよりも確実な大幸運が待ち受けていたのに。狙いが外れなければ亀吉だってお仕置きの心配をしなくても良かった。運命とは皮肉なものだ。
 辺りは茜に包まれて、太陽が波に別れを告げてゆく。余りの美しさに太郎さんは涙した。暫く余韻に浸って、はたと気づく。
 しまった。今日も仕事が捗らなかった……
 
 山向こうの、川の側の家。夕餉の煙が立ち昇っている。とっぷり日も暮れた風景に、暖かい灯りが揺らめいていた。
「只今帰ったよ」
「お帰りなさいませ」
 迎えるのは新妻の熱い抱擁と接吻。太郎さんは鼻の下をやや伸ばし、いつものように今日の出来事を語って聞かせる。一人淋しく家で待つ奥さんが哀れで、少しでも気晴らしになるかと思って。
 ニコニコ笑顔で奥さんは聞いている。合いの手代わりに、あなた御飯が先? お風呂が先? お背中流しましょう、なんぞとくすぐったいことを言いつつ。絵に描くより明確な、古典的新婚夫婦だ。
 楽しげに語る夫の話を、すっかり聞き終わった奥さんは、
「あなた、今日も良い事をなさいましたねえ」
 と、にっこり。
 刹那、太郎さんの涙腺は大爆発。愛しい妻の一生に想いを馳せてしまった。しかし、彼は奥さんに寄ると触ると必ずこうなるので、さして珍しくもない。
 幸せな太郎さんは、奥さんに「よしよし」と頭を撫でられ、この後、共に食事をして共に風呂に入り、「お背中流しましょう」どころではなくなるに違いない。そして、一番鶏が朝を告げるまで二人で仲良く布団に包まり、奥さんの一生をもっと潤いのあるものにしようと、力いっぱい頑張るのである。
 朝になれば、赤鬼太郎さんは寝不足でも、金棒片手に出勤する。妻に不自由をさせないために、一家の主として、夜だけでなく昼も頑張らなくてはならないのだ。
 たとえ仕事が捗らなくても、職場に辿り着けなくても。いつもの愛妻弁当を持って、愛しい奥さんに熱い眼差しで見送られて。
 道行く諸々の一生に、うっかり想いを馳せながら。
 
 鬼の目にも涙――無慈悲な者にも稀に仏心が生じることの喩えだが、理不尽に弱いもの虐めをする輩や平気で他者を騙す者に比べれば、遥かに赤鬼太郎さんは情に溢れている。多少ズレてはいても。
 これからは、
『人の目にも涙』
 と、言うべきではなかろうか。
−完−
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